対決
翌日の放課後。
野球部の練習へ向かう前、神代は陸上部が使うグラウンドの端にいた。
その隣には天城の姿もあった。
少し離れた場所で、水城と鷹野が見ている。
「本当にやるんだ」
水城が笑う。
「約束したから」
神代が答える。
天城は軽く脚を振りながら二人を見る。
「一回走るだけでしょ。すぐ終わるよ」
先日の体育で決まった100メートル勝負。
天城は女子短距離の全国上位クラス。
対する神代は陸上経験こそないが、野球部の入学時測定では50メートル5秒90を記録している。鷹野の5秒86に次ぐ数字だった。
二人がスタート位置へ入る。
「じゃあいくよ」
水城が合図を出した。
スタート直後は天城が前へ出た。
低い姿勢から無駄なく加速する。
短距離を専門にしてきた選手と、そうでない選手。
その違いは最初の数十メートルにはっきり現れた。
しかし中盤から神代が追いつく。
最後はほぼ並んでゴールを抜けた。
水城がストップウォッチを見る。
「神代くんが少しだけ前かな。でも手動だし、ほとんど同じ」
天城が呼吸を整えながら神代を見る。
「速いじゃん」
「天城の方がスタートは上手かった」
「そりゃ何年やってると思ってるの」
「専門でやってるだけあるな」
天城は少し意外そうに神代を見る。
「悔しくないの?」
「何が?」
「最初、結構離されたじゃん」
「100メートルでは先にゴールしただろ」
「そうだけど」
「それにスタート技術なら天城の方が上なのは普通じゃない? 俺は陸上選手じゃないし」
天城が数秒黙った。
「もっと何でも自分が一番じゃないと嫌なタイプかと思ってた」
「なんで?」
「何となく」
神代には意味が分からなかった。
その横で、鷹野が笑う。
「怜司って意外とそういうの気にしないよ」
「そうなの?」
「自分より上手い奴いたら普通に認めるし」
神代が鷹野を見る。
「事実なら認めるだろ」
「ほら」
天城は少し笑った。
そして今度は鷹野を見る。
「鷹野は神代より50メートル速いんだよね?」
「まあね」
「じゃあ今度走ろうよ」
「いいよ」
鷹野は即答した。
「話早いね」
「走るだけだろ?」
神代と似たような返答だった。
天城が二人を見比べる。
「野球部ってこういうのばっかり?」
水城が笑う。
「この二人は特に身体能力高いから」
「ふーん」
天城の視線が今度は鷹野に向く。
神代とは走り方が違う。
体育で少し見た程度でも、鷹野の加速には独特のものがあった。
「じゃあ次は鷹野ね」
「ああ」
神代が時計を見る。
「そろそろ行くぞ、隼人」
「分かってる」
天城も陸上部の方へ戻ろうとする。
「神代」
「何?」
「また走りたくなったら言って」
「分かった」
「そこは『次はもっと差つける』とか言わないんだ」
「陸上の大会に出る予定ないし」
「ほんと野球中心なんだね」
「ああ」
迷いのない返答だった。
天城は少しだけ笑い、そのまま陸上部の方へ戻っていった。
野球部のグラウンドへ向かう途中。
鷹野が神代を見る。
「怜司」
「何?」
「天城、速かったな」
「ああ。スタートはかなり上手い」
「俺も勝てるかな」
「100メートルなら隼人の方が有利だと思う」
「じゃあ勝てる?」
「それは走ってみないと分からない」
「そこは言い切らないんだ」
「陸上は専門外だからな」
神代にとって、先ほどの勝負はそれ以上でもそれ以下でもなかった。
天城は優れた短距離選手だった。
自分は僅かに先着した。
それだけだ。
グラウンドへ到着すると、黒崎がすでにキャッチボールを始めていた。
「遅いやんけ」
「時間通りだろ」
「どこ行っとったん?」
水城が答える。
「神代くんと天城さんが100メートル走ってた」
黒崎が聞く。
「で、どっち勝ったん?」
「俺」
「やっぱりかい」
黒崎は大して驚かなかった。
神代もそれ以上話すつもりはない。
グラブを取りに行こうとしたところで、榊原監督の声が飛んだ。
「全員集合!」
十一人がベンチ前へ集まる。
榊原監督の手には一枚の資料があった。
「次の日曜、練習試合が決まった」
黒崎が真っ先に反応する。
「相手どこです?」
「神奈川県の横浜星央高校」
朝倉の表情が変わる。
九条も名前を知っていた。
「横浜星央って、結構強いところですよね」
「ああ」
榊原監督が資料を見る。
「前年夏は神奈川ベスト4。秋季県大会準優勝。関東大会にも出ている」
「ええやん」
黒崎の口元が上がった。
轟も反応する。
「狛谷より強いんですか?」
「実績だけならかなり上だ」
水城が少し楽しそうに言う。
「今度は本当の強豪ですね」
「その認識でいい」
榊原監督は十一人を見る。
「それと今回は、狛谷戦とは状況が違う」
神代が聞く。
「向こうが俺たちのことを知ってるんですか?」
榊原監督が神代を見る。
「話が早いな」
「狛谷に勝ったからですか?」
