噛み合わない十一人
入学から数日が経った。
授業が始まり、十一人も少しずつ高校生活のリズムに慣れ始めていた。
朝は寮で食事を取り、学校へ行き、授業を受ける。放課後になればグラウンドへ向かい、日が落ちるまで練習する。
野球部の練習も、入学時測定の結果を基準に少しずつ形が変わっていた。
鷹野は外野守備の打球判断。轟は変化球への対応。黒崎は変化球の精度。水城は身体作りとフォームの安定。選手ごとに課題を設定しながら、十一人全体での連係練習も並行して進めている。
そして神代は、そのほとんどを見ていた。
自分の練習をしながら、他の十人の動きも見る。気づいたことがあれば伝える。それ自体は春休みから変わっていない。
ただ最近、神代が何かを言った後に、相手が一瞬黙ることが増えていた。
その理由を、神代だけがまだ理解していなかった。
放課後。
「今日は実戦形式を多めにやる」
榊原監督の言葉に、十一人がグラウンドへ散った。
人数は十一人しかいない。通常の紅白戦はできないため、守備側と打撃側を入れ替えながら、走者やアウトカウントを設定して試合に近い状況を作る。
最初のマウンドには黒崎が立った。
捕手は朝倉。打席には御堂が入る。
「大雅、変化球も使えよ」
朝倉が言う。
「分かっとるわ」
黒崎がセットに入った。
数球後、御堂が外角の球を捉えた。鋭い打球が右中間へ上がる。
鷹野が反応した。
一瞬だけ右へ身体が傾き、すぐに方向を修正する。そこからの加速は速い。広いストライドで一気に落下地点へ入り、最後は余裕を持って捕球した。
「アウト!」
九条が声を上げる。
「よし」
鷹野がボールを内野へ返した。
その時だった。
「今の、一歩目遅い」
神代の声が飛んだ。
鷹野が振り返る。
「また?」
「最初に右へ動いただろ。打球は最初から右中間だった」
「でも捕ったじゃん」
「今の打球ならな」
鷹野の表情から少し笑みが消えた。
神代は続ける。
「もっと打球速度が上がったら、その一歩で追いつけなくなる」
「分かってるって」
「分かってるなら直した方がいい」
「だから今やってるんだろ」
少しだけ声が強くなった。
神代は首を傾げる。
「だったら何で怒ってる?」
「怒ってねえよ」
鷹野はそう言うと、外野へと戻った。
九条が神代を見る。
「怜司」
「何?」
「今のは別に言わなくてもよかったんじゃない?」
「なんで?」
「この前も言っただろ」
「でも、また同じ動きしてたから」
九条は何か言おうとしたが、やめた。
「……もういい」
神代にはやはり分からなかった。
間違いを見つけた。伝えた。本人も直したいと思っている。
なら、問題はないはずだった。
その後も練習は続いた。
次の打者は轟。
黒崎のストレートを一球ファウルにした後、低めへ落ちる変化球にバットが空を切った。
「くそ」
轟が短く呟く。
続く球も変化球。今度は身体が前へ出たところを、黒崎に外へ逃げる球でかわされた。
「三振」
「うわ、またかよ」
轟がバットを肩へ乗せた。
黒崎がマウンドで笑う。
「剛士、変化球見えてへんで」
「うるせえ」
「分かりやすいくらい前出とるわ」
「次は打つからな」
轟が打席を離れようとする。
その背中へ、神代が言った。
「まだ待ててない」
轟が止まった。
「……分かってる」
「直球を意識しすぎてる。大雅のフォームなら、もう少し長く待ってもストレートには間に合う」
「分かってるって」
「だったら――」
轟が振り返った。
「怜司」
声の調子が変わっていた。
「何?」
「前も言ったよな。今、自分でやってる」
「ああ」
「だったら少しくらい黙って見ててくれよ」
神代は数秒、轟を見る。
「でも結果出てないだろ」
空気が止まった。
轟の表情が変わる。
「……それを言うか?」
「何が?」
「こっちは直そうとしてんだよ」
「知ってる」
「じゃあ何でそんな言い方すんだよ」
「事実だから」
轟が何も言わなくなる。
その様子を見ていた黒崎が、マウンドから大きく息を吐いた。
「怜司」
「何?」
