関係性
翌朝。
蒼凛学園の男子寮では、まだ登校時間まで一時間近く残っていた。
食堂に入ると、すでに何人かの野球部員が朝食を取っている。
神代怜司もその一人だった。
目の前には焼き魚、卵、味噌汁、白米。
そして、その横にはタブレットが置かれている。
画面に表示されているのは、昨日の測定結果だった。
「朝からまたそれ見とんのか」
向かいに座った黒崎大雅が呆れたように言った。
神代は画面から目を離さない。
「昨日のデータ、まだ全部整理できてないからな」
「昨日あんだけ見とったやろ」
「見るのと整理するのとは違う」
黒崎が味噌汁を飲む。
「何がそんなおもろいねん」
神代は少し考えた。
「予想との差」
「何やそれ」
「大雅は球速が予想より少し上だった。湊は球速自体は想定内だったけど、フォームの安定性が春休みより幾分良くなっていた」
隣で朝食を取っていた水城湊が顔を上げる。
「本当?」
「ああ」
「どのくらい?」
「あとで見せる」
水城が少し嬉しそうに頷く。
黒崎がそれを見て鼻を鳴らした。
「また始まったわ」
「何が?」
「お前らの分析会や」
「大雅のもあるけど?」
「俺のは自分で見るからええねん」
「そう」
「なんやその反応わ」
少し離れた席から九条颯真が笑った。
「朝から元気だな、大雅」
「俺が悪いみたいに言うなや」
朝倉蓮も食事をしながら神代のタブレットを見る。
「でも怜司、今日から授業始まるでしょ」
「その予定だな」
「学校でもずっとそれ見てそう」
「別に休み時間なら問題ないだろ」
九条が言った。
「高校生活二日目にして、すでに野球しか見てないじゃん」
「昨日は入学式で挨拶もちゃんとしたぞ」
「そういう話じゃない」
神代が九条を見る。
「じゃあ何の話?」
「いいよもう。説明するの面倒だから」
神代には意味が分からなかった。
そのまま朝食を食べ終え、十一人はそれぞれ登校の準備を始めた。
一昨日までは、寮とグラウンドが生活のほとんどだった。
今日からはそこに授業が加わる。
神代にとっては、その程度の違いだった。
少なくとも、この時点では。
午前八時過ぎ。
一年一組。
教室にはすでに多くの生徒が集まっていた。
昨日の入学式の日とは少し空気が違う。
自己紹介を終え、名前を知った人間が増えたからだろう。
席の近い者同士では、早くも会話が始まっている。
神代が教室へ入ると声をかけられた。
「おはよう、神代くん」
近くの男子生徒から声をかけられた。
「ああ、おはよう」
昨日、隣の席から代表挨拶について話しかけてきた生徒だった。
名前も覚えている。樋口陽介だった。
さらに数歩進むと今度は別の生徒にも声をかけられる。
「おはよう」
「おはよう」
神代は普通に返す。
ただ、自分から会話を広げることはない。
席に着くと、鞄からタブレットを取り出した。
昨日の続きを開く。
黒崎大雅。水城湊。朝倉蓮。九条颯真。
十一人分の名前と、その横に並ぶ数字。
しばらくすると、水城も教室へ入ってきた。
水城は席へ荷物を置くと、すぐ神代の方を見る。
「ねえねえ、さっき言ってたフォームのデータ見せて」
「いいよ」
神代が画面を切り替える。
「これを見てくれ、春休み最後の測定と比べて、リリース位置の上下のばらつきが減ってるのが分かる」
「どれくらい?」
「平均で約二センチってとこだな」
「二センチかあ」
「結構大きいよ」
「そうなんだ」
「再現性が上がってるってことだからな。自信を持っていい」
水城が真剣に画面を覗き込む。
その背後から声がした。
「朝からもう野球の話?」
二人が振り返る。
女子生徒が立っていた。
長い黒髪。
派手な印象ではないが、整った顔立ちをしている。
神代は昨日の自己紹介を思い出す。
「たしかお前は篠宮だったか」
女子生徒が少し目を丸くした。
「へえ、ちゃんと覚えてたんだ」
「昨日聞いたからな」
「じゃあクラス全員の名前言える?」
「たぶん」
「たぶん?」
「全員確認したわけじゃないから」
篠宮澪は数秒だけ神代を見た。
そして小さく笑った。
「変な答え」
「そう?」
「普通は『覚えてるよ』で終わると思う」
