スタメン発表
土曜日。
横浜星央高校との練習試合を翌日に控え、
蒼凛学園野球部は普段より少し早く練習を切り上げた。
最後までブルペンで投げたそうにしていた黒崎も、榊原監督に止められて渋々グラブを置く。
「まだ投げられますけど」
「明日投げろ」
「でもスライダー、もうちょい――」
「黒崎」
「……はい」
朝倉が隣で笑った。
「監督に止められなかったら、暗くなるまで投げてそうだな」
「当たり前やろ。明日使うかもしれへんねんぞ」
「だから今日投げすぎたら意味ないでしょ」
「分かっとるわ」
そう言いながらも、黒崎は何度かブルペンを振り返っていた。
十一人がベンチ前へ集まる。
榊原監督は全員を見渡してから、手元のメンバー表を開いた。
「明日は十時試合開始。横浜星央は九時前には来る予定だ。お前たちは七時半集合。グラウンド整備、準備、アップまで余裕を持ってやるぞ」
「はい!」
声が揃う。
「それと、スタメンを発表する」
黒崎の顔がすぐに変わった。
「先発もですか?」
「今から全部言う」
「よっしゃ」
「まだお前とは言ってない」
水城が横で笑う。
「大雅、毎回それやるね」
「先発したいやろ普通!」
「静かに聞け」
榊原監督の一言で黒崎が口を閉じた。
「一番、ショート、九条」
「はい」
「二番、セカンド、白石」
「はい」
「三番、ライト、御堂」
「はい」
御堂がいつもの四番から一つ上がる。
そして。
「四番、サード、轟」
「はい!」
明らかに一人だけ返事が大きかった。
九条がすぐ横を見る。
「嬉しそうだな」
「別に」
「顔がもう嬉しいって言ってるけど」
「言ってねえよ」
御堂が淡々と言う。
「一日だけだからね」
轟が振り向いた。
「何が?」
「四番」
「返さねえよ」
「じゃあ打てば?」
「絶対打つ」
「ならどうぞ」
御堂は本当に四番へ執着していない。
だからこそ、轟には余計に腹が立つらしい。
榊原監督は二人を無視して続けた。
「五番、キャッチャー、朝倉」
「はい」
「六番、レフト、橘」
「はい!」
橘も思わず声が大きくなった。
スタメンで使うこと自体はすでに聞いていた。
それでも、横浜星央を相手に自分の名前が正式に読み上げられると、やはり違う。
「七番、センター、鷹野」
「はい」
「八番、ファースト、藤堂」
「はい」
藤堂はいつも通り丁寧に返した。
そして最後。
「九番、ピッチャー、水城」
「はい」
水城が静かに答える。
黒崎がすぐ榊原監督を見る。
「俺ちゃうんですか?」
「聞いてただろ」
「聞いてましたけど!」
「明日は水城から入る。四回を目安にする」
黒崎は納得していない顔のまま水城を見る。
「湊、四回で絶対点取られんなよ」
「大雅に言われなくてもそのつもりだよ」
「その後は黒崎。イニングは試合展開を見て決める」
黒崎の表情が一気に戻った。
「俺も投げるんですね」
「そのためにベンチに置くんだ」
「ならええです」
「お前は本当に分かりやすいな」
何人かが笑った。
残る一人。
神代は自分の名前がないことを、当然のように受け入れていた。
榊原監督が神代を見る。
「神代はベンチスタート。終盤、必要なところで使う」
「はい」
返事にも表情にも変化はない。
黒崎が横から聞く。
「怜司、ほんま何とも思わんの?」
「何が?」
「スタメン外れたんやぞ」
神代は少しだけ考えた。
「陽斗が最初から出られるなら、その方がいいだろ」
橘が神代を見る。
「俺?」
「狛谷戦では一打席しか立ってないし」
「まあ、そうだけど」
「相手が横浜星央なら、陽斗が今どこまでできるのかも分かる」
橘の表情が少し引きつる。
「怜司って、応援してくれてるのか実験しようとしてるのか分かんないんだよな」
「応援してるよ」
「本当に?」
「ああ」
神代は普通に答えた。
「期待してる」
橘が少し黙る。
それから、照れを隠すように笑った。
「じゃあ打つしかないじゃん」
神代も頷いた。
「その方がいい」
九条が横から言う。
「最後の一言いらないんだよな」
