迫り来る時間
六月に入ってから、時間の流れが少し早くなった。
完全休養日の翌日。
昼休みになると、篠宮が桜庭のスマートフォンを覗き込んでいた。
画面に映っているのは、昨日のゲームセンターで撮った写真だった。
白いクマのぬいぐるみを抱えた桜庭と、
その隣に立つ神代が写っている。
「これ気に入ってるね」
「うん」
桜庭は迷わず答える。
「怜司くんに取ってもらったから」
「それ、昨日から何回聞いたかな」
「まだ三回くらいじゃない?」
「数えてるんだ」
神代は少し離れた自席で二人の会話を聞いていた。
「そんなに珍しいぬいぐるみなの?」
桜庭が振り返る。
「そういう問題じゃないの!」
「じゃあ何?」
「……もういい」
「最近みんなそればっかり言うな」
篠宮が笑った。
休日が終われば、またいつもの学校生活と野球が始まる。
ただ、以前と全く同じではなかった。
昼休みに桜庭や篠宮が話しかけてくることは増えた。
廊下で千夏や天城と会えば自然に言葉を交わす。
九条や黒崎たちも、休日を一緒に過ごした四人と以前より話すようになった。
神代自身は、その変化を特別なものとは考えていなかった。
話す相手が少し増えただけ。
その程度の認識だった。
そして六月は進んでいった。
気温が上がり、雨の日も増えた。
朝からグラウンドが使えず、室内練習場で一日を終える日もある。
野球部にも、横浜星央戦後に始めた新しい習慣が少しずつ定着していた。
打席へ入る前に相手を見る。
ベンチへ戻れば、気づいたことを一つか二つだけ伝える。
誰かが出塁して戻れなくても、次の打者が自分で観察する。
情報を信じすぎない。
相手も変えてくることを前提にする。
最初は意識してやっていたことが、
少しずつ当たり前になっていく。
黒崎のスライダーも変わっていた。
ブルペン。
朝倉が捕球したボールを黒崎へ返す。
「今のは分かりにくかった」
「ほんまか?」
「ストレートとほとんど変わらなかった」
黒崎がもう一球投げる。
朝倉の後ろでは橘が見ていた。
「俺も今のは分からなかった」
黒崎が少し笑う。
「ええ感じやな」
以前なら、そこで神代を見るところだった。
だが黒崎は見ない。
もう一球投げる。
今度は少し抜けた。
「今のは?」
「腕の振りより、身体の開きが早かった」
朝倉が答える。
「俺もそう見えた」
橘が続けた。
「ほな、もう一回や」
黒崎は自分で考え、投げる。
神代は少し離れた場所で自分の打撃練習をしていた。
途中で一度だけブルペンを見る。
それだけだった。
九条が気づく。
「言わなくていいの?」
「何を?」
「大雅のスライダー」
神代はもう一度だけ黒崎を見る。
「今はいい」
「なんで?」
「多分、自分たちで分かる」
その言葉通り、数球後には黒崎が自分で修正していた。
九条が少し笑う。
「前なら絶対口出してたよな」
「そうかも」
「変わったな」
「大雅たちが?」
「お前も」
神代は答えなかった。
水城も同じだった。
自分の間の取り方が打者に慣れられれば、
その場で変える。
以前のように、長く持つ、早く投げるという二択だけではない。
セットに入るまでの時間。
視線。
呼吸。
足を上げるタイミング。
打者がどこを見ているのか。
少しずつ使えるものが増えていた。
打線でも、九条や白石を中心に情報共有が自然になっていく。
十一人は確実に変わっていた。
だからこそ、六月に行われた最初の練習試合で負けた時、誰も簡単には受け入れられなかった。
4対5。
一点差。
相手は都内の私立、東和学院だった。
強豪ではある。
だが横浜星央ほどの実績がある学校ではない。
試合後。
ベンチには微妙な空気が残っていた。
黒崎がタオルを首にかけたまま言う。
「なんで負けんねん」
誰もすぐには答えない。
神代はスコアを見ていた。
今日の蒼凛は、横浜星央戦後に始めた情報共有をかなり使っていた。
ただし。
使いすぎた。
「三回くらいから、情報増えすぎてたな」
白石が言った。
九条も頷く。
「前の打者が言ったこと気にしすぎて、自分で見なくなってた」
御堂も続ける。
「俺も一打席あった。外の変化球が多いって聞いて、それ待ちすぎた」
神代は黙って聞いている。
横浜星央戦後、自分たちが作った方法。
それを使えば勝てるわけではない。
情報が増えれば、判断材料も増える。
だが多すぎれば迷う。
黒崎が息を吐く。
「新しいこと覚えたら強なると思ってたわ」
榊原監督が答える。
「そんな簡単ならどこも負けん」
その日の反省から、共有する情報はさらに絞られた。
使うかどうかは打者本人が決める。
前の打者の答えではなく、判断材料の一つ。
また一つ、方法が変わった。
次の練習試合。
