親子
その日の夜。
蒼凛学園の男子寮では、夕食を終えた野球部員たちがそれぞれの時間を過ごしていた。
部屋へ戻る者。
風呂へ向かう者。
食堂に残って話している者。
神代怜司は、食堂の端に座っていた。
テーブルの上にはタブレット。
画面に映っているのは、今日の練習で撮影した黒崎の投球だった。
再生。停止。少し戻す。もう一度再生。
狛谷戦の翌日から練習しているスライダー。腕の振りは少しずつストレートに近づいている。
ただ、リリース時の指のかかり方にはまだばらつきがある。
「ここだな」
神代が画面を止める。
良かった球と悪かった球を比較しようとした時、厨房の奥から声が聞こえた。
「お母さん、これどこに置くの?」
女子の声だった。
神代が顔を上げる。
この寮を管理している寮母が榊原監督の妻であることは、入寮した日に説明されている。
だが、今の声は寮母のものではない。
「そこの棚でいいわよ」
寮母の声が返ってくる。
「了解」
少しして、厨房から一人の女子生徒が出てきた。
蒼凛学園の制服を着ている。
手には食品の入った袋。
食堂に神代がいることに気づき、女子生徒が一度足を止めた。
神代も相手を見るが、知らない顔だった。
「こんばんは」
相手から先に声をかけてきた。
「こんばんは」
神代も返す。
女子生徒は袋を棚へ置くと、神代の前にあるタブレットへ視線を向けた。
「まだ野球のことで何かしてるの?」
「まだって?」
「今日も放課後ずっと練習してたんでしょ?」
「ああ」
「それで寮に帰ってからも見るんだ」
「今日撮った映像だからな」
「明日じゃ駄目なの?」
「今日見られるのに?」
女子生徒が数秒黙った。
「なるほど」
何に納得したのか分からない。
神代は画面へ戻ろうとした。
「それ黒崎くん?」
女子生徒が言う。
神代の視線が再び上がる。
「知ってるの?」
「名前くらいは」
「なんで?」
「野球部って十一人しかいないんでしょ。それに一年生だけだし、結構目立ってるよ」
最近同じようなことを何度か言われている。
桜庭にも、似た理由で部員を覚えられていた。
「そんなに目立つのか」
「神代くんがそれ言う?」
「俺?」
「入学式で新入生代表やってたじゃん」
「あれは一回話しただけだろ」
女子生徒が笑う。
「思ってたより変な人だね」
神代の手が止まる。
「思ってたより?」
「うん」
「俺のこと知ってたの?」
「名前は前から」
「なんで?」
女子生徒が少しだけ笑う。
「さて、なんででしょう」
神代は相手を見る。
しかし相手は神代だけでなく黒崎の名前まで知っている。
寮母へ「お母さん」と呼びかけていた。
そこまで考えたところで、神代の視線が厨房へ向く。
女子生徒が気づいた。
「あ」
神代が聞く。
「寮母さんの娘?」
「正解」
やはりそうだった。
神代は改めて相手を見る。
「娘がいたんだ」
「そこ知らなかったんだ」
「聞いてない」
「お父さん、言ってないんだ」
神代の眉が僅かに動いた。
「お父さん?」
女子生徒は神代の反応を見て、一瞬きょとんとした。
そして笑った。
「そっちも知らないの?」
「何が?」
「私のお父さん」
「寮母さんの夫なら榊原監督だろ」
「分かってるじゃん」
「それは最初に聞いたから」
「じゃあ分かるでしょ」
「何が?」
女子生徒は自分を指した。
「寮母の娘」
次に厨房を指す。
「お母さんは榊原監督の奥さん」
最後にもう一度自分を指した。
神代は理解した。
「ああ」
「遅くない?」
「ごめん。ちゃんと会話聞いてなかった」
「それひどくない?」
女子生徒は笑いながら言った。
「榊原千夏。一年三組」
「神代怜司。一年一組」
「それは知ってる」
まただった。
神代が少し眉を寄せる。
「最近それよく言われるな」
「有名人なんじゃない?」
「別に有名になるために入学したわけじゃないけど」
「普通そうでしょ」
千夏は神代の向かい側の椅子を引いた。
「ちょっと休憩」
そのまま座る。
神代は特に気にせずタブレットを操作した。
千夏が画面を見る。黒崎の投球映像。
「スライダー?」
「ああ」
「練習してるんだ」
神代がまた顔を上げる。
「野球分かるの?」
「多少はね」
「やってた?」
「やってないよ」
千夏は当然のように答える。
「父親がずっと野球やってて、今は高校野球の監督。家でも普通に野球の話するし」
「榊原監督、家でも野球の話するんだ」
「するよ」
「何の話?」
「いろいろ」
「例えば?」
「食いつくね」
「監督が家でどういう野球の話してるかは気になる」
千夏は少し考えた。
「最近一番多いのは蒼凛の話かな」
「十一人の?」
「うん」
そして少し間を置く。
「特に神代くん」
神代の指が止まった。
「俺?」
「結構出てくる」
「何て?」
千夏は思い出す。
「『あいつは何考えてるか分からん』とか」
神代が黙る。