「なんで?」
「そこだよ」
神代には分からなかった。
榊原監督がメンバー表を見る。
「神代。橘を六番に置いた意味は分かるか?」
神代は打順を確認する。
三番御堂。四番轟。五番朝倉。
そして六番橘。
「得点圏で回る可能性を増やすためですか?」
橘が監督を見る。
「やっぱりそういう狙いなんですか?」
「それだけじゃない」
榊原監督は答えた。
「お前は初回から試合に入った経験がまだない。相手も今までで一番強い。打撃だけじゃなく、守備も走塁も含めて見たい」
「はい」
「失敗してもいいとは言わん。ただ、失敗を怖がって普段と違うことはするな」
橘の表情が少し真剣になる。
「分かりました」
神代はそのやり取りを黙って聞いていた。
自分が橘を見つけたきっかけは、得点圏で異常に成績が上がることだった。
通常時と得点圏。
数字だけでは説明しきれない差。
中学時代に見た時、その理由の一部は分かった。
しかし高校へ入り、相手のレベルも変わった。
その特徴がどこまで残るのか。
神代にとっても、明日は確認したいことの一つだった。
「それから投手陣」
榊原監督の声で、水城、黒崎、神代が見る。
「狛谷戦では三人とも三回ずつ投げた。明日は同じことはしない」
「はい」
水城が返事をする。
「水城。お前は最初から横浜星央打線と向き合え。初見ではお前の球は通用する可能性が高い」
水城は静かに聞いている。
「問題は、その後だ。向こうは試合中に対応してくる。一巡目と二巡目で打者の反応がどう変わるか、自分でも見ろ」
「分かりました」
「黒崎」
「はい」
「お前は水城の後だ」
榊原監督が続ける。
「左の水城から、お前のストレート中心の投球へ変わる。その落差を利用する。ただし――」
黒崎はもう分かっていた。
「クイックですよね」
「ああ」
黒崎が僅かに顔をしかめる。
昨日の映像。
横浜星央は、走れると判断すれば走る。
一度見つけた弱点を放置してくれる相手ではない。
「狙われると思え」
「分かりました」
「スライダーについては?」
黒崎は少し考える。
「決め球にはまだしません。最初から見せすぎず、必要なところで使います」
榊原監督が頷いた。
「それでいい」
神代は何も言わなかった。
数日前なら、ここで何か付け加えていたかもしれない。
だが黒崎自身が考え、朝倉とも相談して決めた。
ならば今は必要ない。
最後に榊原監督が神代を見る。
「神代」
「はい」
「お前は試合を見ろ」
神代の視線が少し変わった。
「ベンチからですか?」
「ああ。それがお前を最初から使わない一番の理由だ」
榊原監督は続ける。
「狛谷戦では、お前も最初からグラウンドにいた。明日は外から横浜星央を見ろ。打者だけじゃない。走者、守備、ベンチも全部だ」
神代はすぐに理解した。
「分かりました」
グラウンドの中にいれば、どうしても自分のプレーがある。
しかしベンチなら違う。
投手の癖。
走者のスタート。
守備位置。
打者が戻った後の会話。
監督から出る指示。
横浜星央が、九人でどう試合を動かしているのか最初から見られる。
「終盤、必要になったら使う。投手かもしれない。ファーストかもしれない。代打でもいい」
「どこでも大丈夫です」
黒崎が呟く。
「ほんま便利やな」
神代が見る。
「十一人しかいないんだから、便利な方がいいだろ」
藤堂が頷いた。
「神代くんが複数のポジションを高い水準でこなせるのは、かなり助かりますね」
「そういう意味ならそうだな」
「褒められてんねんから素直に喜べや」
黒崎が呆れたように言った。
榊原監督が手を叩く。
「話は以上。片づけて今日は終わりだ。明日に疲れを残すなよ」
「はい!」
十一人が散っていく。
橘はいつもより少し動きが軽い。
轟は四番を任されたことを隠しきれていない。
黒崎は明日の登板を考えながら、もうスライダーの握りを確認している。
水城は特に表情を変えないが、普段より口数が少なかった。
神代はそんな全員を見ながら用具を運んだ。
