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最後の夏を捨てた天才

本作はカクヨムでも掲載されています


「夏の大会には出ません」

六月。

古い扇風機が首を振るたび、机の上のプリントが同じ角度でめくれる。

制汗剤と、誰かの弁当の残り香。

窓の外からは、金属バットの音が途切れ途切れに届いていた。

放課後の職員室に、神代怜司の声が静かに落ちた。

向かいに座っていた野球部監督は、しばらく言葉を返さなかった。

椅子が、ぎ、と鳴った。

聞き間違いだと思ったのかもしれない。

「……もう一度言ってくれ」

「夏の大会には出ません」

聞き間違いではなかった。

しばらくして監督の表情が変わった。

扇風機の風がこちらを向く。

神代の前髪が、一度だけ揺れた。

「理由は?」

「やることができました」

「やること?」

「はい」

「お前な……」

監督は額に手を当てた。

手のひらが、汗で光っていた。無理もない。

神代怜司は、この中学の絶対的なエースだった。

右腕から投げ込まれるストレートは、中学生としては明らかに規格外。

変化球も多彩、そして制球力にもほとんど穴がない。

それだけではない。

打てば中軸。走ればチーム最速。

守備でも滅多にミスをしない。

そして野球だけでもない。

先月行われた定期試験でも、神代の名前は当然のように学年一位にあった。

教師たちの間では、昔から有名だった。

何をやらせてもできる。一度教えれば理解する。

二度目には修正する。

三度目には、それを教えた人間より上手くなっている。

そんな少年だった。

だからこそ監督には理解できない。

「お前にとって最後の大会だぞ」

「分かっています」

「全国優勝だって狙える」

「そうですね」

あまりにも平然と答える。

監督の声が強くなった。

「だったら、なぜだ!」

神代は少し考えた。

しかし怒鳴られたことに動揺した様子はない。

それよりも質問に対する最適な答えを探しているように見えた。

「全国大会に出るより、重要だからです」

「何が」

「まだ言えません」

監督は神代を睨んだ。

神代も視線を逸らさない。

その目には反抗心も、申し訳なさもなかった。

ただ、決定事項を伝えに来た。

そんな目だった。

「後悔するぞ」

「しません」

「どうして言い切れる」

「もう決めたので」

監督は大きく息を吐いた。

そして最後に聞いた。

「……野球を辞めるわけじゃないんだな?」

神代は初めて、ほんの少し表情を変えた。

「逆です」

「何?」

「今までより、本気で野球をやります」

それだけ言うと、神代は頭を下げた。

「今までありがとうございました」


職員室を出る。

廊下には二人の少年が待っていた。

朝倉蓮。九条颯真。小学生の頃から神代と野球を続けてきた幼馴染だ。

壁にもたれていた九条が聞く。

「怒られた?」

「ああ」

「そりゃそうだろ」

朝倉が苦笑する。

「普通、中学最後の夏の大会を辞退しますなんて言わないからな」

神代は歩き出した。

二人もついていく。

九条がその背中に言った。

「今ならまだ戻れるぞ」

神代は振り返らない。

「戻らない」

「俺たち、全国優勝狙えたんだけどな」

「知ってる」

「未練ないの?」

「ない」

即答だった。

九条は呆れたように朝倉を見る。

朝倉は肩をすくめる。

二人とも知っていた。

こうなった神代は止まらない。


三人は校舎を出た。

夏の日差しがグラウンドを照らしている。

そこでは、数週間後に始まる最後の大会に向けて、野球部員たちが練習していた。

神代は一度だけ足を止めた。

自分が立つはずだったマウンドを見る。

朝倉が聞いた。

「本当にいいんだな?」

「ああ」

神代はそれ以上、グラウンドを見なかった。

「行こう」

三人は歩き出した。


しばらくして三人は神代の自宅へと集まった。

その部屋には、中学生のものとは思えない光景が広がっていた。

壁には日本地図。

その横には各都道府県の大会日程。

机には大量の資料。

選手名。身長。体重。投打。打率。球速。出塁率。盗塁数。映像を確認した回数。

そして、それぞれの名前の横には神代独自の評価が記されている。

朝倉が資料の束を持ち上げた。

「これ全部見るの?」

「もう一次選考は終わってる」

「いつやったんだよ」

神代は答えず、パソコンを操作した。

モニターに一人の投手が映る。

力強いストレート。

神代が映像を止める。

「大阪。黒崎大雅」

朝倉が画面を見る。

「速いな」

「最速146キロ投げる」

「同じ中学生だろ?」

「ああ」

九条が別の資料を手に取る。

「こっちは?」

「静岡。水城湊。左投手」

「最速128キロ?」

九条が眉をひそめる。

「黒崎と18キロも違うじゃん」

「だから?」

「いや、お前が選んでる理由が分からないなって」

「そのうち分かる」

机の上には、まだいくつもの名前が並んでいた。

しかしその多くには赤い線が引かれている。全国から集めた膨大な候補。

その中から神代が求めているのは、わずか八人。

朝倉が椅子に座った。

「で?」

神代を見る。

「本当にやるの?」

「何を」

「お前の計画」

神代は答えなかった。

代わりに机の引き出しを開ける。

一冊のファイルを取り出した。

九条もそれを見る。

表紙には、


『蒼凛学園野球部 三ヶ年計画』


と印字されていた。

来春開校する、新設高校。

野球部の歴史は当然ない。

甲子園出場経験もない。OBもいない。

そもそも、まだ野球部員すら存在していない。

朝倉が渡されたファイルを開く。

そして数ページめくったところで手が止まった。

「……怜司」

「何?」

「これ、本気で書いてんの?」

「そうだけど」

九条が横から覗き込む。

そして笑った。

「馬鹿じゃねえの」

そこに書かれていた目標は、確かに馬鹿げていた。

高校野球を知っている人間なら、誰でもそう言っただろう。

朝倉が神代を見る。

「一年の夏から?」

「ああ」

「俺たち一年生しかいないぞ」

「知ってる」

「しかも新設校だぞ」

「それも知ってる」

「じゃあ聞くけどさ」

朝倉がファイルを机に置いた。

「どこまで勝つつもりなの?」

神代は椅子に座ったまま答える。

「全部」

「全部って?」

神代は朝倉を見る。

「言葉通りだ」

部屋が静かになる。

神代は立ち上がった。

日本地図の前へ移動する。

東京。大阪。静岡。長野。福岡。愛知。宮城。広島。

いくつもの地点に印が付けられている。

そして神代は言った。

「甲子園に出ることが目標じゃない」

九条の笑みが消える。

「甲子園で一回優勝することでもない」

朝倉も黙って聞いている。

「三年間」

神代は日本地図を見上げた。


「公式戦で一度も負けないチームを作る」


朝倉と九条は何も言わなかった。

冗談ではない。

二人には分かっていた。

神代怜司は、本気だ。だからこそ恐ろしい。

神代は机に戻る。『黒

崎大雅』の資料を手に取った。

「明日、大阪に行く」

「もう?」

「ああ」

「何しに?」

神代は当然のことのように答えた。

「仲間を集める」


中学三年の最後の夏。

普通の少年たちが最後の夏の大会に全てを懸ける季節。

神代怜司は、その大会を捨てた。

そして日本中から、自分が選んだ選手を集め始めた。

全ては三年後――一度も負けずに、高校野球を終えるために。

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