「お前、ほんま言い方考えた方がええで」
神代が黒崎を見る。
「大雅まで?」
「までって何やねん」
黒崎はボールを朝倉へ渡すと、マウンドを降りてきた。
榊原監督は少し離れた場所に立ったまま、まだ口を挟まない。
神代は黒崎へ向き直る。
「じゃあどう言えばいい?」
「そこから分かってへんのか」
「だから聞いてるんだ」
「そういう問題ちゃうねん」
「じゃあどういう問題なんだ?」
黒崎の眉間に皺が寄る。
「お前、自分が正しかったら何言うてもええと思っとるやろ」
「思ってない」
「思っとる」
「思ってないって」
「ほな今の剛士に言う必要あったんか?」
神代が轟を見る。
「変化球に対応できてなかったから」
「せやから、それはみんな分かっとんねん」
「なら直せばいいだろ」
黒崎が一度目を閉じた。
「……ほんま、話通じへんな」
「大雅が説明してないからだろ」
「そういうとこや!」
黒崎の声がグラウンドに響いた。
水城が少し驚いたように振り返る。白石や橘たちも練習を止め、二人を見る。
黒崎はそのまま続けた。
「お前はだいたい正しいねん。野球も、勉強も、分析も。言っとること自体は大体合っとる」
「だったら――」
「でもな」
黒崎が遮った。
「人間は数字通りに動かへんねん」
神代の口が止まった。
「どういう意味?」
「そのまんまや」
「それが野球に何の関係がある?」
黒崎が呆れたように笑った。
「やっぱ分かってへんやんけ」
「だから何を?」
今度は轟が口を開いた。
「怜司」
「何?」
「俺、お前が言ってること間違ってるとは思ってないよ」
「なら――」
「でもムカつく時はある」
神代が黙る。
鷹野も外野から戻ってきていた。
「俺も」
神代が鷹野を見る。
「一歩目のこと?」
「ああ」
「でも直した方がいいだろ」
「それは分かってる」
「じゃあ――」
「分かってるからこそ、できない時に何回も言われたら腹立つんだよ」
神代には、その感覚がすぐには理解できなかった。
できていないことを指摘される。なら、直せばいい。
自分ならそうする。
言われた内容が正しければ、相手の言い方を気にする必要もない。
少なくとも神代は、ずっとそう考えてきた。
「でも神代くんは、みんなを良くしようとして言ってるんだよ」
たまらず水城が口を開いた。
黒崎がすぐそちらを見る。
「湊」
「何?」
「それは分かっとる」
「だったら――」
「せやけど、今はそこちゃう」
水城が言葉を止める。
朝倉が隣から水城の肩を軽く叩いた。
「大丈夫」
「でも……」
「怜司も聞いた方がいい」
水城は少し迷った後、結局黙った。
すると白石が神代を見た。
「怜司」
「何?」
「俺を誘った時に言ったこと、覚えてる?」
「何を?」
「相手が嫌がることを全部やれって」
神代は少し考え、頷く。
「ああ」
白石はいつも通り淡々としていた。
「それ、野球では正しいと思う」
「だろ?」
「でも味方には逆でいいんじゃない?」
神代が眉を寄せる。
「逆?」
「味方が嫌がる言い方を、わざわざ選ぶ必要はない」
神代は何も返さなかった。
「奏太、それや」
黒崎が言った。
白石が黒崎を見る。
「何が?」
「俺もそれ言いたかった」
「じゃあ先に言えばよかっただろ」
「そこまで綺麗に言葉にできひんねん」
少しだけ空気が緩んだ。
朝倉も神代を見る。
「怜司」
「何?」
「お前、小さい頃からそうだったよ」
「何が?」
「正しいことをそのまま言う」
「悪い?」
「悪くない」
朝倉は少し考えてから続けた。
「でも、正しいことと、相手が受け入れられることは同じじゃない」
神代は黙った。
理解できないわけではない。
例えば打者に同じ球を投げ続ければ、いずれ対応される。相手によって配球を変える。状況によって作戦を変える。それは当然だ。
だが、人間同士の会話にも同じことが必要なのか。
神代が考えていると、ここまで黙っていた榊原監督が歩いてきた。
「神代」
「はい」
「入寮初日に俺が言ったこと、覚えてるか?」
神代にはすぐ分かった。
「データじゃなくて、人間として知れ」
