初陣
数日後の放課後。
十一人がグラウンドへ集まると、榊原監督は練習を始める前に全員をバックネット前へ呼んだ。
「みんなよく聞いてくれ。今度の日曜、練習試合をやることになった」
その一言で空気が変わった。
春休みから毎日のように練習してきたが、相手はいつも同じ十人だった。
蒼凛学園野球部にとって、これが初めての対外試合になる。
「やっとですか。相手どこです?」
真っ先に反応した黒崎に、榊原監督が答える。
「都立狛谷高校。去年の夏は西東京大会ベスト16。甲子園出場経験はないが、都立の中では毎年上位に来る学校だ」
「ええやん。最初の相手にはちょうどええ」
「大雅、練習試合だよ」
水城が笑うと、黒崎はすぐに振り返った。
「練習試合でも試合は試合や。勝ちに行くに決まっとる」
「まだ何もしてないけどね」
榊原監督は二人のやり取りを聞き流し、手元の紙へ視線を落とした。
「スタメンも決めてある。言うぞ。一番ショート九条。二番セカンド白石。三番ファースト神代」
順番に返事が続き、榊原監督が次の名前を読む。
「四番ライト御堂」
「……はい」
僅かな間を聞き逃さなかった轟が、すぐに御堂を見る。
「悠真が四番かよ」
「俺も四番ってあんまり好きじゃないんだけど」
「だったら俺と代われよ」
「それは嫌だ」
「なんでだよ!」
九条が笑った。
「剛士、完全に怜司の狙い通りじゃん」
「どういう意味だ?」
轟が神代を見ると、神代は何でもないことのように答えた。
「悠真を四番に置いておけば、剛士が四番を取りたくなるから」
「怜司、それ本人の前で言うのかよ」
朝倉が苦笑する。
「前にも説明しただろ」
轟は納得したのかしていないのか分からない表情で御堂を指差した。
「絶対奪うからな」
「打てるならどうぞ」
「言ったな?」
「はいはい」
榊原監督が続きを読み上げる。
「五番サード轟。六番キャッチャー朝倉。七番センター鷹野。八番レフト藤堂」
「はい」
藤堂が丁寧に返事をする。
「そして、九番ピッチャー黒崎」
黒崎の口元が上がった。
「よっしゃ」
「なんか嬉しそうだね」
「当たり前やろ。蒼凛の最初の試合で俺が先発やぞ」
水城へ答えた黒崎は、そのまま神代を見た。
「怜司、先に結果出したるからな」
「何の?」
「投手としてに決まっとるやろ!」
「別に競争するための試合じゃないけど」
「お前ほんまそういうとこやぞ」
何人かが笑う。
榊原監督は最後に水城と橘を見た。
「水城と橘はベンチスタート。ただし二人とも使う予定だ。十一人しかいないんだから、最初に名前がないからって休めると思うなよ」
「はい」
「はい!」
水城と橘がそれぞれ答える。
神代は配られた都立狛谷高校の資料へ目を落とした。直近の大会成績、投手陣、打線の傾向。
初めて高校生と対戦することで、自分たちの現在地がどこまで通用するのか。
それが神代には何より興味深かった。
日曜日。
都立狛谷高校のグラウンドには朝から金属バットの音が響いていた。
蒼凛の十一人は一塁側ベンチへ荷物を運び込む。
向かいの三塁側ベンチには、狛谷の選手たちが何列にもなって並んでいた。
試合に出る選手だけではなく、控えや下級生まで含めれば五十人を超えている。
一塁側に十一人しかいない蒼凛とは、見た目からして違った。
「こうして見ると、俺らって本当に少ないね」
橘が三塁側を見ながら言う。
「実際少ないからな」
九条が答える。
鷹野も相手ベンチへ目を向けた。
「さっきからめちゃくちゃ見られてない?」
その通りだった。
狛谷の選手たちは、真新しい蒼凛のユニフォームと、一塁側ベンチにいる十一人を珍しそうに見ている。
「おい、ほんとに全員一年らしいぞ」
「二、三年いないんだろ? 新設校だし」
「しかも部員十一人ってマジ?」
「今日の練習試合、全員連れてきて十一人だって」
「怪我人出たらどうすんだよ」
三塁側から笑い声が聞こえる。
