↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/38

親子

その日の夜。

蒼凛学園の男子寮では、夕食を終えた野球部員たちがそれぞれの時間を過ごしていた。


部屋へ戻る者。

風呂へ向かう者。

食堂に残って話している者。

神代怜司は、食堂の端に座っていた。

テーブルの上にはタブレット。

画面に映っているのは、今日の練習で撮影した黒崎の投球だった。

再生。停止。少し戻す。もう一度再生。

狛谷戦の翌日から練習しているスライダー。腕の振りは少しずつストレートに近づいている。

ただ、リリース時の指のかかり方にはまだばらつきがある。

「ここだな」

神代が画面を止める。

良かった球と悪かった球を比較しようとした時、厨房の奥から声が聞こえた。


「お母さん、これどこに置くの?」

女子の声だった。

神代が顔を上げる。

この寮を管理している寮母が榊原監督の妻であることは、入寮した日に説明されている。

だが、今の声は寮母のものではない。

「そこの棚でいいわよ」

寮母の声が返ってくる。

「了解」

少しして、厨房から一人の女子生徒が出てきた。

蒼凛学園の制服を着ている。

手には食品の入った袋。

食堂に神代がいることに気づき、女子生徒が一度足を止めた。

神代も相手を見るが、知らない顔だった。

「こんばんは」

相手から先に声をかけてきた。

「こんばんは」

神代も返す。

女子生徒は袋を棚へ置くと、神代の前にあるタブレットへ視線を向けた。

「まだ野球のことで何かしてるの?」

「まだって?」

「今日も放課後ずっと練習してたんでしょ?」

「ああ」

「それで寮に帰ってからも見るんだ」

「今日撮った映像だからな」

「明日じゃ駄目なの?」

「今日見られるのに?」

女子生徒が数秒黙った。

「なるほど」

何に納得したのか分からない。

神代は画面へ戻ろうとした。

「それ黒崎くん?」

女子生徒が言う。

神代の視線が再び上がる。

「知ってるの?」

「名前くらいは」

「なんで?」

「野球部って十一人しかいないんでしょ。それに一年生だけだし、結構目立ってるよ」

最近同じようなことを何度か言われている。

桜庭にも、似た理由で部員を覚えられていた。

「そんなに目立つのか」

「神代くんがそれ言う?」

「俺?」

「入学式で新入生代表やってたじゃん」

「あれは一回話しただけだろ」

女子生徒が笑う。

「思ってたより変な人だね」

神代の手が止まる。

「思ってたより?」

「うん」

「俺のこと知ってたの?」

「名前は前から」

「なんで?」

女子生徒が少しだけ笑う。

「さて、なんででしょう」

神代は相手を見る。

しかし相手は神代だけでなく黒崎の名前まで知っている。

寮母へ「お母さん」と呼びかけていた。

そこまで考えたところで、神代の視線が厨房へ向く。

女子生徒が気づいた。

「あ」

神代が聞く。

「寮母さんの娘?」

「正解」

やはりそうだった。

神代は改めて相手を見る。

「娘がいたんだ」

「そこ知らなかったんだ」

「聞いてない」

「お父さん、言ってないんだ」

神代の眉が僅かに動いた。

「お父さん?」

女子生徒は神代の反応を見て、一瞬きょとんとした。

そして笑った。

「そっちも知らないの?」

「何が?」

「私のお父さん」

「寮母さんの夫なら榊原監督だろ」

「分かってるじゃん」

「それは最初に聞いたから」

「じゃあ分かるでしょ」

「何が?」

女子生徒は自分を指した。

「寮母の娘」

次に厨房を指す。

「お母さんは榊原監督の奥さん」

最後にもう一度自分を指した。

神代は理解した。

「ああ」

「遅くない?」

「ごめん。ちゃんと会話聞いてなかった」

「それひどくない?」

女子生徒は笑いながら言った。

「榊原千夏。一年三組」

「神代怜司。一年一組」

「それは知ってる」

まただった。

神代が少し眉を寄せる。

「最近それよく言われるな」

「有名人なんじゃない?」

「別に有名になるために入学したわけじゃないけど」

「普通そうでしょ」

千夏は神代の向かい側の椅子を引いた。

「ちょっと休憩」

そのまま座る。

神代は特に気にせずタブレットを操作した。

千夏が画面を見る。黒崎の投球映像。

「スライダー?」

「ああ」

「練習してるんだ」

神代がまた顔を上げる。

「野球分かるの?」

「多少はね」

「やってた?」

「やってないよ」

千夏は当然のように答える。

「父親がずっと野球やってて、今は高校野球の監督。家でも普通に野球の話するし」

「榊原監督、家でも野球の話するんだ」

「するよ」

「何の話?」

「いろいろ」

「例えば?」

「食いつくね」

「監督が家でどういう野球の話してるかは気になる」

千夏は少し考えた。

「最近一番多いのは蒼凛の話かな」

「十一人の?」

「うん」

そして少し間を置く。

「特に神代くん」

神代の指が止まった。

「俺?」

「結構出てくる」

「何て?」

千夏は思い出す。