神代は少し考える。
「覚えてると思うけど、確認してないからって意味で言ったんだ」
「そう、やっぱり変だね」
水城が笑う。
「神代くん、こういうところあるんだよ」
「どういうところ?」
「細かいところまで正確に言おうとするところ」
「間違ったこと言うよりはいいだろ」
篠宮が神代のタブレットを見る。
「それ、昨日やったやつ?」
「ああ」
「体力測定?」
「正確には野球部の測定だな」
画面にはグラフや数字が並んでいる。
篠宮には、その意味のほとんどは分からない。
「これ全部見るの?」
「当然」
「十一人分も?」
「そうだ」
「大変そうだね」
「別に」
即答だった。
篠宮が少し首を傾げる。
「好きなんだね」
「何が?」
「そういうの」
神代は画面を見る。
「まあ、面白いからな」
「自分の記録を見るのが?」
「いや違う」
神代は首を振った。
「他の十人の方だ」
篠宮が少し意外そうな顔をした。
「自分じゃなくて?」
「ああ」
「なんで?」
神代は少し考える。
「自分の成長はある程度予測できるからかな」
篠宮は黙った。
水城も一瞬だけ神代を見る。
神代は気づかず続ける。
「でも他人は予測から外れることがある。思ったより伸びない時もあるし、逆に想定以上に伸びることもある」
そして水城のデータを指す。
「こういうのが面白い」
篠宮は画面ではなく、神代を見ていた。
入学式の日。
壇上では堂々としていた。昨日の自己紹介は驚くほど短かった。
今朝は、他人の成長について真剣に話している。
昨日抱いた印象から、少しずつずれていく。
「神代くんって、人のこと結構見てるんだね」
神代が答える。
「見るよ」
「意外」
「何で?」
「もっと自分のことしか興味ない人かと思ってたからかな」
水城が思わず笑った。
神代は少し眉を寄せる。
「俺はそんな風に見えるのか?」
篠宮は迷わず頷いた。
「ちょっとだけね」
「そうか」
特に傷ついた様子もない。
ただ、新しい情報として受け取っただけだった。
その反応を見て、篠宮はまた少しだけ神代への印象を変えたのだった。
しばらくして蒼凛学園での授業が本格的に始まった。
一時間目。現代文。
二時間目。数学。
数学の授業では、教師が黒板へ問題を書いた。
「高校最初なので、今日は中学範囲の確認からやります」
問題自体は難しくない。
教師が説明している間に、神代はすでに答えまで出していた。
そして問題集の次のページへ進む。
しばらくして教師が言った。
「じゃあ、この問題。近くの四人で一度考えてみてください」
教室で机が動く。
神代の周囲でも四人の机が向かい合った。
神代と篠宮。
そして男子生徒一人。女子生徒一人。
プリントが一枚ずつ配られる。
神代は問題を見る。
全四問の問題を数分もしないうちに全てを書き終えた。
「終わった」
向かいの男子生徒が顔を上げる。
「早すぎない?」
「簡単だからね」
篠宮が神代のプリントを見る。
「全部終わったの?」
「ああ」
「それ合ってるの?」
「たぶんな」
篠宮が笑った。
「またたぶんって言ってる」
「計算ミスがなければ合ってる」
「自信あるのかないのか分からないね、その言い方は」
「あるけど、百パーセントとは言えないだろ」
男子生徒が苦笑する。
「神代ってこういうタイプなんだな、なるほど」
神代が聞く。
「どういうタイプ?」
「いや、なんでもない。こっちの話」
また説明されなかった。
神代は最近、こういうことが多い気がしていた。
少しして篠宮がプリントを見ながら言う。
「神代くん」
「何?」
「ここ分かる?」
「分かるよ」
「じゃあ教えて」
神代が篠宮のプリントを見る。
「ここまでできてるなら、次にこれを代入すればいい」
「どうして?」
「この条件だから」
「その条件なら、なんでこれを代入するの?」
神代の手が止まった。自分にとっては、その流れが自然だった。
普段は問題を見た時点で、ほぼ自動的に式が浮かぶ。
だが、それを相手に説明するとなると別だった。
神代は少し考えてから、篠宮のプリントの余白を指した。
「最初にここを出す」
「うん」
「そうすると、この二つが同じになる」
