俺を超えればいい
乾いた音が響いた。
朝倉のミットに黒崎の渾身のストレートが突き刺さる。
神代は動かなかった。
バットを肩に乗せたまま、ボールがミットへ収まるまで見送っていた。
黒崎がマウンドから睨む。
「……なんや?打てへんのか」
神代は答えない。
朝倉がボールを返す。
「いい球だな」
神代が言った。
「は?」
「さっきの試合よりいい」
「当たり前やろ」
黒崎はボールを受け取った。
「お前が偉そうに言うから、全力で投げとんねん」
「そうか」
神代はバットを構え直した。
黒崎の眉が動く。
最初から気に入らない。
突然現れて、自分の投球を好き勝手に評価した。
変化球が甘い。クイックが遅い。
フィールディングが雑。
挙げ句の果てに、聞いたこともない新設校へ来い。
それだけでも腹が立つ。
なのに、俺の球を見送った。
振れなかったようには見えなかった。
むしろ――見切ったように見えた。
「次は振れよ」
「打つ球ならな」
黒崎のこめかみが動いた。
朝倉はマスクの奥で小さく笑った。
怜司はこういう男だ。
挑発している自覚すら、おそらく半分程度しかない。
本当にそう思っているから言っている。
でもそれが一番相手を苛立たせる。
黒崎が振りかぶった。
二球目。
今度は外角に鋭いストレート。
神代のバットが動く。
キィン!と鋭く金属音が鳴る。
ボールは一塁側後方へ飛んでいった。
ファウル。
それを見た黒崎が笑った。
「お前差し込まれとるやんけ」
神代は静かに打球の行方を見ていた。
「なるほどな」
「何がや」
「思ったよりいい球だって感じただけ」
「さっきから何様やねん!ほんまにムカつく」
神代は答えず、打席へと戻った。
少し離れた場所。
自動販売機から飲み物を買って戻ってきた九条が足を止めた。
手にはスポーツドリンクが二本。
「……もう始まってるし」
九条はその場で一本を開けた。
黒崎が三球目を投げる。
今度は変化球、スライダー。
神代は見逃した。
ボール。
九条が呟く。
「甘いな」
マウンドの黒崎にも、それは分かっている。そして表情が険しくなる。
神代が言った。
「今の……」
「何や」
「試合でも二球あったな」
「……」
「抜けるとき、肘が下がる癖がある」
それを聞いた黒崎が神代を睨む。
「打席で指導すんなや」
「別に指導してない」
「じゃあ黙っとけ!」
朝倉がとうとう吹き出した。
「蓮」
「悪い」
黒崎が朝倉まで睨む。
「お前ら絶対性格悪いやろ」
朝倉は首を振った。
「いや俺は普通」
そして神代を見る。
「性格悪いのはこいつだけ」
「蓮、余計なこと言うな」
四球目。
黒崎は大きく息を吐いた。
落ち着け。相手のペースに乗るな。
そう自分に言い聞かせる。
そして、ふと気づいた。神代が言ったこと。
審判の判定に苛立つと制球が乱れる。
今も同じだ。
神代に苛立って、投球が乱れている。
黒崎は舌打ちしそうになって、やめた。
深呼吸。
朝倉がそれを見る。
少しだけ感心した。修正が早い。
黒崎が構える。
四球目。ストレート。
外角低め。
神代のバットが動く。
キィン!今度は逆方向。
鋭いライナーが三塁側へ切れていく。
またしてもファウル。
黒崎は笑った。
「当てるだけか?」
神代が打席を外す。
「次で分かる」
「何が?」
「お前の一番いい球がくるからな」
黒崎から笑みが消えた。
「……舐めんなよ」
黒崎は考える。
変化球で逃げるつもりはない。
自分の武器はストレートだ。
今日の試合でも、それで十一個の三振を奪った。
名門高校のスカウトもそれを褒めていた。
高校に入れば150キロを狙える。
将来はプロも夢ではない。
ずっと言われてきた。
自分は特別な投手だ。
目の前のこいつがどれほどの選手なのかはまだ知らない。
だから自分のストレートが通用しないはずがない。
黒崎はロジンを触った。
白い粉が、指先で乾いていく。
ボールを握り直す。
縫い目が、指の腹に食い込んだ。
打席の神代は、足元の土を一度だけ均した。スパイクの下で、乾いた土が細かく鳴る。
六月の風が、背中の汗をわずかに冷やした。
神代はグリップを握り直す。
そして――黒崎が全力で振りかぶった。
朝倉には分かった。
「来る」
黒崎の今日一番。
腕が走る。
指先からボールが離れる。
空気を裂く音が、わずかに遅れて届いた。
高め。ストライクゾーン。
黒崎の最も威力が出る場所。
神代の目がボールを捉える。
速い。
確かに速い。そして、綺麗だ。
神代はほんの一瞬だけ思った。
『欲しい』
次の瞬間。
振ったバットの芯に当たった。
手にほとんど衝撃が残らなかった。
キィィィン――!