「ちゃんと覚えてるじゃないか」
「忘れてません」
榊原監督は十一人を見回した。
「なら、今がその練習だ」
黒崎が聞く。
「練習?」
「ああ。野球だけが練習じゃない」
榊原監督は神代を見る。
「どう言えば相手が動くのか。誰にどこまで言うべきか。逆に、誰には黙って見守るべきなのか。同じ内容でも、黒崎に伝えるのと水城に伝えるのとじゃ、言い方が違って当然だ」
神代が考える。
「でも、最終的に直す内容は同じですよね」
「そうだ」
「だったら――」
「目的は、お前が正しいことを言うことか?」
榊原監督は続けた。
「違うだろ。相手が成長することだ」
神代は答えなかった。
「正しいことを言って、それで相手が動けなくなったら意味がない。逆に、少しくらい遠回りでも相手が納得して動けるなら、そっちの方がいい時もある」
「効率悪くないですか?」
「人間相手なら、それが結果的に一番効率がいいこともある」
神代の眉が僅かに動いた。
榊原監督はそこで少し笑った。
「お前、こういう話するとすぐ効率に変換するな」
橘が吹き出す。
「確かに」
御堂も笑った。
「怜司らしいけどな」
神代が二人を見る。
「何が?」
「そこ分かってない時点で怜司なんだよ」
御堂にまで言われ、神代はさらに分からなくなった。
榊原監督が手を叩く。
「よし!話は終わりだ。練習再開!」
十一人が再び動き始めた。
神代も歩き出そうとして、一度だけ止まる。
轟が再び打席へ入っていた。
黒崎がマウンドへ戻り、朝倉が座る。
初球、ストレート。
轟がファウルにする。
次は低めの変化球。
身体がわずかに前へ出たが、途中で止まった。バットは出ない。
ボール。
神代の口が開く。
「今の――」
そこで止めた。
轟はすでに次の球へ集中している。
神代は何も言わず、そのまま見た。
黒崎が投げる。
スライダー。
轟は今度も身体を残した。ボールを長く見てからバットを出す。
金属音。
鋭い打球が左中間へ抜けた。
「おお!」
橘の声が上がる。
御堂も手を叩いた。
「今の良かったぞ!」
轟が一塁まで走ったところで、神代を見る。
神代は一瞬考えた。
いつもなら、打球ではなくその前の動きを分析する。
まだ身体が少し前へ流れている。改善できるところは残っている。
だが。
「今の待ち方、良かった」
轟が目を丸くした。
「……それだけ?」
「何が?」
「いや」
轟が少し笑う。
「それ、先に言えよ」
神代が首を傾げる。
「今できたから言ったんだけど」
「そういうとこは変わんねえな」
鷹野が笑った。
「怜司、それ多分しばらく治んないだろ」
「何が?」
今度は黒崎まで笑い出す。
「もうええわ」
張り詰めていた空気が少しずつ元に戻っていく。
神代だけは、まだ完全には理解できていなかった。
正しい指摘をすることと、相手を成長させること。
これまで神代の中では、ほとんど同じ意味だった。
だが、どうやら違うらしい。
何を言うか。いつ言うか。どう言うか。
そして、言わない方がいい時まである。
投球なら球種を選ぶ。打撃なら狙い球を絞る。守備なら状況によって位置を変える。
相手が人間なら、言葉も変える。
そこまで考えて、神代はふと思った。
なら、これはこれで分析できるのではないか。
その横で朝倉が神代の顔を見る。
「怜司」
「何?」
「今、変なこと考えてるでしょ」
「別に」
「嘘つけ」
「人によって最適な伝え方が違うなら、その傾向を整理すれば――」
「やっぱり」
朝倉が額に手を当てた。
黒崎がマウンドから叫ぶ。
「怜司! 人間までデータ化すんなや!」
「でもその方が早いだろ」
「そこから離れろ言うとんねん!」
再び笑い声が上がった。
神代はなぜ笑われているのか分からなかった。
それでも一つだけ、昨日までとは違う。
自分が正しいと思ったことを、正しいまま相手へ渡すだけでは足りない。
その事実を、神代は初めて認識した。
理解したとは、まだ言えなかった。
けれどそれは、神代怜司にとって十分に大きな一歩だった。




