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未完成の右腕

翌日。大阪。

「暑っ……」

球場へ向かう道を歩きながら、九条颯真が露骨に顔をしかめた。

「東京と変わらないでしょそんなに」

隣を歩く朝倉蓮が言う。

「気分の問題だって」

「なら言わなくていいじゃん」

二人の少し前を、神代怜司が歩いている。

右手にはスマートフォン。

左手には薄いファイル。

観光に来た中学生にはとても見えない。

「怜司」

朝倉が呼ぶ。

「何?」

「確認してもいい?」

「ああ」

「俺たち、中学最後の夏の大会を辞退してまで大阪まで来たんだよな?」

「そうだ」

「それで今日やることは?」

「黒崎の試合を見る」

「それだけ?」

「必要なら話しに行く」

九条が後ろから口を挟む。

「断られたら?」

「別の候補を探す」

「意外とあっさりしてるな」

神代は歩きながら答える。

「本人が来たくないなら仕方がない」

「まあ、そうだけどさ」

「それに――」

神代が足を止めた。

目の前に球場が見える。

「まだ黒崎に決めたわけじゃない」

朝倉が眉を上げる。

「最速146キロ投げるんだろ?」

「ああ」

「それでも?」

「球速だけなら測定器があれば分かることだ」

神代は再び歩き出す。

「わざわざ大阪まで来た意味がない」

三人はバックネット裏に座った。地方大会の一試合。

まだ全国大会ではない。

それでもスタンドには、スーツ姿の高校野球関係者らしき大人が何人もいた。

その視線の多くが、一人の少年へ向いている。

黒崎大雅。背番号1。185センチの長身。

マウンドに立つだけで、中学生の中では明らかに身体の大きさが違う。

九条が周囲を見る。

「人気者じゃん」

朝倉も頷く。

「そりゃ146キロも投げる中学生なら見に来るだろ」

神代は何も言わない。

黒崎が投球練習を始める。

一球。二球。三球。

朝倉の表情が少し変わった。

「……速いな」

神代が聞く。

「それだけ?」

「まだ数球しか見てない」

「じゃあ試合でたくさん見ろ」

「はいはい」

九条が笑う。

「相変わらず偉そうなヤツだ」


しばらくして試合が始まった。

プレイボール。

黒崎の初球。

高めのストレート。

打者が空振りする。

スタンドから小さなどよめき。

球場のスピードガン表示は144km/h。

二球目。143km/h。

三球目。146km/h。空振り三振。

朝倉が言う。

「確かに速い」

神代は黒崎ではなく、打者を見ていた。

「違う」

「何が?」

「表示以上に差し込まれてる」

朝倉も気づく。

「回転数かな?」

「たぶんな」

二人が話している横で、九条は別の視点から見ている。

「でもフィールディングは普通だな」

神代が視線だけ向ける。

九条は続けた。

「牽制も上手くない。バント処理の最初の一歩も遅い」

「同感」

「でも肩は化け物」

「それも同感」

朝倉が呆れる。

「お前ら評価厳しすぎない?」

「三年間負けないんだろ?」

九条が答えた。

「だったらこれくらい見るんじゃない?」

神代がほんの少し九条を見る。

何も言わない。だが否定もしなかった。


黒崎は終始圧倒していた。

ストレート。ストレート。またストレート。

相手打者が振り遅れる。

五回を終えて被安打1本。8奪三振。

しかし神代の評価は上がらない。

むしろノートには欠点が増えていた。


変化球精度△クイック△フィールディング△感情制御△


朝倉が横から覗く。

「最後の何?」

「感情制御」

「なんで?」

神代がマウンドを指す。

直前の打者、際どい外角球をボールと判定されていた。

黒崎は露骨に不満そうな顔をした。

そして次の球は力んだストレートが高めに抜ける。

「判定に感情を動かされてる」

「中学生なんだから普通だろ」

「普通かどうかは関係ない」

「またそれか」

神代はノートに何かを書き足す。

しかし、その直後だった。

黒崎が投げる低めへのストレート。141km/h。

打者のバットがボールの下を通過した。

神代のペンが止まる。

次の打者に外角高め。144km/h。

また空振り。

神代が呟いた。

「やっぱり面白い」

九条が聞く。

「何が?」

「ストレート」

「だから速いって話?」

「いや違う」

神代は首を振る。

「速さだけじゃない」


試合は6対1。黒崎のチームが勝った。

七回完投。被安打3。11奪三振。


試合終了後。高校野球関係者らしい大人たちが黒崎の周辺に集まっている。

九条が言った。

「どうする?」

「待つ」

「割り込まないの?」

「今話しても意味がない」

神代は離れた場所から黒崎を見ていた。

有名私立。甲子園常連。

設備もある。指導者もいる。実績もある。

そんな学校から誘われている選手に、来年開校する無名校へ来い。

普通なら勝負にならない。

