みちしるべ
七回裏。
神代がマウンドへと上がった。
ファーストには藤堂、レフトには橘が入り、水城は一塁側ベンチへ戻る。
三塁側の狛谷ベンチから見れば、蒼凛はこれで三人目の投手だった。
先発の黒崎は147キロ近いストレートを投げる右腕。
二番手の水城は球速以上に速く感じさせる左腕。
そして今度は、ここまで3打数3安打の三番打者がマウンドへ上がっている。
「こいつもピッチャーなのか」
「三番でファースト守ってたやつだろ?」
試合前のような笑い声はもうなかった。
一塁側では黒崎が計測用のタブレットを手元へ引き寄せていた。
隣には水城も座っている。
「ほんまに合わせる気なんやろな」
「神代くんならやるでしょ」
「できるかどうかちゃうねん。試合中に俺のためにこんなことする発想が意味分からへん」
そう言いながらも、黒崎の目はマウンドから離れない。
狛谷の五番打者が右打席へ入った。
神代の投じたストレートが朝倉のミットへ収まる。
表示は147km/h。
続くストレートもほぼ同じ速度だった。
黒崎がタブレットを見る。
「……ほんまや」
球速だけではない。回転数も、この日黒崎が投げていたストレートとほとんど変わらない。
神代なら150キロを超える球を投げられる。
それでも意図的に出力を抑えていた。
五番打者も、速さだけなら黒崎を相手にした三回までに経験している。
ファウルで粘りながら対応しようとした。
だが、神代にはその先があった。
ストレートと見分けにくい軌道からスライダーが鋭く外へ切れる。
打者のバットは届かず、空振り三振。
続く六番も、神代のストレートそのものには食らいついた。
しかし横へ曲がる球を意識したところで、今度は別の変化が来た。
ストレートと同じ腕の振りから放たれたボールが、打者の手元で急激に沈む。
バットが空を切った。
朝倉のミットが低い位置でボールを受ける。
六番打者は思わず後ろを振り返った。
「……何だ、今の」
「スプリットか」
黒崎が呟いた。
水城も目を細める。
「すごい落ち方だね」
黒崎は答えない。
同じくらいの球速。同じくらいの回転数。
自分が投げていたストレートと大きな違いはないはずだった。
それでも、打者の反応は明らかに違う。
横へ逃げるスライダー。
下へ消えるスプリット。
どちらも決め球として使える以上、打者はストレートだけを待てない。
「……そういうことか」
黒崎が呟く。
「何か分かったの?」
水城が聞いた。
「ああ」
黒崎はマウンドの神代を見る。
「やっぱり俺のストレートが足りひんかったんちゃう」
少し間を置く。
「俺には、ストレート以外に打者が本気で嫌がる球がなかったんや」
水城は何も言わなかった。
七番打者も変化球を警戒した結果、神代のストレートに差し込まれた。
力のない打球を九条が処理し、藤堂へ送る。
三アウト。
七回裏、三者凡退。
狛谷ベンチが静かになる。
黒崎も速かった。水城も打ちづらかった。
だが、神代はさらに違った。
「もしかして三番手のこいつが、一番いいピッチャーなのか……?」
誰かがそう口にした。
八回表。
打順は一番の九条から。
狛谷のエースは続投している。
九条は甘く入った球をレフト前へ運び、先頭で出塁した。
続く白石は確実に送りバントを決める。
一死二塁。
三番、神代。
この試合ではすでに3打数3安打。
狛谷のエースとは、六回にセンター前を打って以来、二度目の対戦だった。
三塁側から声が飛ぶ。
「三番は絶対返すな!」
「長打だけ気をつけろ!」
狛谷バッテリーも神代への攻めをさらに慎重にした。
低めの変化球と外角を中心に使い、簡単には打てる球を与えない。
それでも、一球だけ僅かに甘くなった。
神代はそれを逃さなかった。
鋭い打球が右中間を破る。
