反省
試合後の挨拶を終え、蒼凛の十一人が一塁側ベンチへ戻る。
誰もすぐには口を開かなかった。
今回は練習試合であり、公式戦ではない。
負けても大会が終わるわけではなく、明日からまた練習ができる。
それでも、勝った時とは明らかに空気が違った。
黒崎はベンチへ戻るなり、悔しさをあらわにした。
「くそっ」
小さな声だった。
だが、近くにいた神代には聞こえていた。
七回裏に2対2から三点を失った。
自分が抑えていれば、その後に神代のホームランが出ている。
単純に考えれば、少なくとも試合の形は全く違っていた。
「俺が抑えとったら……」
黒崎が呟く。
水城が隣へ座った。
「僕も二点取られてるけどね」
「せやけど、追いついてもろたやろ」
黒崎は顔を上げない。
「そっから三点取られたんは俺や」
水城は何も言わなかった。
少し離れたところから二人を見ていた神代が近づく。
「大雅」
「なんや」
神代はすぐに自分の考えを言わなかった。
「どこが一番駄目だったと思う?」
黒崎が顔を上げた。
少し前なら、神代の方から問題点を並べていたはずだった。
黒崎もそれが分かったのか、一瞬だけ怪訝そうな顔をする。
それからスコアボードへ視線を戻した。
「……ストレートや」
「どうして?」
「向こうが慣れてきとるんは分かってた」
六回から、横浜星央の打者は明らかに変わっていた。
無理に黒崎のストレートへ振り勝とうとせず、バットを短く持ってファウルにする。
球数を増やし、タイミングを合わせ、甘く入る球を待つ。
「分かっとったのに、最後まで押し切れると思っとった」
黒崎が右手を握る。
「俺の一番ええ球はストレートや。それは変わらへん。でも、それしか怖くないって思われたらあかん」
神代は頷いた。
「俺もそう思う」
「……それだけか?」
「大雅がもう分かってるなら、それ以上言うことないだろ」
黒崎が神代を見る。
「ほんま最近それ多いな」
「何が?」
「自分で考えろみたいなん」
「その方がいいと思ったから」
「前まで聞いてへんことまで全部言うてきたくせに」
水城が笑う。
「僕は今の方がいいと思うけどね」
「湊はどこが駄目だった?」
突然聞かれ、水城が自分を指差した。
「僕?」
「ああ」
水城は少し考えた。
「二巡目かな」
マウンドへ視線を向ける。
「一巡目は僕のタイミングのずらし方で相手も対応しきれてなかった。でも二巡目から、向こうが待ち方を変えてきた」
「それだけ?」
「多分、僕一人を見て変えたんじゃない」
神代が水城を見る。
「どういうことだ?」
「ベンチも含めて変わってた気がする」
その言葉に神代の視線が僅かに動いた。
そこへ榊原監督の声が飛ぶ。
「全員、集まれ」
十一人がベンチ前へ集まった。
榊原監督はしばらく選手たちを見渡した。
「負けたな」
誰も返さない。
黒崎だけが僅かに唇を噛んだ。
「今日、覚えておいてほしいことがある」
榊原監督がグラウンドへ目を向ける。
「横浜星央は、何か奇抜なことをして勝ったわけじゃない」
四球を選ぶ。
走者を進める。
盗塁を狙う。
必要なら進塁打を打つ。
外野フライでも一点を取る。
守備では打球へ早く入り、簡単に次の塁を与えない。
そして、一人の打者が得た情報を次の打者へ渡していた。
「一個一個なら、お前たちにもできることばかりだ」
十一人が黙って聞く。
「実際、個人で見れば通用した部分は多かったはずだ」
水城は4回2失点。
黒崎も途中までは強豪校の打線を力で押していた。
そして神代は久我を三球三振に仕留めた。
打線は相馬から三点を奪い、最後の一点は神代のホームランだった。
一つ一つを切り取れば、戦えている。
それでも負けた。