「ああ。その話を聞いたらしい」
一年生だけ。十一人しかいない。新設校。
狛谷戦では、その情報が相手の油断につながっていた。
しかし今度は違う。
「横浜星央は最初からある程度、戦力を出してくる」
黒崎が笑う。
「その方がええです」
「俺も」
轟が続く。
御堂も静かに頷いた。
神代は榊原監督が持っている資料を見る。
「映像あります?」
「ある」
「見たいです」
「練習後だ」
「分かりました」
九条が神代を見る。
「今日は素直じゃん」
「後で見られるなら同じだろ」
「そこはそうなんだ」
榊原監督が話を続ける。
「横浜星央は個々の能力も高い。ただ、それだけのチームじゃない」
「どういうことですか?」
橘が聞く。
「走塁、進塁打、守備、情報共有。試合の中で一点を取る方法をよく知っている」
神代の目が僅かに細くなる。
「面白そうですね」
「お前は本当にそればっかりだな」
「強い相手の方が確認できること多いので」
榊原監督は少しだけ息を吐く。
「そこで今回は、狛谷戦とは起用も変える」
全員が監督を見る。
「まず神代」
「はい」
「お前はスタメンから外す」
何人かが神代を見る。
黒崎が最初に口を開いた。
「え?」
神代だけは表情を変えなかった。
「いいですね」
今度は榊原監督が一瞬黙った。
黒崎が神代を見る。
「なんで喜んどんねん」
「陽斗を最初から使うんですよね?」
神代はすぐにそう考えた。
狛谷戦、橘は九回表に試合最初の打席へ立った。
途中出場だったため、対外試合で経験できた打席はまだ一度だけだった。
榊原監督が頷く。
「そのつもりだ」
橘が自分を指差した。
「俺?」
「ああ。外野で先発させる」
「マジですか?」
「マジだ」
橘の顔が明るくなる。
「よっしゃ!」
神代も頷く。
「その方がいいと思います」
黒崎がまだ納得していない。
「怜司、お前ほんまにええん?」
「何が?」
「強豪相手やぞ。出たいやろ?」
「出る必要があれば出るよ」
「そういう話ちゃうねん」
神代は少し考えた。
「俺は今、自分が高校生相手にどこまでできるか確認する必要はあまりない」
黒崎が黙る。
神代は続ける。
「それより陽斗が横浜星央くらいの相手に、最初から試合に入った時どうなるか見たい」
橘が神代を見る。
「怜司」
「何?」
「それ、期待されてると思っていい?」
「期待してるから集めたんだけど」
「そうなんだけどさ!」
九条が笑った。
「陽斗、ちゃんと打たないと全部見られるぞ」
「そんな怖い言い方するなよ!」
神代は橘を見ていた。
橘陽斗。
中学時代から、通常時より得点圏で成績を大きく上げる打者。
神代が最初に興味を持った理由も、そこにあった。
ただ、高校ではまだその特徴を十分に確認できていない。
まして相手は神奈川の強豪。
試すには悪くない。
「陽斗」
「何?」
「楽しみだな」
橘が一瞬止まった。
「プレッシャーかけてる?」
「なんで?」
「その言い方!」
「普通に楽しみなだけだけど」
朝倉が笑う。
「怜司の場合、本当にそうなんだよな」
神代自身が試合開始から出るかどうかは、重要ではなかった。
自分の能力は、自分が一番分かっている。
それよりまだ分からない選手を見る方が面白い。
橘が強豪校相手にどう打つのか。
黒崎の新しいスライダーはどこまで使えるのか。
水城の投球に、横浜星央がどう対応するのか。
鷹野は高い走力を試合の中でどこまで使えるのか。
神代の頭の中では、すでにそちらへ興味が移っていた。
「神代は終盤、必要なら使う」
榊原監督が言った。
「分かりました」
「投手として使うか、野手として使うかもまだ決めていない」
「どっちでも大丈夫です」
黒崎が呆れたように言う。
「便利すぎるやろ」
「だから十一人でやれてる部分もあるだろ」
藤堂が丁寧に頷く。
「それは確かにそうですね」
榊原監督が手を叩いた。
「詳しい起用はまた決める。まず今日は練習だ」
「はい!」
十一人が散っていく。
橘はいつもより少し足取りが軽い。
神代はその背中を見る。
横浜星央高校。
狛谷より遥かに実績のある相手。
しかも今回は、最初から蒼凛を警戒してくる。
そして自分は、試合開始時にはベンチ。
神代は特に不満を感じていなかった。
むしろ自分が外から試合を見られる。
橘を最初から使える。
黒崎と水城が、強豪相手にどこまで通用するのかも観察できる。
試したいことは増えた。
「怜司」
黒崎が後ろから声をかける。
「何?」
「なんか楽しそうやな」
「まあな」
神代は即答した。
「面白そうだからな」
黒崎は少しだけ笑った。
「ほな、俺がもっとおもろくしたるわ」
「期待してる」
今度の相手は一年生だけの新設校だからと、油断してはくれない。
それなら今の十一人が本当にどこまで戦えるのか前よりも、よく分かる。
神代にとってはその方が、ずっと都合が良かった。




