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試合開始

日曜日、午前八時五十分。


蒼凛学園のグラウンドへ、一台の大型バスが入ってきた。

外野でアップをしていた鷹野が最初に気づく。


「来たな」


白い車体の側面には、横浜星央高校野球部の文字が入っている。

バスが停止すると、ユニフォーム姿の選手たちが次々と降りてきた。

十人、二十人。

それでもまだ続く。

最後に指導者とマネージャーまで降りてくると、キャッチボールを終えた橘が思わず口にした。

「多いな」

「強豪なんやから普通やろ」

黒崎が答える。

「分かってるけど、こっち十一人だぞ」

「人数で試合するわけちゃうやろ」

そう言った黒崎の表情は、むしろ楽しそうだった。


横浜星央の選手たちは、バスを降りてからの動きも速かった。

道具を運ぶ者、グラウンドへ挨拶する者、

指導者のもとへ集まる者。

細かな指示を受けている様子はないのに、

それぞれが自分の役割を理解しているように動いている。


ベンチ前にいた神代は、その一連の様子を見ていた。

九条が隣へ来る。

「もう観察してる?」

「ああ」

「まだ試合始まってないけど」

「始まる前もチームだろ」

九条も横浜星央を見る。


選手たちは荷物を置き終えると、今度はグラウンドの状態を確認し始めた。

マウンドへ足を運ぶ投手。

外野の芝を確かめる選手。

ファウルゾーンの広さを見る者もいる。

「準備が速いな」

神代が言った。

「そこ見るんだ」

「強いチームが何を普通にやってるかは見た方がいい」

九条は少しだけ笑った。

「怜司、今日は本当に楽しそうだな」

「強い相手だからな」

そこへ黒崎も歩いてきた。

「怜司、エースどいつ?」

神代は横浜星央の選手たちへ目を向ける。

「多分、あの人」

指した先にいたのは、周囲より少し背の高い右投手だった。


相馬蓮司。3年生で横浜星央のエース。

最速148km/hのストレートを投げる。


ただ、神代が映像で評価していたのは球速ではない。


ストレート、カットボール、スライダー、

フォーク。


それぞれを高い水準で使い分け、打者によって攻め方を変える。

狙った場所へ投げる制球力もあり、同じ打者に対しても打席ごとに組み立てを変えてくる。

突出した一球で押し切る黒崎とは、タイプの違う完成度の高い投手だった。


黒崎が相馬を見る。

「148か」

「球速だけ見ない方がいいぞ」

「分かっとるわ」

「ならいいけど」

「お前、たまに俺のこと単純やと思っとるやろ」

神代は少し考えた。

「多少は」

「否定せえや!」

九条が笑う。

その声が届いたわけではないだろうが、

ちょうどその時、相馬が蒼凛側へ視線を向けた。

水城。黒崎。そして神代を順番に見る。


神代と目が合う。

相馬はすぐ隣にいた選手へ何かを聞き、その選手が短く答えた。

黒崎の口元が上がる。

「こっちのこと調べとるな」

「そのために来たんだろ」

「ええやん」

神代も同じ感想だった。

狛谷戦とは違う。

一年生しかいない新設校。

その情報だけを見て、最初から格下扱いする相手ではない。

横浜星央は、蒼凛を一つの対戦相手として見ている。

神代の視線が、相馬の近くにいる選手へ移る。


久我颯介。横浜星央の四番。

映像で何度も確認した打者だった。

長打だけを狙うタイプではなく、ストレートにも変化球にも大きな弱点がない。

追い込まれてからも簡単にはフォームを崩さず、相手投手の球へ合わせてくる。

黒崎が気づく。

「今度は誰や?」

「四番の久我さん」

「そんな打つん?」

「かなりな」

黒崎は迷わず言った。

「俺が抑える」

「大雅が投げてる時に回ってくればな」

「回ってこい」

「本人に言えば?」

「言えるか!」


そのやり取りを聞いていた水城が笑った。

「でも僕も見てみたいな。横浜星央がどれくらい僕の球に対応してくるのか」

神代が頷く。

「一巡目と二巡目でかなり変えてくると思うよ」

「その変化を見るのも楽しみだね」

水城も、黒崎とは別の意味で楽しそうだった。

三人の投手が同じ相手を見ている。

ただし、見ているものは少しずつ違う。

それも神代には面白かった。


午前九時二十分。


アップを終えた蒼凛の十一人が、一度ベンチ前へ集まった。

榊原監督が最後の確認をする。


「昨日言った通りだ。一番ショート九条、

二番セカンド白石、三番ライト御堂、

四番サード轟、五番キャッチャー朝倉、

六番レフト橘、七番センター鷹野、八番ファースト藤堂、九番ピッチャー水城」


全員が返事をする。

榊原監督はまず水城を見る。

「水城。最初から三振を取りにいこうとしなくていい。お前の球に相手がどう入ってくるかを見ろ」

「はい」

「四回を目安にするが、内容次第では変える」

「分かりました」

