ライバル登場?
数日後。
四時間目の体育は、一年一組と二組の合同授業だった。
この日はグラウンドを使った体力測定が行われている。
五十メートル走、ハンドボール投げ、立ち幅跳び。
いくつかの種目を男女に分かれて順番に回っていく形式だった。
一年一組の男子が五十メートル走のスタート地点へ集まる。
「怜司、何秒くらいや?」
隣に立った黒崎が聞いた。
「前に測った時は5秒90」
「それ聞いたらやる気なくすわ」
「聞いたの大雅だろ」
少し離れたところで水城が笑う。
「大雅も十分速いじゃん」
「怜司基準で考えたら遅いやろ」
「神代くん基準にするからおかしくなるんだよ」
体育教師が出席番号を確認しながら二人ずつ走者を呼んでいく。
神代の順番はまだ先だった。
その間、隣のレーンでは二組の女子が測定を始めている。
神代は特に興味を示さず、前を走る男子生徒のフォームを見ていた。
「神代くん」
後ろから篠宮に呼ばれる。
「何?」
「次、二組の天城さんらしいよ」
「天城?」
神代が隣のレーンを見る。
一人の女子生徒がスタート位置へ歩いていた。
髪を後ろでまとめ、軽く脚を振っている。
他の女子とは準備の仕方から少し違った。
「有名なんだって」
篠宮が言う。
「陸上?」
「知ってるの?」
「動きを見れば大体分かる」
「まだ走ってないけど」
「だから?」
篠宮はもう突っ込まなかった。
神代が見ていたのは脚ではない。
足首。
股関節。
立っている時の重心。
スタート位置に入った時の姿勢。
明らかに短距離走に慣れている。
教師が腕を上げた。
「位置について」
天城が腰を落とす。
合図。
次の瞬間、他の女子より明らかに速く前へ出た。
最初の数歩で差がつく。
そこからさらに加速する。
フォームはほとんど崩れない。
そしてゴール。
計測していた教師がストップウォッチを見る。
周囲から声が上がった。
「速っ」
「やば」
天城本人だけは特に喜ぶ様子もない。
タイムを確認すると、少し眉を寄せた。
「微妙」
一緒に走った女子が呆れたように言う。
「どこが?」
「スタート遅かった」
神代が小さく頷いた。
「確かに」
篠宮が見る。
「分かるの?」
「最初の二歩だけ少し浮いた」
その声が聞こえたのか。
天城がこちらを見た。
神代と目が合う。
数秒だけ視線が止まった。
しかしすぐに次の測定場所へ歩いていった。
「聞こえてたんじゃない?」
篠宮が言う。
「聞こえるくらいの声だったからな」
「気にしないんだ」
「何を?」
「……何でもない」
しばらくして神代の名前が呼ばれた。
スタート地点へ入る。
黒崎と水城も少し離れた場所から見ている。
「怜司、5秒90より遅かったら今日ずっと言うたるからな」
「好きにすれば」
「お前ほんま勝負のしがいないな!」
神代は構える。
合図と同時に走り出した。
十メートル。
二十メートル。
身体が加速へ入る。
三十メートルを越えた辺りから速度がさらに上がり、そのままゴールを駆け抜けた。
教師が時計を見る。
「5秒91」
神代は一度だけ頷いた。
ほぼ前回と同じ。
黒崎が笑う。
「遅なっとるやんけ!」
「0秒01だろ」
「遅なっとることには変わらん!」
「手動計測で0秒01を比較する意味ある?」
「そういう話ちゃうねん!」
水城が笑っている。
そのやり取りを、今度は天城が見ていた。
隣にいた女子が言う。
「神代くん速いね」
「うん」
天城は短く答える。
「野球部なんでしょ?」
「そうみたい」
「しかも入学式で挨拶してた人。結構かっこいいって言ってる子多いよ」
天城は神代を見る。
「顔で足速くなるわけじゃないでしょ」
「そういう話してないんだけど」
天城は気にせず続ける。
「でも、走り方は面白い」
「面白い?」
「陸上やってない人の走りじゃない」
しかし専門的なフォームではない。
短距離選手のように、走るためだけに最適化されているわけでもない。
それでも身体の使い方に無駄が少ない。
そして何より、あの身体の大きさで5秒台を出している。
天城の視線が少し変わった。
午前の授業が終わる。
生徒たちが用具を片付け始める中、神代は水城と今日の測定について話していた。
「湊、最後ちょっと上体起きてたな」
「やっぱり?」
「昨日の練習でも少し――」