「横浜星央は、一人の打席を一人だけのものにしていなかった」
榊原監督が続ける。
「前の打者が見たものを次の打者が使う。次の打者がまた情報を増やす。それを九人で続けていた」
神代は黙って聞いていた。
自分も相馬をベンチから見続けた。
九回の打席では、その情報を使ってホームランを打った。
だが、それは神代個人がやったことだ。
そして横浜星央は違った。
一人が得たものを、チーム全体で使っていた。
「お前たちは一年生としては能力が高い」
榊原監督が言う。
「一年生十一人でここまで戦えるんだ。それは間違いない」
そこで一度、言葉を切った。
「だが、強い選手が十一人いることと、強いチームであることは同じじゃない」
神代の目が僅かに細くなる。
その言葉だけが、他より深く残った。
強い選手を集め、その選手たちをさらに強くする。
これまで神代が考えてきたことの多くはそこにあった。
だが、十一人全員の能力を上げれば、それだけで最も強いチームになるのか。
今日の試合を見る限り、答えは違う。
「今日見つけたものを忘れるな」
榊原監督が十一人を見る。
「以上だ。片付けろ」
「はい!」
十一人の声が重なった。
試合後の片付けが進む。
グラウンドの反対側では、横浜星央の選手たちも帰る準備を始めていた。
神代がバットをケースへ入れていると、後ろから声をかけられた。
「神代」
振り返る。
相馬だった。
「はい」
相馬は神代の顔を見る。
「最後の打席、聞いていいか?」
「何ですか?」
「最初の二球」
相馬が右手でボールを握るような仕草をする。
「見逃したのか。それとも手が出なかったのか?」
神代は少し考えた。
「見てました」
相馬の眉が僅かに上がる。
「何を?」
「相馬さんが、俺にどう投げるか」
「たった二球で?」
「それで十分でした」
相馬は数秒黙ったあと、小さく笑った。
「やっぱりな」
神代は相馬を見る。
「何がですか?」
「二球目を投げた時、追い込んだ感じがしなかった」
0ボール2ストライク。
普通なら圧倒的に投手有利なカウント。
それでも相馬は、打席の神代から焦りを感じなかった。
「それで三球目をストレートにしたんですか?」
「それだけじゃないけどな」
相馬は答え、それから神代を真っすぐ見る。
「次は打たせない」
「次があれば」
相馬が笑った。
「あるだろ」
神代は黙る。
「甲子園で」
一瞬だけ、神代の視線が変わった。
八回にマウンドへ上がった時、自分も同じ可能性を考えていた。
だから球種も出力も制限した。
「そうですね」
「その時は今日みたいにはいかないからな」
「俺も今日と同じではないと思います」
「一年でそれを言うか」
相馬は笑いながら横浜星央の選手たちの方へ戻っていった。
その少し離れた場所。
黒崎が荷物をまとめていると、今度は久我が近づいてきた。
「黒崎」
「なんですか?」
黒崎は少し警戒するように見る。
久我は淡々と言った。
「お前のスライダー、悪くなかった」
黒崎の眉が動く。
「慰めですかね?」
「違う」
久我は即答した。
「俺の時に投げた球は打ちにくかった」
黒崎は七回より前の対戦を思い返す。
スライダーを打たせ、セカンド正面。
そこからダブルプレーになった。
「せやったら、なんで三点取られたんやろな」
久我は少しだけ横浜星央のベンチを見る。
「俺一人を抑えても、うちは九人いるから」
黒崎が黙った。
「ストレートもいい。でも後半はみんな見慣れてた」
「……分かっとります」
「なら次は変わってるな」
久我はそれだけ言うと離れていった。
黒崎はその背中を見送る。
「当たり前や」
小さく呟く。
「次やったら絶対抑えたる」