少し離れたところでも、別の相手選手たちが話していた。
「まあ、こっちも調整にはちょうどいいだろ」
「一年だけのチームに負けたら洒落にならないけどな」
「さすがにないだろ」
九条が神代を見る。
「聞こえてる?」
「ああ」
「ムカつかない?」
神代は狛谷のシートノックを見たまま答えた。
「試合すれば分かることさ」
「そう言うと思った」
白石が小さく笑う。
神代にとって、相手が自分たちをどう評価しているかは大した問題ではなかった。
評価が正しいかどうかは、これから結果で決まる。
狛谷側のスタメンが発表される。
野手には主力が何人か入っていたが、先発はエースではなく控えの二年生右腕だった。
黒崎がそれを聞いて眉を動かす。
「なんやエースちゃうんか」
「一年生だけの新設校に、最初からエース出す必要ないって判断なんでしょ」
朝倉が防具を確認しながら答える。
「舐められとるやんけ」
「そうだろうね」
「余計燃えてきたわ」
黒崎は朝倉を連れてブルペンへ向かった。
力強いストレートが朝倉のミットへ収まり、乾いた音が響く。続けて投げ込まれた球も勢いがあり、少し離れたところから見ていた水城が口を開いた。
「今日の大雅、速そうだね」
「たしかに速いな」
「どのくらい出てるんだろ?」
「147前後ってとこか」
水城が神代を見る。
「測ってないよね?」
「見れば大体分かるだろ」
「もうそこには驚かなくなってきたよ」
水城が笑う。
さらに黒崎がストレートを投げ込むと、三塁側にいた狛谷の選手数人がブルペンへ振り返った。
「あいつ速くない?」
「一年だろ?」
「一年にしては、じゃなくて普通に速いぞ」
それまでとは少し違う声だった。
ホームベースを挟み、両校が整列する。
一塁側、先攻:蒼凛学園。
三塁側、後攻:都立狛谷高校。
「お願いします!」
声が重なった。
蒼凛学園野球部、最初の対外試合が始まった。
一回表、先頭の九条が左打席へ入る。
狛谷の右腕は突出した球威こそないものの制球が安定しており、
九条は外角球を逆方向へ転がしたもののセカンドの正面。
続く左打者の白石も初球から積極的に振り、鋭い打球を飛ばしたがショートに処理された。
簡単に二アウト。
三塁側から声が飛ぶ。
「普通にやれば大丈夫だぞ!」
「一年相手に力むなよ!」
一塁側ベンチで轟が顔をしかめた。
「ムカつくな」
藤堂が隣で苦笑する。
「まだ実際に何も見せていませんからね」
「だからって言い方あるだろ」
三番の神代が左打席へ向かう。
何かを感じ取ったのか、狛谷の内野陣も少しだけ守備位置を確認した。
神代は最初の球を見送り、続いて甘く入ってきたストレートを迷わず振り抜いた。
鋭い打球が一、二塁間を破ってライト前へ抜ける。
神代は一塁で止まった。
派手な長打ではない。
それでも打球が異常に速かったため、狛谷のセカンドは抜けていったボールを一度振り返った。
三塁側の声が少しだけ減った。
続く四番の御堂も左打席へ入る。
「悠真! 四番なら怜司返せよ!」
一塁側から轟が叫ぶ。
御堂は振り返らない。
御堂も狛谷の右腕を捉えたが、鋭い打球はセンターの守備範囲。
得点にはつながらず、蒼凛の初回は無得点に終わった。
ベンチへ戻ってきた御堂を、轟が待ち構えていた。
「返せてねえじゃん」
「まだ一打席目だからね」
「俺なら打ってた」
「じゃあ次、自分で打って」
「言われなくても打つ」
神代がヘルメットを置いてグラブを持つ。
「守るぞ」
九人が一塁側ベンチからグラウンドへ出た。
キャッチャーの朝倉がホームへ入り、
先発の黒崎がマウンドへ上がった。
一塁側ベンチには水城と橘が残る。
黒崎は三塁側ベンチを一度だけ見た。
先ほど聞こえてきた「一年だけ」「調整にはちょうどいい」という声を忘れてはいない。
「舐めんなよ」
小さく呟き、狛谷の先頭打者を見る。
初回から黒崎はストレートで押した。
