来訪者
狛谷高校との練習試合から一夜明けた月曜日。
一年一組の教室では、朝から昨日の試合について話している三人がいた。
「スライダーは今日からやるんやろ?」
黒崎が神代の机へ手をつく。
「やるよ」
「スプリットもな」
「同時に覚えようとすると、どっちも中途半端になる可能性があるけど」
「お前が昨日二つとも見せたんやろが」
神代は教科書を机の中へ入れながら黒崎を見る。
「見せたからって、同時に覚える必要はないだろ」
「俺が覚えたい言うとんねん」
その横で、水城が笑った。
「じゃあ僕は違うのからやろうかな」
黒崎が振り返る。
「なんでや」
「大雅と同じことしても面白くないし」
「競争言うたやろ」
「同じ方法で競争するとは言ってないよ」
「お前、そういうとこあるよな」
神代は二人の会話を聞きながら、昨日の投球内容を頭の中で整理していた。
黒崎はストレート。
水城は腕の出どころとタイミング。
二人とも高校生相手に武器が通用した。
同時に、今のままでは足りない部分も明確になった。
練習で修正する項目はいくつもある。
神代がノートを開こうとした、その時だった。
教室の入口付近が少し騒がしくなった。
「神代怜司くん、いる?」
女子の声が聞こえた。
神代が顔を上げる。
教室の入口に、一人の女子生徒が立っていた。
長い髪を整え、制服を自然に着こなしている。
派手な装飾をしているわけではない。
それでも、廊下を通る生徒が何人か振り返る程度には目立つ。
入学してまだそれほど経っていないが、一年生の中ではすでに顔を知られている生徒だった。
『桜庭美羽』
「怜司、呼ばれとるぞ」
黒崎が面白そうに言う。
「聞こえてる」
神代が立ち上がる。
桜庭は教室の中へ視線を向けると、すぐに神代を見つけた。
「あ、本当にいた」
「同じ学校なんだからいるだろ」
「そういう意味じゃないんだけど」
桜庭が笑う。
その時点で、何人かのクラスメイトが二人を気にしていた。
神代はそれを特に気にせず、桜庭の前まで歩いていく。
「何?」
「少し話したくて」
「俺と?」
「そう。神代怜司くんと」
桜庭は一度、神代を上から下まで見る。
「やっぱり入学式の時の人だ」
「入学式?」
「新入生代表挨拶してたでしょ」
「ああ」
「覚えてる?」
「何を?」
「私のこと」
神代は数秒考えた。
入学式当日の記憶を辿る。
「知らない」
「即答なんだ」
「話したことないだろ」
「まあ、そうだけど」
桜庭は特に気を悪くした様子もなく笑った。
その反応を少し離れた席から篠宮澪が見ていた。
神代と桜庭。
どういう関係なのかと思ったが、
今の会話を聞く限りでは少なくとも神代側は初対面らしい。
桜庭が続ける。
「私、桜庭美羽。3組」
「神代怜司」
「それは知ってる」
「そうか」
「それだけ?」
「他に何か言うことある?」
桜庭が一瞬黙った後、吹き出した。
「面白いね、怜司くん」
神代の眉が僅かに動く。
「もう下の名前で呼ぶの?」
「嫌だった?」
「別に」
「じゃあ決まりね」
背後で黒崎が水城へ小声で言った。
「なんやあれ」
「神代くんに会いに来たんじゃない?」
「それは見たら分かるわ」
「じゃあ何?」
「いや……距離近ないか?」
水城は二人を見る。
「近いね」
教室の入口では、桜庭がそのまま話を続けていた。
「怜司くんって野球部なんだよね?」
「ああ」
「昨日も試合だったんでしょ?」
神代が少しだけ目を細める。
「なんで知ってるんだ?」
「野球部の子が話してたから。新しい学校で十一人しかいないんでしょ?」
「そうか」
「で、勝ったの?」
「ああ、6対3でな」
「へえ。怜司くんは出た?」
「出たよ」
「活躍した?」
「それなりにしたと思う」
その答えに、今度は黒崎が口を挟んだ。
「したどころちゃうで」
神代が振り返る。
「大雅」
「4打数4安打で、最後三回投げて一人もランナー出してへん奴が何を控えめに言うとんねん」
桜庭の目が少し大きくなる。
「そんなにすごいの?」
「昨日に関しては結果だけ見ればそうなるな」
「へえ」
桜庭が神代を見る。
しかし野球の成績そのものよりも、その返答の仕方の方が面白そうだった。
「やっぱり変わってるね」
「よく言われる」
「それも気にしてない?」
「特には」
「そっか」
桜庭は少し考えるように神代を見る。
そして、何でもない質問をするような口調で聞いた。
「怜司くんって彼女いる?」
教室の空気が僅かに変わった。
先ほどまで何となく聞いていた何人かが、
今度は明確に耳を向ける。
黒崎も黙った。
水城は少し笑っている。
神代だけは変わらなかった。
「いない」
「好きな人は?」
「それもいない」
「気になってる人も?」
「いないな」