九条が二塁から一気に生還。
4対3。
神代は二塁へ到達した。
4打数4安打。
三塁側ベンチから、今度は何の声も出なかった。
一塁側では轟が呆れたように言う。
「また怜司かよ」
御堂がヘルメットを被る。
「じゃあ今度は俺が返すか」
「四番なんだから今度こそ打てよ!」
「剛士に言われなくても打つよ」
左打席へ入った御堂も、狛谷のエースとの二度目の対戦だった。
最初の打席では内野フライに抑えられている。
御堂は今度は簡単に打ちにいかなかった。
変化球を見極めながらタイミングを合わせ、ストレートをセンター前へ弾き返す。
神代が三塁を回る。
5対3。
御堂は一塁に到達すると、一塁側ベンチを見る。
轟と目が合った。
「返したよ」
「分かっとるわ!」
「じゃあ次、剛士ね」
「お前より飛ばしたる!」
轟も強く振り抜いたが、打球はレフトの正面。
続く朝倉も内野ゴロに倒れ、追加点は入らなかった。
それでもこの回、蒼凛が2点を勝ち越した。
八回裏。
狛谷は八番からの攻撃だった。
神代は変わらず、黒崎とほぼ同じ出力のストレートを投げ続けている。
だが狛谷の打者にとって、ストレートだけを狙うことはもうできなかった。
八番打者は外へ切れるスライダーにバットが届かず三振。
九番打者は変化球を警戒しながら食らいついたものの、最後はストレートに差し込まれてショートゴロに倒れた。
二アウト。
続く一番打者。
三塁側から声が飛ぶ。
「何でもいいから塁出ろ!」
一番打者も粘った。
しかし神代は慌てない。
最後はストライクゾーンから鋭く落ちるスプリットでバットを空振りさせた。
三振。
この回も三者凡退。
神代は2回を投げ、まだ一人のランナーも出していない。
黒崎はタブレットを見続けていた。
「球速、上げてへんな」
「うん」
「回転数もほぼ俺と一緒や」
「すごいよね」
「……腹立つわ」
水城が笑う。
「なんで?」
「ここまで分かりやすく見せられたら言い訳できへんやろ」
黒崎は自分の右手を見る。
「俺のストレートは通用する。せやけど、もっと活かせる」
悔しさは消えていない。
むしろ強くなっていた。
ただし、その中身が変わっていた。
打たれたことへの苛立ちではない。
自分に足りないものが、はっきり見えてしまったことへの苛立ちだった。
「スライダー……」
黒崎が呟く。
「まずはあれやな」
水城は隣で神代を見ていた。
「大雅はスライダーなんだ」
「湊はちゃうんか?」
「僕はもっといっぱいあるかな」
「欲張りやな」
「だって僕、最後は普通に対応されたからね」
水城は笑っていたが、視線は真剣だった。
「球速も上げたい。変化球も増やしたい。今の投げ方ももっと磨きたい」
黒崎が横を見る。
「全部やんけ」
「うん」
「……まあ、俺も人のこと言えへんけどな」
二人は再びマウンドを見る。
神代との距離は、まだ遠い。
だが今日、その差が何でできているのかを少しだけ見ることができた。
九回表。
先頭の鷹野が打席へ入った。
狛谷のエースから放たれた球をショート方向へ転がす。
ショートも素早く処理したが、一塁への送球より鷹野の足が僅かに早かった。
「セーフ!」
内野安打。
鷹野が一塁で拳を握る。
「よっしゃ!」
藤堂は確実に送りバントを決め、一死二塁。
九番には、水城に代わって途中出場した橘が入る。
この試合最初の打席だった。
橘は右打席で粘り、最後はライト方向へ打球を飛ばした。
ライトが捕球したのを確認すると、二塁の鷹野がタッチアップで三塁へ進む。
二アウト三塁。
打順は一番へ戻り、九条。
狛谷バッテリーも一点を防ごうと慎重に攻めたが、九条は甘くなった球をセンター前へ弾き返した。
鷹野がホームを踏む。
6対3。
その後は白石が倒れて攻撃終了。
三点差で最後の守備を迎えた。
九回裏。