狛谷の一番打者も球速には対応しようとしたものの、バットは僅かに遅れ続け、最後は高めの力強いストレートに空振り三振を喫した。
「よっしゃ!」
黒崎の声が響く。
三塁側ベンチの空気が変わる。
戻ってきた一番打者が仲間に言った。
「速いぞ。普通に145以上ある」
「マジか」
続く二番打者は簡単には振らず、黒崎のストレートに何度も食らいついた。
力では押されながらもファウルで粘り、追い込まれてから投じられたスライダーが甘く入ったところを逃さない。
打球は三塁線を破り、藤堂が処理する間に二塁へ到達した。
黒崎の笑みが消える。
「大雅、次」
朝倉が短く声をかけた。
「分かっとる」
三番打者にもストレートは通用した。
狛谷の打者は完全には捉えられず、何度も差し込まれる。
それでもファウルで粘られ、最後に黒崎が選んだ変化球が再び甘く入った。
逆方向へ弾き返された打球がライト前へと落ちる。
二塁走者が三塁を回った。
御堂がすぐに捕球して本塁へ返す。
送球は悪くなかったが、走者の方が僅かに早かった。
「セーフ!」
0対1。
蒼凛学園野球部が、初めて他校に奪われた得点だった。
三塁側ベンチから一斉に声が上がる。
「よし!」
「速いだけだぞ!」
「一年なんだから慌てんな!」
その声が黒崎にも聞こえた。
右手のボールを強く握る。
朝倉はすぐに気づいた。
「大雅」
黒崎がホームを見る。
朝倉は余計なことを言わず、ただミットを構えた。
黒崎は一度息を吐いた。
「分かっとるって」
ここからはストレートを中心に押し切った。四番打者を詰まらせて九条への遊ゴロに仕留めると、続く五番には力で勝負し、高めのストレートで空振り三振を奪った。
追加点は許さない。
一回裏終了。
0対1。
三塁側から聞こえていた「一年だけ」という声は、試合前より明らかに減っていた。
それでも黒崎の表情は険しい。
一塁側ベンチへ戻ってくると、神代と目が合った。
「何や」
「何も言ってないけど」
「絶対何か言いたいやろ、その顔」
神代は少し考えた。
数日前までなら、すぐに答えていただろう。
変化球が甘い。
ストレートは十分通用している。
だったら変化球を直せばいい。
だが、今の黒崎がそれに気づいていないとは思えなかった。
「大雅はどう思った?」
「……俺?」
「ああ」
黒崎は少し意外そうな顔をした後、ベンチへ腰を下ろした。
「変化球やな。ストレートは通用しとる。打たれた二本はどっちも変化球やった」
「俺もそう思う」
神代はそれ以上言わなかった。
黒崎が神代を見る。
「終わりかいな?」
「分かってるなら、今はそれでいいだろ」
「……そうか」
近くで聞いていた九条が笑った。
「お」
神代が見る。
「何?」
「ちょっとは学んでると思って」
「何の話?」
「それが分かってないならまだ途中だな」
「意味分からないんだが」
黒崎は二人の会話を聞きながら帽子を被り直した。
「怜司」
「何?」
「次は抑える」
神代はすぐに答えた。
「期待してる」
黒崎の目が僅かに変わった。
それから口元を上げる。
「当たり前や」
その横で、水城はスコアボードを見ていた。
0対1。
黒崎の147キロ近いストレートは高校生相手にも十分通用した。
それでも、高校生はただ速いだけでは簡単に終わってくれない。
自分もこの後、あの打線を相手にする。
自分のストレートは黒崎より遥かに遅い。
それでも水城の表情に不安はなかった。
むしろ楽しそうだった。
「僕が投げる時、どこまで通用するかな」
橘が隣を見る。
「緊張してる?」
「ちょっとね。でも楽しみかな」
一方、三塁側の狛谷高校も、ようやく少しずつ気づき始めていた。
新設校。部員十一人。全員一年生。
試合前までは、その三つの情報だけで勝つと思っていた。
だが今は違う。少なくとも、簡単に勝てる相手ではない。
その認識が完全に変わるまで、まだ少しの時間が必要だった。




