選べないもの
入学式が終わり、生徒たちはそれぞれの教室へと戻った。
一年一組。約四十人。
一般入試の生徒。スポーツ推薦の生徒。まだ誰も、隣に座っている人間が何者なのかを知らない。
担任教師が教室に入ってきた。
「はい、席に座って」
一組の担任は、まだ二十代後半に見える若い男性教師だった。
「今日から一年間、このクラスの担任をします。分からないことがあったら遠慮なく聞いてください。……と言っても、この学校、俺も今日が初日なんですけどね」
小さな笑いが起きる。
「教師も一期生ってことです。一緒に頑張りましょう」
黒崎大雅が小声で言った。
「ええ先生やん」
前の席の水城湊が振り返る。
「まだ三分しか経ってないよ」
「三分で分かるやろ」
「早いなあ」
担任が手を叩いた。
「じゃあ、自己紹介からいきましょうか。名前と、中学で何やってたか、あと一言」
教室の空気が少し硬くなる。
順番に立っていく。
「足立幸助です。中学ではサッカー部に入っていたので高校でもサッカーをやろうと思います。よろしくお願いします」
「五十嵐美代です。陸上部でした。みんなと仲良くなれれば良いなと思います。よろしくお願いします」
「大野裕太です、中学では特に何もやってません。……これから何か探します」
その後も水泳部やバスケ部などをやっていた生徒もいた。
さらには中学時代の全国大会経験者も何人かいた。
そして、神代に順番が回ってくる。
「神代怜司です」
教室の空気が動いた。
さっきまで壇上にいた人間だった。
「野球部です。よろしくお願いします」
そして座った。
たったの三秒だった。
黒崎が笑いを堪えている。
水城が振り返る。
「短くない?」
「他に言うことないだろ」
「代表挨拶ではあんなに喋ってたのに」
「あれは原稿があったからな」
前の方の席から小さな笑い声が漏れた。
しばらく続いた後、水城が立つ。
「水城湊です。静岡から来ました。野球部です。ピッチャーやってます。よろしくお願いします」
「静岡?」
「遠いね」
「一人で来たの?」
答えようとした水城の後ろで、椅子が鳴った。
「黒崎大雅や」
関西のイントネーションに、教室が一瞬静まる。
「大阪から来た。野球部のピッチャーや。そしてこの野球部の未来のエースになる男や。みんなよろしゅうな」
誰かが聞いた。
「ピッチャー二人?」
黒崎が答える。
「今んとこ三人おる」
「三人も?」
黒崎が親指で神代を指した。
「こいつも投げるからな」
みんなの視線がまた神代へ集まる。
それでも神代は特に反応しなかった。
自己紹介が一巡し、担任が名簿を閉じる。
「はい、皆さんありがとう。じゃあ明日からの流れを説明します」
配布物。時間割。校則。まだ何も決まっていない委員会や行事の話。
新しい学校では、これから決めなければならないことの方が多い。
その説明の途中で、神代の隣の席の生徒が小さく話しかけてきた。
「あのさ」
神代が横を見る。
「何?」
「さっきの挨拶、原稿あったって言ってたけど」
「あったけど」
「自分で書いたの?」
「そうだけど」
「すごいな」
神代は少し考えた。
「書けって言われたから書いただけだけど」
「そこがすごいんだって」
隣の生徒は笑って、それ以上は聞かなかった。
神代は前へ向き直る。
まだよく知らない。中学も知らない。何が得意なのかも知らない。
自分で選んだわけでもない。
ただ、席が隣だっただけの人間だった。
放課後。
神代、水城、黒崎が教室を出て昇降口へ向かうと、別のクラスになった野球部員たちも集まり始めていた。
朝倉、九条、白石、鷹野、御堂、橘、轟、藤堂。
十一人が再び揃う。
橘が神代を見る。
「代表挨拶、かっこよかったな」
「そう?」
「女子めっちゃ見てたぞ」
神代が聞く。
「何を?」
橘が止まる。
九条が笑った。
「聞くだけ無駄無駄」
黒崎も言う。
「こいつ、そういうの興味ないからな」
水城が神代を見る。
「でも神代くん、結構モテそうだよね」
「どうでもいいことだな」