片付けがほぼ終わった頃、フェンスの外から声が聞こえた。
「怜司くん!」
神代が振り向く。
桜庭がこちらへ歩いてくる。
その後ろには篠宮、千夏、天城もいた。
「ホームランすごかった!」
「一本打っただけだよ」
「その一本があれなのがおかしいの!」
天城が横から口を挟む。
「私もそれは桜庭に同意」
「でしょ!」
なぜか桜庭が得意そうな顔をする。
「お前が打ったわけじゃないだろ」
神代が言う。
「いいの!」
篠宮が苦笑しながら神代を見る。
「でも、惜しかったね」
「ああ」
神代の返事は短かった。
桜庭が何か言おうとして、ふと別の方向を見る。
少し離れた場所で黒崎が一人、ボールを握っていた。
「黒崎くん、元気ないね」
神代もそちらを見る。
「三点取られたから――」
そこまで言って、言葉が止まる。
それは事実だ。
だが、なぜ桜庭がそれを見て「元気がない」と感じたのか。
神代はもう一度黒崎を見る。
悔しい。
おそらく、それだけではない。
自分が抑えていれば勝てたかもしれない。
その感覚を黒崎はまだ引きずっている。
「……かなり悔しいんだと思う」
桜庭が神代を見る。
「うん。そんな感じする」
神代は何も言わなかった。
近くでは天城が鷹野を見つけて声をかけていた。
「鷹野」
「何?」
「七回にセンター前打った時、一塁まで何秒?」
鷹野が少し考える。
「測ってない」
「測ってないの?」
「試合中だからな」
「今度測ろうよ」
「なんだそれ」
天城の目が少し楽しそうに変わる。
「じゃあ決まり」
「何が?」
「今度走る時」
「勝手に決めるなよ」
「嫌なの?」
「嫌とは言ってない」
少し離れたところで千夏と篠宮がそのやり取りを見ていた。
「天城さん、ほんと走ること好きなんだね」
千夏が言う。
篠宮が笑う。
「神代くんとも勝負してたしね」
しばらく話したあと、やがて四人も帰っていった。
グラウンドには、片付けを終えた蒼凛の選手たちだけが残る。
神代はもう一度スコアボードを見上げた。
3対5。
公式戦ではない。
三年間、公式戦で一度も負けないという計画には何の影響もない。
横浜星央について得られた情報も多かった。
相馬の球も見た。
久我とも対戦した。
水城と黒崎の課題も見えた。
収穫だけを考えれば、十分だった。
すると、隣に朝倉が来る。
「何見てるの?」
「スコア」
「それは見れば分かる」
神代は少し黙った。
自分でも、なぜまだ見ているのか分からなかった。
合理的に考えれば、この敗戦を引きずる理由はない。
むしろ今の段階で課題が見つかったことには価値がある。
それでも。
「思ったより嫌だな」
朝倉が神代を見る。
「何が?」
神代はスコアボードから目を逸らさない。
「負けるの」
朝倉は一瞬だけ黙った。
それから少し笑う。
「それは普通だよ」
「そうなの?」
「多分ね」
神代にはまだよく分からない。
だが、不快なのは確かだった。
そこへ榊原監督が歩いてくる。
「神代」
「はい」
「負けてよかったとは言わんぞ」
「はい」
「ただ、今日見えたものは多かっただろ」
神代は少し考える。
横浜星央の攻撃。
守備。
情報共有。
そして、十一人の能力だけでは埋まらなかった差。
「はい、かなり」
「なら次に活かせ」
「はい」
榊原監督はそれ以上何も言わず、先にベンチを離れた。
神代は再びグラウンドを見る。
今まで考えていたのは、十一人をどう強くするかだった。
だが、それだけでは足りない。
強い選手が十一人いることと、強いチームであることは同じではない。
なら――。
どうすれば、この十一人をもっと強いチームにできるのか。
神代怜司は初めて、その問いをはっきりと考え始めていた。