「悪口?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「褒めてると思う」
「何を?」
「そこまで細かく聞く?」
「気になるから」
千夏は少し笑った。
「野球について考えてることは、本当に高校一年生とは思えないって」
神代は何も言わず聞いている。
「選手を見る目もある。技術を見る目もある。自分自身の能力も高い」
「それなら全部褒めてるな」
「まだ続きあるよ」
「何?」
「でも人の気持ちは全然分かってない」
神代の表情が止まった。
千夏が吹き出す。
「そこは心当たりあるんだ」
「最近似たようなこと言われてるから」
「誰に?」
「いろんな人」
「じゃあお父さんだけじゃないんだ」
「そうみたいだな」
千夏は少し面白そうに神代を見る。
父親から聞いていた人物像。
何でもできる。
野球について異常なほど考える。
十一人の選手を全国から集めた。
甲子園五連覇を本気で狙っている。
そんな話ばかり聞いていたから、もっと近寄りがたい人間を想像していた。
実際に話してみると、少し違う。
変わってはいる。だが、怖いわけではない。
「あとね」
「まだあるの?」
「『放っておくと選手に何でも教えすぎる』」
神代が僅かに眉を寄せた。
「最近は気をつけてる」
千夏が意外そうな顔をする。
「そうなの?」
「ああ」
「自覚あったんだ」
「前はなかった」
「何かあった?」
神代は少し考えた。
轟との会話。黒崎への言葉。
自分が正しいと思ったことを、そのまま伝えるだけでは相手が成長するとは限らない。
最近ようやく、それを意識し始めた。
「説明すると長い」
「じゃあいいや」
「聞かないの?」
「長いんでしょ?」
「ああ」
「ならいい」
神代が千夏を見る。
珍しい反応だった。
質問しておきながら、答えを無理に聞こうとしない。
千夏は気にした様子もなく、テーブルに頬杖をついた。
「神代くんって、もっとずっと喋ってる人かと思った」
「なんで?」
「お父さんがよく『神代にあれこれ言われた』って言ってるから」
「必要なことしか言ってないけど」
「お父さんからすると多いんじゃない?」
「そうなのかな」
「本人に聞けば?」
「分かった」
「本当に聞くの?」
「ああ」
「やめた方がいいかも」
「なんで?」
「『千夏から聞きました』って言われたら、私が怒られそう」
「じゃあ言わなければいい?」
「そういうところ妙に素直だね」
厨房から声が飛んできた。
「千夏、終わった?」
「あ」
千夏が椅子から立ち上がる。
「忘れてた」
神代が聞く。
「何しに来たの?」
「お母さんの手伝い。寮で使うもの持ってきただけ」
「普段も来る?」
「たまに」
「そうなんだ」
「何?」
「いや。今まで見たことなかったから」
「野球部が入寮してからは初めて来たかも」
千夏が厨房へ戻ろうとする。
途中で足を止めた。
「そういえば」
「何?」
「本当にやるの?」
「何を?」
「甲子園五連覇」
神代はすぐに答えた。
「やるよ」
「迷わないんだ」
「最初からそのために来たから」
千夏は少しだけ神代を見る。
父親から話は聞いていた。
だから目標自体は知っている。
だが本人の口から直接聞くと、印象が違った。
夢を語っているようには聞こえない。
目標を宣言している感じですらない。
明日の予定を答えるような口調だった。
「お父さん、最初は絶対無理だと思ったんだろうな」
「思ったって言ってたよ」
「本人に?」
「ああ」
「普通、選手に言う?」
「榊原監督だからな」
千夏が笑った。
「そこは分かってきたんだ」
「何が?」
「お父さんのこと」
神代は少し考える。
「野球に関しては」
「やっぱりそこなんだ」
「他に何を知る必要がある?」
千夏が数秒止まった。
それから笑う。
「そのうち分かるんじゃない?」
神代の顔が僅かに変わった。
「最近それもよく言われる」
「そうなの?」
「ああ」
「じゃあみんな同じこと思ってるんじゃない?」
「何を?」
「それが分からないから言われてるんじゃない?」
神代は黙った。
千夏は満足そうに笑い、厨房へ戻っていった。
神代はしばらくその方向を見る。
今日知ったこと。
榊原監督には、自分と同じ一年生の娘がいる。
名前は榊原千夏。三組。
野球経験はないが、野球の知識は多少ある。
そして、榊原監督は家で自分の話をしている。
神代はタブレットへ視線を戻した。
画面には黒崎のスライダー。
再生ボタンを押す。
数秒後。
厨房から千夏の声が聞こえた。
「お母さん」
「何?」
「神代くん、思ってたより普通だった」
神代の指が止まる。
少し間があって、寮母が答えた。
「そう?」
「うん。でもちょっと変」
神代は厨房を見る。
「聞こえてるけど」
一瞬静かになった。
次の瞬間、厨房から二人分の笑い声が聞こえた。