「神代」
知らない声に呼ばれた。
神代が振り返る。
先ほど走っていた女子生徒が立っている。
「俺?」
「他に神代いる?」
「いないと思う」
天城は神代を見上げた。
「天城凛花。二組」
「神代怜司。一組」
「それは知ってる」
最近同じことを言われた気がする。
神代は少しだけ考えた。
「何?」
「さっき私が走った時、何か言ってたでしょ」
「ああ」
「最初の二歩が浮いたって?」
「そう言ったな」
「やっぱり」
天城の目が少し細くなる。
「陸上経験ある?」
「ない」
「じゃあなんで分かるの?」
「見れば分かる」
天城が黙った。
水城は隣で小さく笑う。
黒崎ならここで何か言うところだが、今は先に教室へ戻っている。
「それ、普通は分かんないよ」
「そうなの?」
「そう」
天城は神代を改めて見る。
「それより神代」
「何?」
「5秒91?」
「ああ」
「野球部で一番?」
「いや」
その答えに天城の眉が動いた。
「もっと速いのいるの?」
「隼人」
「鷹野隼人?」
神代が少しだけ驚く。
「知ってるのか?」
「野球部に5秒台がいるって聞いたから」
「鷹野は前に測った時に5秒86だったな」
天城の表情が変わった。
神代の5秒91には「速い」と思った。
だが、さらに速い選手がいる。
「へえ」
口元が僅かに上がる。
「その鷹野って子、陸上の短距離経験は?」
「ない」
「本当に?」
「ああ。野球経験も浅いけど」
「何それ」
天城が笑った。
どうやら、そちらにも興味を持ったらしい。
そして再び神代を見る。
「神代ってさ」
「何?」
「足も結構自信ある?」
神代は少し考えた。
「まあ」
「じゃあ今度走ろうよ」
水城が隣を見る。
神代も一瞬黙った。
「専門家相手に?」
「怖い?」
天城が挑発するように笑う。
神代の眉が僅かに動いた。
「そういう言い方する?」
「効いた?」
「別に」
「じゃあ走れるね」
「なんでそうなるんだ」
天城は笑う。
「嫌ならいいけど」
そう言って背を向ける。
神代がその後ろ姿を見る。
ほんの数秒。
「……何メートル?」
天城が足を止めた。
振り返る。
笑っていた。
「乗ってきたじゃん」
「距離聞いただけだけど」
「100」
「50じゃなくて?」
「50だと短すぎる」
天城は即答した。
「ちゃんと走るなら100メートル」
「いいよ」
今度は天城の方が少し驚いた。
「即答なんだ」
「走るだけだろ」
「そうだけど」
神代は続ける。
「ただし条件は同じにしたい。スタートも計測も」
「もちろん」
「あと、俺は陸上用のスパイク持ってない」
「運動靴でいいよ。私も合わせる」
「ならいい」
二人の間で話が決まっていく。
水城が口を挟んだ。
「神代くん、結構やる気じゃない?」
「別に」
「さっきまで練習の話してたのに」
「走るなら適当にやる意味ないだろ」
天城が笑った。
「そういうの嫌いじゃない」
チャイムが鳴る。
天城は校舎へ向かいながら手を上げた。
「じゃあまた決めよう、神代」
「ああ」
天城が離れていく。
水城が神代を見る。
「珍しいね」
「何が?」
「神代くんが野球以外で勝負するの」
「勝負っていうか、走るだけだろ」
「勝つ気ないの?」
神代は答えようとして、一度止まった。
天城は中学全国大会でも上位に入る短距離選手だという。
走る技術だけなら、自分より遥かに詳しい。
単純な身体能力だけではない。
スタート。加速。最高速度。姿勢。接地。
百メートルという距離の中で、どれだけ差が出るのか。
少し興味があった。
「……負けるつもりで走る意味はないな」
水城が笑う。
「やっぱりやる気じゃん」
神代は何も答えなかった。
校舎へ戻っていく天城もまた、少しだけ笑っていた。
入学してから聞く神代怜司の話は、野球のものばかりだった。
すごい投手。すごい打者。
新入生代表。
女子からは顔の話まで聞かされた。
どれも天城には大して興味がなかった。
だが。
5秒台で走り、自分のスタートの僅かな乱れを一度見ただけで指摘した。
それは少し違う。
天城凛花が初めて神代怜司に興味を持った理由は、誰かから聞いた評判でも、入学式で見た姿でもなかった。
ただ純粋に。
この男が、どこまで速く走れるのか。
それを自分の目で確かめたくなったからだった。




