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意外な一面

その日の放課後。


蒼凛学園野球部のグラウンドでは、いつも通り練習が始まっていた。

狛谷高校との練習試合を終えたばかりだが、十一人に休んでいる暇はない。

むしろ、昨日の試合で課題がはっきりした分、普段より動きは活発だった。

ブルペンでは黒崎がボールを握っている。

朝倉が捕手役として座り、その横には神代が立っていた。

「もう一回投げるで」

「いいよ」

黒崎が振りかぶる。

右腕から放たれたボールが外角へ向かい、途中から僅かに横へ曲がった。

朝倉のミットに収まる。

黒崎がすぐ神代を見る。

「今のどうや?」

「前よりはいい」

「前よりは、ってなんやねん」

「そのままの意味だけど」

「昨日のお前のスライダーと比べたら?」

「かなり違う」

「やっぱ腹立つわ、お前」

神代は気にせず黒崎へ近づいた。

「大雅は曲げようとしすぎてる」

「スライダーなんやから曲げるやろ」

「結果として曲がればいい。自分から曲げようとして手首を使いすぎると再現性が落ちる」

黒崎がボールを見る。

神代は少し考えた。

以前なら、ここで自分の考える正しい投げ方を全て説明していた。

握り。指のかかり方。リリース。腕の角度。回転軸。

いくらでも言える。

だが今の黒崎に、それを全部伝える必要はない。

「次は一つだけ意識して」

「何や?」

「ストレートと同じように腕を振る。それだけ」

黒崎が眉を寄せる。

「それだけでええんか?」

「今は」

「……分かった」

再びマウンドへ戻る。

朝倉が構えた。

黒崎が投げる。

今度の球は、さっきよりも真っ直ぐにホームへ向かってから、最後に小さく横へずれた。

朝倉がミットを動かして捕る。

「おっ!」

黒崎がすぐ振り返る。

「今のやろ!」

「さっきよりいい」

「やろ!」

「でもまだ――」

神代が続けようとする。

朝倉が神代を見た。

神代もその視線に気づく。

一瞬だけ考える。

「……今はそれでいい」

黒崎が不思議そうな顔をした。

「なんや。絶対なんか言おうとしたやろ」

「言おうとはした」

「言えや」

「今は一個だけでいいと思って」

黒崎が黙る。

それから少しだけ笑った。

「昨日からほんま気持ち悪いな」

「何が?」

「成長しとるやん」

「意味分からないんだけど」

朝倉が吹き出した。


少し離れた場所では、水城が下半身を使ったフォームの確認を繰り返していた。

その様子を榊原監督が見ている。

「水城、今日は球速を出そうとするなよ」

「はい」

「狛谷戦で最後に身体が浮いてただろ。まずそこを直せ」

「分かりました」

水城はマウンドへ戻る。

昨日、高校生相手に3回1失点。

初見では自分の投球が通用した。

だが回が進むごとに狛谷は対応を始めていた。

それが水城には面白かった。

まだ改善できる。

まだ増やせる。

昨日より今日の方が、むしろ投手として考えることは増えている。


そんな練習が続く中。

グラウンドの外に、一人の女子生徒が現れた。

フェンス越しに中を覗いている。

桜庭美羽だった。

「ほんとに十一人しかいないんだ」

誰に言うでもなく呟く。

授業が終わった後、友人と少し話してから帰る予定だった。

しかし朝の会話を思い出し、予定を変えた。神代が野球をしているところを見てみたくなった。

それだけだった。

フェンスの向こうでは、内野ノックが始まっている。

九条がショートから軽快に打球を処理し、白石がセカンドでボールを受ける。

轟はサードから強い送球を投げる。

外野では鷹野が打球を追っていた。

桜庭には野球の詳しいことまでは分からない。

ただ、思っていたより全員が真剣だった。


そして。

その中心に神代がいる。

自分の練習をしながら、何度も周囲を見ていた。

黒崎へ何かを言う。水城のフォームを見る。九条の守備位置を確認する。

時には榊原監督とも話している。

朝、教室にいた神代とは少し違って見えた。

「何してるの?」

後ろから声がした。

桜庭が振り返る。

篠宮澪が立っていた。

「篠宮さん」

「桜庭さんだよね」

「うん。美羽でいいよ」

「いきなりだね」

「その方が早いから」

篠宮がグラウンドを見る。

「野球部見てたの?」

「そう」

桜庭が神代を指差す。

「怜司くん見に来た」

「やっぱり」

「知ってたの?」

「朝、教室にいたから」

「あ、そっか。同じクラスだもんね」

桜庭は再びフェンスへ近づく。

「篠宮さんも見る?」

「私は帰るところだったんだけど」

「ちょっとだけ」

「なんで私まで」

そう言いながらも、篠宮は隣に立った。

二人でグラウンドを見る。

ちょうど神代が打撃練習へ入るところだった。

左打席に立つ。

藤堂が投げた球を一球見送り、次の球を振った。

金属音が響く。

打球は右中間へ伸び、そのままフェンスに直撃した。

桜庭が目を丸くする。

「すご」

篠宮も僅かに驚いていた。