続いて黒崎。

「お前は試合を見てから準備を始めろ」

「はい」

「横浜星央が水城をどう攻略しようとするかも見ておけ。マウンドへ上がった瞬間から、自分の投球だけ考えるなよ」

黒崎が少しだけ真剣な表情になる。

「分かりました」

最後に神代。

「神代は昨日言った通りだ」

「はい」

「最初はベンチから全部見ろ。ただし、いつ出してもいいように準備だけはしておけ」

「分かりました」

神代に特に不満はない。

むしろ、外から見られることを歓迎していた。

横浜星央の打者だけではない。

走者。守備。ベンチ。

一人が得た情報を、次の選手へどう伝えるのか。

昨日まで映像で見ていたものを、今日は目の前で確認できる。


「よし。あとはいつも通りだ」

榊原監督が言った。

「相手の評判で野球をするな。やることは変わらん」

「はい!」

十一人がそれぞれ準備へ戻った。


その直後だった。

フェンスの外から、明るい声が飛んでくる。

「怜司くーん!」

神代が振り向く。

私服姿の桜庭が、大きく手を振っていた。

隣には篠宮もいる。

黒崎がすぐ神代を見る。

「ほんまに来よったな」

「昨日来るって言ってただろ」

「知っとるわ。せやけど朝から元気やなと思って」

桜庭は相変わらずこちらへ手を振っている。

神代も軽く片手を上げて返した。

それだけで桜庭の表情が一段明るくなる。

九条が言う。

「分かりやすいな」

「何が?」

「怜司はいいよ。分からなくて」

「またそれ?」


休憩のタイミングで、神代がフェンスの近くへ向かう。

桜庭は待っていたように一歩前へ出た。

「怜司くん、ちゃんと来たよ」

「見れば分かる」

「絶対そう言うと思った」

「じゃあ聞かなくてもよかっただろ」

「そういう問題じゃないの」

神代にはよく分からなかった。

その横にいる篠宮を見る。

「篠宮までいるし」

「桜庭さんに誘われたの」

「野球そんなに興味あった?」

「前に練習見てから、少し気になってるかな」

篠宮はグラウンドを見る。

横浜星央の大人数の選手たちと、十一人だけの蒼凛。

並べると差はより大きく見えた。

「今日の相手、かなり強いんでしょ?」

「ああ、強いな」

神代は迷いなく答えた。

その声が少し楽しそうなのを、篠宮は聞き逃さなかった。


一方、桜庭が気にしているのは別のことだった。

「怜司くん、本当に最初出ないんだ」

「ああ」

「せっかく見に来たのに」

「昨日も言っただろ」

「言われたけどさ」

「途中からは出るかもしれない」

「絶対出てね」

「俺が決めることじゃないよ」

桜庭が少し頬を膨らませる。

「じゃあ榊原監督にお願いしようかな」

「やめた方がいいと思う」

「怒られる?」

「多分な」

「じゃあやめる」

そこは素直だった。

篠宮が小さく笑う。

「でも桜庭さん、怜司くんが出なくても帰らないんでしょ?」

「もちろん。出るまで待つもんね」

「最後まで出なかったら?」

「それでも最後までいるつもり」

即答だった。

桜庭が神代を見る。

「怜司くん見に来たんだから当たり前でしょ?」

「ああ、そうか」

「納得するところはそこなんだ……」

桜庭は呆れたように言いながらも、どこか嬉しそうだった。


「怜司!」

ベンチから朝倉の声が飛ぶ。

「そろそろ戻ってきて!」

「分かった」

神代は二人を見る。

桜庭が先に言った。

「頑張ってね、怜司くん」

神代は一瞬だけ考えた。

自分はまだ出ない。

それでも今日は、自分一人の試合ではない。

「ああ。ありがと」

そう返して、ベンチへ戻る。


桜庭がその背中を見たまま止まった。

篠宮が横を見る。

「どうしたの?」

「今、ありがとって言った」

「言ったね」

「前より良くなってない?」

篠宮は少し考える。

「前なら『俺まだ出ないけど』くらいは言いそうだったかも」

「だよね?」

桜庭は少し満足そうに笑った。


神代本人が意識しているかは、二人とも知らない。


観戦できる場所へ移動しようとしたところで、後ろから声をかけられた。

「篠宮さん?」

振り返ると、私服姿の榊原千夏が立っていた。

篠宮が少し驚く。

「榊原さん」

千夏は隣の桜庭を見る。

「桜庭さんも来てたんだ」

「うん。怜司くん見に」

一切隠す様子のない答えに、千夏が少し笑った。

「本当に神代くんのこと好きなんだね」

「うん」

「即答なんだ」

「隠してないからね」

篠宮が苦笑する。

千夏はグラウンドを見る。

「篠宮さんも野球部の試合見に来たの?」

「うん。前に練習見てから、少し気になってて」

「そっか」

篠宮が聞く。

「榊原さんは?」

「私はお父さんもいるし。野球部のみんなも寮でよく見るから、様子を見に来たの」

「お父さん?」

桜庭が聞き返した。

千夏は一塁側ベンチを指す。

「榊原監督」

二人が同時にそちらを見る。