自分が出ることより明日、彼らがどうなるのか。
その方がずっと興味深かった。
その夜。
寮の食堂では、夕食が終わっても野球の話が続いていた。
「四番かあ」
橘が向かいに座る轟を見ながら言う。
「まだ言うのかよ」
「だってずっと嬉しそうなんだもん」
「嬉しくねえって」
御堂が横から言う。
「練習終わってからメンバー表三回くらい見てたよ」
轟が止まった。
「見てたのか?」
「普通に見えるところでやってたから」
九条が笑う。
「明日ノーヒットだったら面白いな」
「縁起悪いこと言うな!」
少し離れた席では、黒崎が箸を持ったまま神代へ聞く。
「怜司」
「何?」
「明日、俺のスライダーどこまで使えると思う?」
神代はすぐには答えなかった。
「大雅は?」
「またそれか」
「聞いてるだけだろ」
黒崎は少し考える。
「決め球にはまだ無理。でも見せ球なら使えると思う。ストレート待ちの打者に、一回頭へ入れられれば十分や」
「じゃあそうすればいい」
「簡単に言うなや」
「でも自分で決めたんだろ」
黒崎が言葉に詰まる。
水城が笑った。
「神代くん、最近本当に全部答え言わなくなったね」
「全部言う必要ないだろ」
朝倉がすぐ反応した。
「前は言ってたけどな」
九条も頷く。
「しかも聞いてないところまで」
神代は少し考える。
「……そんなに?」
「そんなに」
三人の声が揃い、食堂に笑いが起きた。
神代が食事を終えた頃、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面を見ると、桜庭美羽と表示されていた。
数日前、昼休みに半ば押し切られるような形で連絡先を交換していた。
『怜司くん』
まず、それだけ届いている。
神代は画面を見る。
数秒後、もう一通。
『明日、野球部試合するんでしょ?』
神代が返信する。
『するよ』
ほとんど間を置かず返ってきた。
『何時?』
『10時』
『じゃあ見に行く』
神代は少し考える。
『分かった』
すぐに既読がつく。
『それだけ?』
神代の指が止まる。
何を求められているのか分からない。
『他に何かある?』
『普通は「来て」とか「頑張る」とかない?』
神代は考える。
自分はベンチスタート。
『俺は最初出ないよ』
今度は返信が来るまで少し時間が空いた。
『え、なんで!?』
神代は普通に返す。
『俺の代わりに陽斗が出るから』
『陽斗って橘くん?』
『そう』
『怜司くん見に行くのに』
『途中から出るかもしれない』
またすぐに返ってきた。
『じゃあ最後まで見る』
神代は画面を見たまま少し考える。
『好きにすればいい』
送信直後。
「怜司」
横から九条の声。
神代が顔を上げる。
「何?」
「誰とそんなに連絡してるの?」
「桜庭」
黒崎が反応した。
「昨日の女の子か?」
「昨日じゃない」
「細かいことはええねん。何て?」
「明日の試合見に来るって」
黒崎の口元が上がる。
「ほー」
「何?」
「別に」
神代は九条を見る。
九条まで笑っている。
「颯真も何?」
「何でもない」
「絶対何かあるだろ」
朝倉が横から言った。
「怜司。それは今考えても分からないと思うよ」
「なんで?」
「そういうところだから」
また同じ言葉だった。
神代には結局分からなかった。
スマートフォンを見る。
桜庭からもう一通届いている。
『明日楽しみにしてるね、怜司くん』
神代は少しだけ考えてから返信した。
『横浜星央かなり強いから、試合は面白いと思う』
数秒後。
『私は怜司くん見に行くんだけど』
神代の指が止まった。
しばらく考える。
そして。
『知ってる』
送信した。
今度は少し返信が遅かった。
やがて届く。
『ほんとかなあ』
神代は首を傾げた。
その様子を見ていた九条が笑っている。
明日の横浜星央高校。
これまでで最も強い相手。
神代が最初に見るのは、マウンドでも打席でもない。
ベンチから自分が集めた十人と相手の九人。
その全てを見るところから、試合は始まる。