「『あいつは何考えてるか分からん』とか」

神代が黙る。

「悪口?」

「半分くらい」

「残り半分は?」

「褒めてると思う」

「何を?」

「そこまで細かく聞く?」

「気になるから」

千夏は少し笑った。

「野球について考えてることは、本当に高校一年生とは思えないって」

神代は何も言わず聞いている。

「選手を見る目もある。技術を見る目もある。自分自身の能力も高い」

「それなら全部褒めてるな」

「まだ続きあるよ」

「何?」

「でも人の気持ちは全然分かってない」

神代の表情が止まった。

千夏が吹き出す。

「そこは心当たりあるんだ」

「最近似たようなこと言われてるから」

「誰に?」

「いろんな人」

「じゃあお父さんだけじゃないんだ」

「そうみたいだな」

千夏は少し面白そうに神代を見る。

父親から聞いていた人物像。

何でもできる。

野球について異常なほど考える。

十一人の選手を全国から集めた。

甲子園五連覇を本気で狙っている。

そんな話ばかり聞いていたから、もっと近寄りがたい人間を想像していた。

実際に話してみると、少し違う。

変わってはいる。だが、怖いわけではない。

「あとね」

「まだあるの?」

「『放っておくと選手に何でも教えすぎる』」

神代が僅かに眉を寄せた。

「最近は気をつけてる」

千夏が意外そうな顔をする。

「そうなの?」

「ああ」

「自覚あったんだ」

「前はなかった」

「何かあった?」

神代は少し考えた。

轟との会話。黒崎への言葉。

自分が正しいと思ったことを、そのまま伝えるだけでは相手が成長するとは限らない。

最近ようやく、それを意識し始めた。

「説明すると長い」

「じゃあいいや」

「聞かないの?」

「長いんでしょ?」

「ああ」

「ならいい」

神代が千夏を見る。

珍しい反応だった。

質問しておきながら、答えを無理に聞こうとしない。

千夏は気にした様子もなく、テーブルに頬杖をついた。

「神代くんって、もっとずっと喋ってる人かと思った」

「なんで?」

「お父さんがよく『神代にあれこれ言われた』って言ってるから」

「必要なことしか言ってないけど」

「お父さんからすると多いんじゃない?」

「そうなのかな」

「本人に聞けば?」

「分かった」

「本当に聞くの?」

「ああ」

「やめた方がいいかも」

「なんで?」

「『千夏から聞きました』って言われたら、私が怒られそう」

「じゃあ言わなければいい?」

「そういうところ妙に素直だね」

厨房から声が飛んできた。

「千夏、終わった?」

「あ」

千夏が椅子から立ち上がる。

「忘れてた」

神代が聞く。

「何しに来たの?」

「お母さんの手伝い。寮で使うもの持ってきただけ」

「普段も来る?」

「たまに」

「そうなんだ」

「何?」

「いや。今まで見たことなかったから」

「野球部が入寮してからは初めて来たかも」

千夏が厨房へ戻ろうとする。

途中で足を止めた。

「そういえば」

「何?」

「本当にやるの?」

「何を?」

「甲子園五連覇」

神代はすぐに答えた。

「やるよ」

「迷わないんだ」

「最初からそのために来たから」

千夏は少しだけ神代を見る。

父親から話は聞いていた。

だから目標自体は知っている。

だが本人の口から直接聞くと、印象が違った。

夢を語っているようには聞こえない。

目標を宣言している感じですらない。

明日の予定を答えるような口調だった。

「お父さん、最初は絶対無理だと思ったんだろうな」

「思ったって言ってたよ」

「本人に?」

「ああ」

「普通、選手に言う?」

「榊原監督だからな」

千夏が笑った。

「そこは分かってきたんだ」

「何が?」

「お父さんのこと」

神代は少し考える。

「野球に関しては」

「やっぱりそこなんだ」

「他に何を知る必要がある?」

千夏が数秒止まった。

それから笑う。

「そのうち分かるんじゃない?」

神代の顔が僅かに変わった。

「最近それもよく言われる」

「そうなの?」

「ああ」

「じゃあみんな同じこと思ってるんじゃない?」

「何を?」

「それが分からないから言われてるんじゃない?」

神代は黙った。


千夏は満足そうに笑い、厨房へ戻っていった。

神代はしばらくその方向を見る。

今日知ったこと。

榊原監督には、自分と同じ一年生の娘がいる。

名前は榊原千夏。三組。

野球経験はないが、野球の知識は多少ある。

そして、榊原監督は家で自分の話をしている。

神代はタブレットへ視線を戻した。

画面には黒崎のスライダー。

再生ボタンを押す。

数秒後。


厨房から千夏の声が聞こえた。

「お母さん」

「何?」

「神代くん、思ってたより普通だった」

神代の指が止まる。


少し間があって、寮母が答えた。

「そう?」

「うん。でもちょっと変」

神代は厨房を見る。

「聞こえてるけど」

一瞬静かになった。


次の瞬間、厨房から二人分の笑い声が聞こえた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。