眠れる左腕
数日後。
静岡県。
地方大会が行われている市営球場のスタンドで、朝倉蓮は神代怜司から渡された資料を見ながら首を傾げていた。
「怜司。本当にこいつ?」
「ああ」
「水城湊。左投左打。身長179センチ、体重64キロ……」
ページをめくる。
「最高球速は、やっぱり128キロか」
「そうだ」
「黒崎の次が?」
「ああ」
「146キロから128キロ?」
「何か問題ある?」
「18キロも球速落ちてるじゃん」
神代はグラウンドを見たまま答えた。
「球の速い投手だけを集めてるわけじゃない」
「まあ、それは分かるけどさ」
朝倉は資料を九条颯真へ渡した。
九条も一通り目を通す。
「うーん、成績も普通だな」
「防御率2点台。県大会止まり。全国経験なし。強豪校からの推薦もほぼなし」
朝倉が言う。
「じゃあなんで候補に入ったの?」
神代は答えなかった。
「見れば分かるさ」
九条が笑う。
「またそれかよ」
三人がグラウンドを見る。
水城のチームが守備についた。
マウンドへ細身の少年が歩いていく。
背は高い。
しかし黒崎のような威圧感はない。
身体も細い。
ユニフォームにもまだ余裕がある。
投球練習が始まった。
一球目。朝倉が黙る。二球目。
少しだけ前のめりになる。三球目。
「……ん?」
神代が横目で見る。
「何?」
「いや」
朝倉は水城の投球を見る。
「なんか変だな」
神代の口元がほんの少し動いた。
「何が?」
「まだ分からないけど」
九条が二人を見る。
「捕手同士だけで会話するなよ」
「俺は投手だけど」
「お前は何でもやるからややこしいんだよ」
そして試合が始まった。
水城の初球。ストレート。
表示は――124km/h。
打者が振る。ファウル。
朝倉の眉が動く。二球目。121km/h。
見逃し。三球目。126km/h。
空振り三振。
「……やっぱり」
朝倉が呟いた。
神代が聞く。
「どう見える?」
「速い」
九条がスピード表示を見る。
「126キロだぞ?」
「分かってる」
「じゃあ何が速いんだよ」
朝倉は少し考える。
「あの球は打者からしたら、もっと速く感じると思う」
神代が初めて朝倉を見る。
「俺もそう思う」
二人目。
初球。ストレート。123km/h。
打者が詰まる。セカンドゴロ。
三人目。初球は125km/h。ファウル。124km/h。空振り。
最後は緩いカーブで三振。
三者凡退。
九条が言う。
「確かに変だな」
「分かった?」
朝倉が答える。
「黒崎みたいに速い球を投げてるわけじゃない。でも打者が準備できてない」
神代はノートに記録していた。
平均球速 124.1km/h。
その横に『体感速度との差 大』と記した。
二回。
水城が投げる。
九条は投手ではなく打者を見ていた。
そして気づく。
「怜司」
「何?」
「腕じゃない?」
神代のペンが止まる。
「続けて」
「こいつ、左腕が見えるの遅い」
朝倉も水城のフォームを見る。
右足を上げる。身体が少し閉じる。
グラブ側の肩が打者へ向く。
左腕は身体の後ろ。踏み込む。身体が開く。
その瞬間になって初めて――
ボールが見える。
朝倉が言った。
「なるほど」
九条。
「打者からすると、いきなり球が出てくる感じか」
神代が頷く。
「それだけじゃない」
「まだあるの?」
「投げるまでの時間」
三人は水城を見る。セットポジション。
止まる。投げる。次。セット。
今度は少し早い。次。長い。
朝倉が気づいた。
「毎回違う」
「ああ」
「わざとやってるのかな?」
「それを確認したい」
神代はストップウォッチを動かした。
試合はそのまま進んだ。
水城は圧倒的ではない。
三振ばかり奪うわけでもない。
ヒットも打たれる。四球も出す。
それでも大量失点はしない。
六回を終えて1失点。
しかし水城のチームも一点しか取れていなかった。1対1。七回。
先頭打者。ショートゴロ。エラー。
無死一塁。次打者。送りバント。
一死二塁。三番。レフト前。