相手は都立長峯高校。
蒼凛は勝った。
6対2。
先発した水城は、二巡目に入って相手打線の待ち方が変わったことに気づくと、自分から投球テンポを変えた。
ベンチへ戻っても神代には聞かない。
朝倉と話し、次の回にはさらに別の間を使う。
打線でも九条が最初の打席で感じた投手の特徴を伝え、白石がそれを使って出塁した。
だが三番の御堂は、その情報をそのまま使わなかった。
自分の目で見て、違うと判断したからだ。
結果はセンター前ヒット。
神代はベンチからそれを見ていた。
以前なら、全員へ同じ情報を渡そうとしていたかもしれない。
だが今は違う。
同じ情報を持っていても、使い方は選手によって違う。
それでいい。
試合終了後。
黒崎が満足そうに言った。
「今月はこれで1勝1敗やな」
九条が返す。
「練習試合の勝敗数えてどうすんだよ」
「負け越しは気持ち悪いやろ」
「また気持ちの話してる」
「大事やろ!」
そして六月の三試合目。
相手は私立昭永高校。
黒崎が気にしていた負け越しは、決まった。
3対4。
蒼凛は負けた。
三回を終えて0対2。
四回に九条の二塁打をきっかけに一点を返し、六回には神代のセンター前ヒットから同点。
七回表には御堂の犠牲フライで逆転した。
3対2。
そこまでは悪くなかった。
問題は終盤だった。
八回裏。
先頭打者を四球で出す。
送りバント。
一アウト二塁。
次打者の打球はライト前へ抜けた。
二塁走者がホームを狙う。
御堂が返球。
僅かに逸れた。
同点。
次打者はセカンドゴロ。
その間に走者が三塁へ進む。
二アウト三塁。
次の打者の打球はショートへの緩いゴロだった。
九条が前へ出る。
捕球し一塁へ送る。
僅かに間に合わない。
その間に三塁走者がホームを踏んだ。
3対4。
続く打者はレフトフライ。
三アウト。
九回表。
蒼凛は二アウトから神代が四球で出塁した。
続く九条も粘って四球。
一、二塁。
一打同点。
長打なら逆転。
だが白石の打球はセンター正面へ上がった。
試合終了。
ベンチへ戻る十一人の声は少なかった。
神代も最後までグラウンドを見ている。
今日の敗戦には、大きな失敗があったわけではない。
一つの四球。
一つの返球。
一つの内野ゴロ。
一つ一つなら、どこにでもある。
それが同じ回に重なった。
黒崎がベンチへ座る。
「また負けた」
水城も隣に座った。
「今月1勝2敗だね」
「言わんでええ」
「大雅が数えてたんじゃん」
「勝ち越すつもりやったからや!」
いつもなら誰かが笑う。
だが今日は笑いが小さい。
夏の大会が近いことを、全員が分かっていたからだ。
神代がスコアを見る。
3対4。
横浜星央戦も負けた。
六月に入ってからも二度負けた。
練習試合。
公式戦ではない。
計画上の無敗には何の影響もない。
それでも、負けたという事実は消えない。
九条が神代の隣へ来た。
「怜司」
「何?」
「大丈夫だと思う?」
神代が九条を見る。
質問の意味は分かっている。
夏。
一年生十一人。
負ければ終わりの大会。
神代は少し考えた。
「大丈夫とは言えない」
九条が僅かに意外そうな顔をした。
「言わないんだ」
「ああ」
神代はもう一度スコアを見る。
「でも、負けた原因は分かってる」
「じゃあ大丈夫ってことじゃないの?」
「違う」
神代は首を振る。
「分かってることと、直せることは別だろ」
九条が黙る。
「夏までに直す」
「間に合う?」
神代は少しだけ考えた。
「間に合わせる」
六月はさらに進んだ。
雨の日が増えた。
湿った土。
室内練習場に響く打球音。
制服の袖を捲る生徒も増え、教室では期末試験の話題も聞こえ始めている。
そして気づけば、六月も終わりに近づいていた。
放課後。
十一人が部室へ集められた。
榊原監督の前には一枚の紙が置かれている。
黒崎が聞く。
「なんですか?」
榊原監督は十一人を見る。
「夏の西東京大会についてだ」
空気が変わった。
狛谷、横浜星央との練習試合。
六月の三試合。
全部、ここへ向かうための時間だった。
「組み合わせ抽選は来週だ」
誰も喋らない。
「大会が始まれば、もう練習試合じゃない」
榊原監督が続ける。
「一度負ければ、その時点で今年の夏は終わる」
神代は黙って聞いていた。
中学三年の夏。
自分から大会を捨てた。
全国まで行ける可能性があった。
それでも出なかった。
全ては、この高校三年間のためだった。
だが今度は違う。
自分から捨てることはない。
そして、誰かに終わらされるつもりもない。
神代は机の上に置かれた大会資料を見る。
高校一年目。
最初の夏。
三年間、一度も公式戦で負けない。
その計画が、本当の意味で始まろうとしていた。