狛谷は二番打者から。
三塁側ベンチから、この日一番の声が飛んだ。
「三点ならまだいける!」
「上位だぞ!」
「一人ずつ出ろ!」
試合前、蒼凛を一年生だけの新設校だと笑っていた選手たちはもういない。
全員が本気で三点を追っていた。
神代はマウンドで朝倉のサインを見る。
二番打者は神代の変化球についてすでに情報を得ていた。
それでも、頭で分かることと打席で対応することは違う。
ストレートにもスライダーにも簡単には手を出さず粘ったが、最後は外へ鋭く逃げるスライダーにバットが届かなかった。
三振。
一アウト。
次は三番。
黒崎からタイムリーを放ち、
水城からも同点打を打っている。
この日の狛谷打線で、蒼凛の二人の投手を最も捉えていた打者だった。
黒崎がベンチで身を乗り出す。
「こいつや」
「僕も打たれたからね」
水城もマウンドを見る。
三番打者は簡単には崩れなかった。
神代のストレートにも食らいつき、スライダーにも手を出さない。
朝倉が返球する。
神代は表情を変えない。
次に投じたのはスプリットだった。
打者は途中までストレートと判断して振りにいった。
しかしバットが出た直後、白球が急激に沈む。
何もない空間をバットが通過した。
空振り三振。
打者はその場で僅かに止まった。
「……消えた」
三塁側から声が漏れる。
二アウト。
最後は四番打者。
一塁側から黒崎が叫んだ。
「怜司!」
神代が僅かに顔を向ける。
「最後までそのままで抑えろ!」
朝倉がマスクの奥で笑う。
「注文入ったよ」
神代も少しだけ笑った。
「最初からそのつもりだ」
四番打者も意地を見せた。
簡単には三振せず、ストレートをファウルにして粘る。
だが、神代には選べる球がある。
最後に朝倉が要求したのはスライダー。
神代が頷く。
ストレートと同じような軌道から、ボールが打者の手元で鋭く外へ逃げた。
バットが空を切る。
「ストライク! バッターアウト!」
三アウト。
試合終了。
スコアボードには、
蒼凛 6
狛谷 3
と表示されていた。
蒼凛学園野球部、初めての対外試合。
結果は6対3の勝利で終わった。
神代は七回からの3イニングを投げ、
打者9人に対して被安打0、四球0、失点0。
奪った三振は7つ。
ストレートの球速と回転数は、最後まで黒崎がこの日投げていたものとほぼ同じ水準に合わせていた。
それでも結果は明らかに違った。
整列を終え、十一人が一塁側ベンチへ戻る。
黒崎は真っ先に神代の前へ来た。
「怜司」
「何?」
「スライダー教えろ」
「いいけど」
「あとスプリットもや」
神代が少し考える。
「いきなり二つ?」
「お前が二つとも見せたんやろが!」
水城も横から入る。
「神代くん、僕にも教えて」
「湊まで何やねん」
「僕も今のままじゃ足りないから」
黒崎は一瞬水城を見る。
それから笑った。
「ほな競争やな」
「何の?」
「どっちが先に怜司に追いつくかや」
水城は少し考えた。
「いいね」
神代が二人を見る。
「二人とも追いつくだけでいいのか?」
二人が同時に神代を見る。
「どういう意味や」
「俺を超えるつもりじゃないのか?」
黒崎の目が変わった。
数秒後、口元が上がる。
「……言うたな」
水城も笑う。
「じゃあ超えるよ」
神代は頷いた。
「その方がいい」
黒崎は悔しそうだった。
水城は楽しそうだった。
それぞれ反応は違う。
それでも二人が見ている場所は同じだった。
今日、自分たちの武器は高校生にも通用した。
同時に、それだけでは足りないことも分かった。
そして、自分たちより先にいる投手が、すぐ近くにいる。
黒崎にとって、それは腹の立つ現実だった。
水城にとって、それは楽しみな現実だった。
しかしどちらにとっても、立ち止まる理由にはならなかった。