「うん」
「だから、こっちに置き換えられる」
篠宮が数秒考える。
「ああ、なるほど」
自分で式を書いてみる。そして答えまで進む。
「分かった!」
「ならいい」
神代が自分の席へ戻ろうとすると、向かいの男子生徒が言った。
「俺もそこ分かってないから教えてくれ」
さらに女子生徒も手を上げる。
「私も」
神代は少し黙った。
篠宮が言う。
「四人でやるんだから、もう一回説明してあげたら?」
「でも今説明しただろ」
「私にだけでしょ」
「聞いてなかった?」
男子生徒が笑う。
「ごめん、別の問題やってた」
神代は自分のプリントを見る。
自分はすでに全部解き終えている。
教師に提出するだけなら、もう何もする必要はない。
だが、教師は四人で考えろと言った。
神代は椅子へ座り直した。
「じゃあ、どこから分からない?」
男子生徒が問題を指す。そこからもう一度説明する。
今度は途中で止められた。
「そこ、もっと分かりやすくならない?」
神代が考える。別の説明をする。
そしてまた質問が飛んでくる。もう一度説明を変える。
一人で解くより、遥かに時間がかかった。
それでも最後には四人全員が答えを書き終えた。
教師が前から聞く。
「そこ終わりましたか?」
篠宮が答える。
「はい」
神代は自分のプリントを見る。
自分一人なら、もっと早く終わっていた。
それは間違いない。だが教師が求めていたのは、おそらく速く答えを出すことではない。
神代はそのことを理解した。
理解はしたが、なぜわざわざ時間をかけて全員で解く必要があるのか。
そこまでは、まだ完全には分からなかった。
休み時間。
神代が次の授業の教科書を出していると、篠宮が振り返った。
「さっきはありがとう」
「何が?」
「数学の授業のこと」
「ああ」
「教えるの結構上手いんだね」
「そうなのか?」
「最初はちょっと分かりづらかったけどね」
「じゃあ上手くないだろ」
「でも途中から上手かったよ」
神代は少し考える。
「説明を変えたからな」
「相手が分からなかったら変えるんだ」
「同じ説明しても意味ないだろ」
篠宮が少し笑った。
「そういうところは普通なんだ」
「さっきから俺を何だと思ってる?」
「それはまだ分からないかな」
篠宮はそう答えた。
神代が一瞬止まる。
「何が?」
「神代くんがどういう人なのか」
篠宮は特に深い意味もなく言った。
「昨日知ったばっかりだし」
「それもそうだな」
「だからこれから分かるんじゃない?」
篠宮は前を向いた。
神代は少しだけその言葉を考えた。
どういう人間なのか。
昨日の十一人の測定結果を見た。
球速。走力。筋力。打球速度。送球精度。可動域。
数字を見れば、その選手が今どの位置にいるのかかなり分かる。
だが、目の前の篠宮澪について、神代が知っていることは少ない。
名前。同じクラス。数学で同じ班になった。
話しかければ普通に話す。
それくらいだった。
何が得意なのか。何が苦手なのか。何が好きなのか。
どういう時に笑うのか。何を嫌うのか。何も知らない。
そして、それを知らなくても野球には困らない。
だから以前の神代なら、おそらく気にも留めなかった。
神代はふと、榊原監督の言葉を思い出した。
――データだけで仲間を知ったつもりにはなるなよ。
篠宮は野球部の仲間ではない。
だから、あの言葉とは少し違う。
それでも、人を知るということについては、同じなのかもしれない。
「神代くん?」
声をかけられた。
篠宮が振り返っている。
「何?」
「次、移動教室だよ」
神代が時計を見る。
「そうだったな」
周囲の生徒たちはすでに立ち始めていた。
神代も教科書を持つ。
篠宮が先に教室を出る。
その後ろを、他のクラスメイトたちが続いていく。
神代も立ち上がった。
この学校へ来る前に神代は自分で十人を選んだ。
三年間負けないために必要だと思った選手たちを、全国から集めた。
けれど高校生活で関わる人間は、十人だけではない。
神代自身はまだ知らない。
そうやって偶然そばにいることになった人間たちが、これからの三年間で、自分の中に何を残していくのかを。