一死一、三塁。水城がマウンドで息を吐く。
神代はじっと見ている。
「疲れが出始めたな」
球速表示。121km/h。次。120km/h。
明らかに落ちている。
四番打者への初球。ファウル。
二球目。ボール。三球目。打った。
三塁線に強烈なゴロ。
サードが弾く。
三塁走者生還。一点が入る。記録はエラー。
1対2。
さらに一死一塁、二塁。
水城はマウンドから三塁手を見る。
三塁手は俯いている。
水城が声をかけた。
「大丈夫!」
そして笑った。
「次取ろう!」
神代の視線が、水城から三塁手へ移る。
三塁手が顔を上げる。
「悪い!」
「いいって!」
水城は再び打者を見る。
神代がノートに一つ書き加えた。
『性格 ○』
九条がそれを見る。
「へえ、そこも評価するんだ」
「十一人しかいないからな」
神代は言った。
「上手いだけじゃ困る」
だが、その後。
水城は捕まった。
疲労で制球が甘くなり、連打。さらに一点。
1対3。そのまま変わることはなく、
試合は終了した。
水城の中学最後の大会が終わった。
球場の外。
三人は少し離れた場所で水城が出てくるのを待っていた。
朝倉が聞く。
「評価は?」
「高いな」
「負けたけどな」
「だから?」
朝倉が笑う。
「いや。言うと思ったけどね」
九条が聞く。
「どこまで行くと思ってるんだ?」
神代は少し考える。
「高校三年で最速150キロ前後」
朝倉と九条が同時に神代を見る。
「は?」
「本気なの?」
「ああ」
九条が資料を見る。
「今128キロだぞ?」
「知ってる」
「三年間で20キロ以上も球速上げられるの?」
「可能性は十分ある」
神代は水城の身体を思い出す。
179センチ。64キロ。確かに細い。
それに下半身もまだ弱い。
フォームも完成していない。
それでも最速128キロ。
しかも、打者にはそれ以上に速く見える。
「身体ができてないだけだ」
神代が言う。
「筋力も足りない。下半身も使えてない。それでも128キロ出てる」
朝倉が考える。
「身体作ってフォームも改善したら……」
神代は言った。
「かなり伸びる」
しばらくして水城が一人で球場から出てきた。
神代が歩き出す。
朝倉と九条もそれに続く。
「水城湊」
呼ばれた水城が振り返る。目が少し赤い。
「……俺のこと?」
「ああ」
「誰?」
「神代怜司」
「知らない」
「そうか」
九条が小声で朝倉に言う。
「これ何回繰り返すんだろうな」
「全員じゃない?」
神代は二人を無視して続ける。
「高校は決めてるのか?」
「まだだけど」
「なら蒼凛学園に来ないか」
水城が固まる。
「……何の話?」
「野球部の話」
「スカウト?」
「そう」
水城が周囲を見る。大人はいない。
目の前にいるのは自分と同年代の少年三人。
「君が?」
「ああ」
「なんで?」
「欲しいから」
「俺を?」
「そう」
水城は思わず笑った。
「今日負けたんだけどなあ」
「見てた」
「三点も取られたよ」
「それでも自責は一点」
水城の笑みが消える。
神代が続ける。
「六回までは被安打3。四球2。球速は平均123から124くらい」
「……」
「七回に入って疲れて下半身が使えなくなった。そこから平均球速が3キロくらい落ちた」
水城が神代を見る。
「ずっと見てたの?」
「ああ」
「なんで?」
「お前を見に来たからだ」
水城は困ったように頭を掻いた。
「でも俺、そんなすごい投手じゃないよ」
「知ってる」
「そこは否定してよ」
朝倉が吹き出す。
神代は続ける。
「今はな」
水城が神代を見る。
「今は?」
「三年後は違う」
「どういうこと?」
神代は即答した。
「お前は全国トップクラスの左腕になる」
沈黙。水城が笑った。
「いやいや、それはないでしょ」
神代は真顔だった。
「何?」
「最高128キロだよ?」
「知ってる」
「全国トップって」
「球速の話だけじゃない」
神代が一歩近づく。
「お前のストレートは数字より速い」
水城の表情が変わった。