だが神代は気にしていなかった。

条件で勝負するつもりなどは最初からなかったのだ。


三十分ほど経ったのち、黒崎が一人で球場の外へ出てくる。

それを見るなり神代が立ち上がった。

「行くぞ」

朝倉も立つ。九条はベンチに座ったまま。

「俺も?」

「来なくていい」

「じゃあジュース買ってくる」

「俺のも」

「自分で買え」

神代と朝倉が黒崎のいる方へと向かった。

「黒崎大雅」

黒崎が振り返る。

「ん?」

知らない少年が二人。

一人は自分と同じくらいの身長。

もう一人は捕手用のバッグを持っている。

「誰や?」

「神代怜司」

「知らんな」

「だろうな」

あまりに淡々とした返答に、黒崎が少し眉をひそめる。

神代は続けた。

「行く高校は決めたか?」

「は?なんやねん急に」

「進学先のことだ」

「なんでお前にそんなん言わなあかんねん」

「まだ決めてないなら、蒼凛学園に来ないか」

沈黙。

黒崎は神代を見る。朝倉を見る。

そしてもう一度神代を見る。

「……何やて?」

「野球部に誘ってるんだ」

「蒼凛って何?」

「来年、東京にできる高校」

黒崎が笑った。

「そんなとこ知らんわ、聞いたこともないで」

「まだ存在しないからな」

「ならもっと知らんわ」

朝倉が横で視線を逸らした。

笑いを堪えている。

黒崎は神代を怪しいものを見るように眺める。

「お前、そこのスカウトなん?」

「いや選手だ」

「何年?」

「中三」

「俺と同い年やんけ」

「そうだな」

黒崎は完全に呆れた。

「意味分からへん」

それでも神代は構わない。

「俺たちと来れば、お前はもっといい投手になる」

それを聞いて黒崎の表情から笑いが消えた。

「……お前何様なん?」

「今日の投球を見た」

「それで?」

「ストレートはいい」

「は?」

「回転数が高い。打者には球速以上に伸びて見えるだろう。高校で身体ができれば150キロ軽く超える」

黒崎は黙った。

褒められている。

だが、神代の言い方が気に入らない。

「でも今のままじゃ駄目だ」

「……」

「変化球の精度が低い。クイックも遅い。フィールディングも雑。おまけに審判の判定に苛立つと制球が乱れる」

黒崎の眉間に皺が寄った。

朝倉が小さく息を吐く。

また始まった。

「お前、喧嘩売りに来たんか?」

「いや、勧誘だ」

「どこがやねん」

「事実を言ってるだけだろ」

黒崎が一歩近づく。

「お前、野球やってる言うたな?」

「ああ」

「ポジションは?」

「投手」

黒崎の目が変わる。

「どのくらすごいんや?」

「最速は151キロ」

沈黙。黒崎が鼻で笑った。

「中三で?」

「ああ」

「嘘つけえ」

神代は否定しない。

「あとバッティングにも自信はある」

「どれくらい?」

「それなりに」

朝倉が口を挟んだ。

「怜司の『それなり』は信用しない方がいいぞ」

「蓮」

「事実だろ」

黒崎が二人を見る。

そして近くのグラウンドへ視線を向けた。

試合後で、すでにほとんど人はいない。

「じゃあやろうや」

神代。

「何を?」

「一打席勝負」

黒崎が笑う。

「俺が投げる。そんでお前が打つ」

朝倉が神代を見る。

神代は数秒だけ考えた。

「構わない」

三人はグランドへと向かった。

「もし俺が抑えたら?」

「もう勧誘しない」

黒崎が笑みを深くする。

「ほんまやな?」

「ああ」

神代は続けた。

「ただし俺が打ったら、蒼凛を進学先の候補に入れろ」

「入れるだけ?」

「最終的に決めるのはお前だからな」

黒崎は少し意外そうな顔をした。

もっと強引な条件を出されると思っていた。

「ええよ」

神代が朝倉を見る。

「蓮」

「分かってる」

朝倉がバッグを置く。

中からキャッチャーミットを取り出した。

黒崎がそれを見る。

「お前、捕手?」

「ああ」

「こいつの?」

朝倉はミットを左手にはめる。

「小一から」

「じゃあちょうどええわ」


黒崎がマウンドへ向かう。朝倉がホームへ。

そして神代は――黒崎からバットを一本借りた。

軽く振る。

一度。二度。

黒崎がマウンドから叫ぶ。

「準備ええか!」

神代は打席へ入った。

「いつでも」

その構えを見た瞬間。

黒崎の表情がわずかに変わった。

さっきまでとは違う。

立っているだけ。

なのに――投げる場所がない。

黒崎はそんな錯覚を覚えた。

朝倉がマスクを被る。

「黒崎」

「何や」

「一応言っとく」

朝倉は少し笑った。

「最初から全力で来た方がいい」

黒崎の顔が険しくなる。

「言われんでもそのつもりや」

そして振りかぶる。

左足を高く上げる。

今日何人もの打者をねじ伏せた右腕が振り下ろされる。


その初球。

黒崎大雅の全力のストレート。

神代怜司は――バットを振らなかった。


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