「えっ?」

桜庭の声が少し大きくなる。

篠宮も目を見開いた。

「榊原監督って、榊原さんのお父さんなの?」

「うん」

千夏は二人の反応を見て笑う。

「やっぱり知らなかったんだ」

「全然知らなかった」

「学校では特に言ってないからね」


三人はフェンス沿いの見やすい位置へ移動した。

桜庭の視線は早くも蒼凛のベンチにいる神代を追っている。

千夏はその様子に気づいたが、特に何も言わなかった。

篠宮は両校の選手を交互に見ている。

「人数、全然違うね」

「横浜星央が多いのもあるけど、蒼凛が十一人しかいないから余計そう見えるよね」

千夏が答える。

「普段も十一人で全部やってるの?」

「うん。お父さんもいるけど、選手がやることは結構多いよ」


篠宮は以前練習を見に来た時のことを思い出す。

ボール拾い。道具の移動。記録。

十一人しかいないから、全部を選手自身でやっていた。

そして今日は試合。

横浜星央側にはベンチに入らない部員もいる。


そこには『マネージャー』の姿もある。


改めて見ると、その差は大きかった。


午前九時五十分を過ぎた頃、陸上競技場の方から一人の女子生徒が歩いてきた。

練習着姿の天城だった。

篠宮が先に気づく。

「天城さん」

「お疲れ」

天城が片手を上げる。

朝の練習を終えたばかりらしく、髪はまだ後ろでまとめたままだった。

「本当に来たんだ」

篠宮が言う。

「ちょっと見るだけ」

天城はグラウンドを見渡した。

「鷹野いる?」

桜庭がすぐ反応する。

「怜司くんじゃなくて?」

「なんで神代なの?」

「この前一緒に走ったんでしょ?聞いたよ」

「走ったけど」

天城はセンター付近で守備練習をする鷹野を見つける。

「鷹野とも今度走るから。野球の時どんな動きするのか見ようと思って」

少し間を置いてから付け加えた。

「神代も野球やってるところはちゃんと見たことないし」

桜庭が笑う。

「やっぱり怜司くんも気になってるじゃん」

「競技者としてね」

「はいはい」

「何その返事」

天城が眉をひそめる。

千夏が小さく笑った。

「天城さんって陸上部なんだ」

「うん。短距離」

「じゃあ神代くんと走ったって、そういうこと?」

「そう。100メートル」

桜庭が割って入る。

「怜司くん勝ったんだよ」

「なんで桜庭さんが自慢するの?」

千夏が聞く。

「いいじゃん」

「いいけど」

千夏は笑った。


この場に集まった四人の試合を見る理由は、それぞれ違う。

桜庭は神代を見るため。

篠宮は十一人の野球部そのものが気になっている。

千夏は父親と、寮で顔を合わせる十一人を見に。

天城は、自分とは違う競技で高い身体能力を使う選手たちを見るため。

同じグラウンドを見ていても、目に入るものは同じではなかった。



午前十時。


両校がホームベース付近へ整列した。

「お願いします!」

声がグラウンドへ響く。

横浜星央の選手たちが守備へ散っていく。


まずマウンドへ向かったのは相馬蓮司。

神代はベンチの最前列から、その姿を見る。

「エースからか」

朝倉が言う。

「最初から本気ってことだな」

「その方がいい」


相馬が投球練習を始める。

一球目。低めへ伸びるストレート。

二球目は僅かに変化するカットボール。

その次は低めへ落ちる球。

球速だけなら黒崎と大きく変わらない。

しかし、同じフォーム、同じ腕の振りから複数の球種を狙った場所へ投げ込んでいる。

「映像より良さそうだね」

朝倉が言う。

神代も頷いた。

「多分、調子いい」

「それは朗報?」

「俺にはな」

「颯真たちには?」

「面倒だと思う」

先頭の九条がヘルメットを被る。

「聞こえてるぞ」

神代が九条を見る。

「最初の打席、できれば球種全部見てきて」

「無茶言うなよ」

「颯真ならできるだろ」

九条が一瞬止まり、少し笑った。

「最近そういう言い方覚えたよな」

「何が?」

「何でもない」


九条はそのまま左打席へ向かった。

神代はベンチへ座る。

今日はバットもグラブも、まだ手に取らない。

まずは見ること。

横浜星央が、どうやって九条を抑えようとするのか。

九条が得た情報を、次の白石へどう渡すのか。

水城の投球に、横浜星央がどう対応してくるのか。

そして蒼凛が、この相手にどこまで食らいつけるのか。



球審が右手を上げた。

「プレイ!」

相馬がセットに入る。

最初の一球は外角低め。

九条は手を出さない。

「ストライク!」

朝倉が小さく息を吐く。

「いいところ来るな」

神代の視線はマウンドの相馬に固定されている。

初球から狙った場所。迷いのない投球。

そして、こちらを最初から相手として見ている。


神代の口元が僅かに上がった。


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