それまでとは違う音だった。
音が、グラウンドの端の金網まで走っていく。
黒崎が振り返る。
朝倉も立ち上がる。
九条はスポーツドリンクを口元で止めた。
白球が高く上がっている。
左中間。まだ伸びる。
外野の頭上を遥かに越える。
そして――フェンスの向こうへ消えた。
誰も何も言わなかった。
神代は打球を最後まで確認すると、バットを置いた。
黒崎はマウンドから動かない。
「……マジか」
ようやく出た声は、それだけだった。
神代がマウンドへ歩いていく。
黒崎はまだフェンスの向こうを見ている。
「146キロを超えてたかもな」
神代が言った。
「何やて?」
「今の球の速さだ」
黒崎が神代を見る。
「たぶん今日一番速かった」
「……」
「回転も良かった」
黒崎の拳が握られる。
「なんやねん」
「何が?」
「なんで打てんねん」
神代は少し考えた。
「球種が分かってたから」
「は?」
「最後はストレートしか投げないと思った」
「なんでや」
「お前は自分のストレートに自信がある」
神代は淡々と続ける。
「俺にファウルを二本打たれた。変化球は見送られた」
「だから最後は一番自信のある球で抑えたくなる」
黒崎は何も言えない。
全部読まれていた。
神代はさらに言う。
「球自体はいいんだけどな」
「……それは慰めのつもりか?」
「違う」
「じゃあなんや」
神代は黒崎を見る。
「欲しくなった」
「……は?」
「お前のことだ」
黒崎の顔が引きつる。
「言い方考えろや。気持ち悪いねん」
後ろから来た九条が言った。
「こいつ昔からそうだからだから諦めろ」
「お前は誰やねん」
「九条颯真」
九条は残っていたスポーツドリンクを朝倉へ投げた。
「ほれ」
「颯真、俺のは?」
神代が聞く。
「ない」
「さっき頼んだだろ」
「怜司は自分で買え」
黒崎は三人を見た。
何なんだ、こいつらは。
「約束は覚えてるか?」
神代が黒崎へ向き直る。
「蒼凛を候補に入れろ」
黒崎は黙った。
確かに約束した。
だが。
「一個聞いてええか?」
「ああ」
「お前がエースなんやろ?」
「その予定ではある」
「じゃあ俺を誘ってどうすんねん」
神代は黒崎を見る。
「もちろん投げてもらう」
「いつ?」
「必要なとき」
「150キロ以上投げるお前がおったら必要ないやろ」
神代は答えない。
黒崎が続ける。
「俺、控えになるために東京行く気ないで」
その目は本気だった。
「誘われてる高校なら一年から投げられる可能性もある」
「お前と同じ学校行ったら、どう考えてもお前がエースやろ」
「それで俺に何の得があんねん」
神代は少しだけ考えた。
「黒崎、お前は少し勘違いしてる」
「何が?」
「俺はお前に二番手になってほしくて誘ってるわけじゃない」
黒崎が眉をひそめる。
「じゃあ何やねん」
「エースになればいい」
沈黙。
黒崎が意味を理解するまで数秒かかった。
「……お前から奪えと?」
「ああ」
「お前、今俺の球ホームランにしたやろ」
「そうだな」
「自分で150キロ以上投げる言うたやろ」
「言ったな」
「そんな奴を相手に俺が超えろって?」
「だからそう言ってる」
あまりにも当然のように言う。
黒崎は神代を見つめた。
こいつは何を言っている。
神代が続ける。
「ま、今のお前じゃ無理だけどな」
「いちいち腹立つなあ、お前」
「でも三年間あるだろ」
神代は黒崎の右腕を見る。
「ストレートは高校でまだ伸びる」
「変化球も改善できる」
「クイックもフィールディングも教えればいい」
「感情のコントロールは――」
「それもうええわ!」
朝倉と九条が笑う。
神代だけは真顔だった。