野球には詳しくない。

それでも、今の打球が普通ではないことくらいは分かる。

次の球。

今度はセンター方向へ鋭いライナー。

その次は逆方向へ強い打球を飛ばす。

同じように振っているように見えるのに、打球の方向が変わっていく。

「怜司くんって、本当に野球上手いんだ」

桜庭が言う。

「昨日もかなり活躍したらしいよ、朝に本人から聞いた」

「本人?」

「『活躍した?』って聞いたら、『したと思う』って」

篠宮は想像して少し笑った。

「言いそう」

「でしょ?」

二人が話している間も練習は続く。

やがて神代が打撃を終えた。

バットを置き、水を飲む。


その時だった。

神代がグラウンドの外へ視線を向ける。

桜庭と目が合った。

「あ」

桜庭が手を振る。

神代は数秒見た後、軽く手を上げた。

それだけだった。

「気づいてたんだ」

篠宮が言う。

「今気づいたのかな?」

「もっと前から気づいてたかも」

「じゃあなんで何もしてくれないの?」

「練習中だからじゃない?」

「真面目だなあ」

そのまま練習は続いた。

桜庭は途中で飽きるかと思っていた。

しかし、意外とそうならない。

特に面白かったのは神代だった。

朝、自分が好意を向けてもほとんど表情を変えなかった。

それなのに黒崎が良い球を投げると、僅かに表情が変わる。

水城のフォームを見ている時もそうだ。

九条たちと話している時には、教室にいる時より言葉も多い。

「なんかさ」

桜庭が言う。

「何?」

「怜司くん、教室にいる時より楽しそうじゃない?」

篠宮は神代を見る。

少し考える。

「そうかも」

「やっぱり野球が好きなんだ」

「それは間違いないと思う」

二人が話していると、練習が一度区切られた。

神代がフェンスの方へ歩いてくる。

桜庭が笑う。

「来た」

「何してるの?」

神代が聞く。

「見に来た」

「何を?」

「怜司くんを」

「朝も見ただろ」

桜庭が一瞬止まる。

隣で篠宮が笑った。

「そういう意味じゃないよ」

神代が篠宮を見る。

「篠宮までいるし」

「捕まったの」

「捕まえたみたいに言わないでよ」

桜庭が笑う。

神代は二人を見る。

「野球分かるの?」

「ほとんど分かんない」

桜庭は即答した。

篠宮も頷く。

「私も詳しくはない」

「じゃあ見てて面白い?」

桜庭は少し考える。

「うん」

「なんで?」

「怜司くんが楽しそうだから」

神代が止まった。

「俺が?」

「うん」

「別にいつもと同じだけど」

「全然違うよ」

「どこが?」

桜庭は神代の顔を指差す。

「さっき黒崎くんがいい球投げた時、ちょっと笑ってた」

「そう?」

「水城くんの投球見てる時も」

神代は思い返す。

だが自覚はなかった。

「それと、教室よりいっぱい喋ってる」

篠宮も付け加える。

「それは私も思った」

「野球の練習だから必要なことを話してるだけだろ」

「そういうところも含めて」

篠宮が言う。

神代にはよく分からない。


その時、グラウンドから黒崎の声が飛んできた。

「怜司! 何サボっとんねん!」

神代が振り返る。

「休憩中だろ!」

「ほな早よ戻ってスライダー見ろ!」

「自分で考えろよ」

「教える言うたんお前やろが!」

桜庭が笑い出した。

「やっぱり教室と全然違う」

神代が桜庭を見る。

「何がそんなに面白いの?」

「まだ分かんない」

「分からないのに笑ってるの?」

「うん」

神代はさらに分からなくなった。

篠宮も小さく笑っている。

「じゃあ俺、戻るから」

「うん。頑張って」

神代がグラウンドへ戻ろうとする。

桜庭が呼び止めた。

「怜司くん」

神代が振り返る。

「何?」

「野球、楽しい?」

その質問に。

神代はほとんど考えなかった。

「ああ」

即答だった。

桜庭が少しだけ目を細める。

朝、好きな人を聞いた時とはまるで違う。

迷いもない。

薄い反応でもない。

「そっか」

桜庭は笑った。

「じゃあ、また見に来るね」

「好きにすればいい」

神代はグラウンドへ戻っていった。

黒崎がすぐに何かを言い、水城が笑う。

九条もそこへ加わる。

十一人の声がグラウンドに響いている。

桜庭はその光景をしばらく見ていた。

入学式で壇上に立っていた神代怜司。

何でもできそうで。

何を考えているのか少し分からなくて。

だから興味を持った。

けれど今日、初めて別のものを見つけた。

「ああいう顔もするんだ」

桜庭が小さく呟く。

その隣で、篠宮もグラウンドを見ていた。

十一人しかいない野球部。

選手しかいない。

練習中、ボールを拾うのも、用具を運ぶのも、記録を取るのも、全て自分たちでやっている。

篠宮はまだ、そのことに特別な意味を感じてはいなかった。


ただ。

帰るつもりだったはずなのに。

気づけば、もう少しだけ見ていこうと思っていた。


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