桜庭が笑った。
「じゃあ私、怜司くん狙っていい?」
神代はすぐには答えなかった。
質問の意味が分からないわけではない。
桜庭が自分に好意を持っている。
少なくとも、恋愛対象として興味を持っている。
そこまでは理解できる。
ただ、一つだけ疑問があった。
「それは俺の許可が必要なのか?」
数秒の沈黙。
最初に吹き出したのは水城だった。
黒崎も遅れて笑い出す。
「怜司、お前そこ聞くんか!」
「何がおかしいんだ?」
「いや、確かに許可いらんけどな!」
桜庭も一瞬驚いた後、楽しそうに笑った。
「そっか。いらないんだ」
「ああ」
「じゃあ好都合」
桜庭が一歩だけ神代へ近づく。
「じゃあ今日から怜司くんのこと狙うね」
「そうか」
神代の返答はそれだけだった。
桜庭が瞬きをする。
「……反応薄くない?」
「どう反応すればいい?」
「普通もうちょっと驚いたりしない?」
「桜庭が俺に好意を持ってるのは分かった」
「うん」
「でも俺には今、そういう感情がない」
あまりに真っ直ぐな答えだった。
断っているわけでもない。
期待させようとしているわけでもない。
ただ、自分の現在の状態をそのまま伝えている。
桜庭は数秒、神代を見つめた。
そして笑った。
「ますます面白いかも」
「何が?」
「こっちの話」
「そう」
黒崎が呆れたように言う。
「強いな、あの子」
水城も頷く。
「普通ここまで反応なかったらちょっと困りそうだけどね」
桜庭は二人を見る。
「黒崎大雅くんと、水城湊くんだよね?」
黒崎が眉を上げる。
「俺らも知っとるん?」
「野球部って十一人しかいないから覚えやすいよ」
「なるほどな」
桜庭は再び神代を見る。
「じゃあ、そろそろ戻るね」
「ああ」
「また来てもいい?」
「俺に聞かなくても来られるだろ」
「そうじゃなくて」
桜庭は少しだけ考えた。
「まあいいや。また来るね、怜司くん」
手を振り、教室を出ていく。
その姿が廊下の向こうへ消えるまで、何人かの視線が追っていた。
神代は自分の席へ戻る。
黒崎がすぐについてきた。
「怜司」
「何?」
「お前、今の何とも思わへんの?」
「何が?」
「可愛い子がわざわざ別のクラスから来て、狙う言うて帰ってったんやぞ」
「それは分かってる」
「分かっとってその反応なん?」
「ああ」
黒崎が頭を抱える。
「野球以外でも腹立つな、お前」
「なんでだよ」
水城が笑いながら自分の席へ戻った。
その様子を見ていた篠宮が、神代へ声をかける。
「神代くん」
「何?」
「桜庭さんがどういう気持ちで来たかは分かってるんだよね?」
「ああ」
神代は即答する。
「俺に好意があるんだろ」
「そこは分かるんだ」
「分かるよ。本人がほとんど言ってたし」
篠宮は少し考えてから言った。
「じゃあ、困らないの?」
「何に?」
「好意を向けられること」
神代はしばらく考えた。
これまでなら、質問に対してすぐ答えを出していた。
しかし最近、言葉には内容だけではなく、その言葉を選んだ理由があることを少しずつ意識するようになっている。
篠宮が知りたいのは、桜庭への評価ではない。
自分がどう感じたのか。
おそらくそういう質問だった。
「今のところは困ってない」
神代は答えた。
「俺に同じ感情がないことも伝えた。それでも桜庭が話しかけたいなら、別に止める理由はない」
「なるほど」
篠宮が小さく笑う。
「神代くんらしいね」
「どういう意味?」
「そのうち分かるんじゃない?」
神代が眉を寄せる。
「最近それ言う人多くない?」
篠宮は答えず、自分の席へ戻っていった。
神代は納得できないままノートを開く。
今日の放課後に行う黒崎と水城の練習。
修正項目。
投球フォーム。変化球。
考えることはいくらでもある。
そのはずだった。
だがノートへ文字を書き始めたところで、神代の手が一度止まった。
『桜庭美羽』
自分に好意がある。
本人がそう言っているのだから、そこまでは簡単だった。
しかし。
なぜ自分なのか。何を期待しているのか。
これからどうしたいのか。
そこから先になると、急に分からないことが増える。
野球なら、相手の目的を予測できる。
投手は打者を抑えたい。打者は投手から打ちたい。
勝つという目的も共通している。
だが、人間同士の感情には、最初から共通の目的があるとは限らない。
神代は数秒だけ考えた後、ノートへ視線を戻した。
今すぐ答えを出す必要はない。
少なくとも今は。
教室の外では、桜庭美羽が友人に呼び止められながら笑っていた。
一方の神代怜司は、まだ知らない。
自分がこれから向き合うものの中には、野球に関係するものだけではないことを。
そしてそれは、野球とはまったく違う方法で、神代の予想を外していくことになる。