九条が笑う。
「中学でもそんな感じだったよな」
朝倉が九条を見る。
「その話はやめといた方がいいんじゃない?」
神代が二人を見る。
「何?」
「別に」
「何の話?」
九条が笑った。
「まあ、そのうちな」
「何が?」
「今はいいんだよ」
神代には意味が分からなかった。
轟が横から口を挟む。
「そんなことより、練習何時からだ」
鷹野が言う。
「それ俺も聞きたかった」
藤堂が答えた。
「16時30分です。グラウンド集合と掲示に出ていました」
橘が藤堂を見る。
「なんで岳が知ってるの?」
「掲示板を見たので」
「いつ?」
「昼休みです」
御堂が笑う。
「入学初日から掲示板確認する一年生いる?」
「必要ですので」
白石が神代を見る。
「怜司は?」
「知らなかった」
「調べてないのか」
「今聞いたから問題ないだろ」
黒崎が呆れた顔をする。
「他人に調べさせとるだけやんけ」
十一人が昇降口を出る。
まだ真新しい校舎。まだ誰も踏み固めていないグラウンドへの道。
そのすれ違いざま、他のクラスの生徒たちの声が聞こえた。
「ねえ、あの人が代表の人でしょ」
「神代くんでしょ?噂じゃ野球部だって」
「え、もしかしてあの集団全員野球部?」
「多分そう」
「なんか揃ってると雰囲気すごいね」
轟が振り返りかける。
「今、俺らのこと言ってたかな?」
橘が引っ張る。
「気にすんなって」
「気になるだろ」
九条が笑う。
「注目されてんだよ、俺ら」
朝倉が言った。
「まだ一試合もしてないけどね」
その言葉に、何人かが少し笑った。
今日は朝から、神代には分からないことが多かった。
新しい校舎。新しいクラス。知らない生徒。教師。そして、野球部以外の人間との生活。
春休みの寮とグラウンドには、ほとんど十一人しかいなかった。
今日からは違う。
蒼凛学園第一期生、約百二十名。
野球部以外にも様々な人間がいる。全国大会を経験した選手もいれば、スポーツに興味のない生徒もいる。勉強をしたくて来た者も、普通の高校生活を送りたくて来た者もいる。
神代がこれまで、ほとんど興味を向けてこなかった人間たち。
野球のために自分で選んだ十人とは違う。
同じクラスになったから。席が近かったから。同じ学校へ入ったから。
そんな理由だけで、これから関わる人間たち。
神代はまだ知らない。
この三年間で、自分を変えていく人間の全てを、自分自身で選べるわけではないということを。
「怜司」
朝倉に呼ばれて向かう。
そして十一人が歩き出した。
向かう先は、いつものグラウンド。
グラウンドに着くと、榊原監督がすでに立っていた。
十一人が整列する。
「改めて入学おめでとう」
榊原監督はそれだけ言った。
黒崎が小声で呟く。
「短いな」
「聞こえてるぞ、黒崎」
「すんません」
榊原監督がグラウンドを見渡す。
「今日から、お前らは蒼凛学園野球部だ。春休みまでは、ただの中学卒業生の集まりだったが、今日からは違う」
十一人の表情が変わる。
「もっとも、部としては何もない。実績もない。OBもいない。応援してくれる卒業生もいない。歴史もない」
榊原監督は少し間を置いた。
「その代わり、誰の真似をしなくてもいい」
神代の視線が上がる。
「一年目から全国を狙う高校は珍しくない。だが、一年生十一人しかいない野球部が本気で言ってるのは、たぶんこの学校だけだ」
橘が小さく笑う。
轟が拳を握った。
「ただし、今のお前らは弱い」
空気が止まる。
「十一人しかいない。控えもいない。誰か一人怪我をしただけで、試合が危うくなる」
黒崎が眉を寄せた。
「じゃあ、どうするんですか」
榊原監督は当然のように答える。
「壊れない身体を作る。それだけだ」
「地味やな」
「地味なことができない奴が、夏に消えるんだよ」
黒崎が黙った。
榊原監督が手を叩く。
「よし。着替えてこい。今日から練習だ」
十一人が一斉に走り出す。
その背中を見ながら、榊原は小さく息を吐いた。
新設校。実績なし。部員十一人。
普通なら、無謀という言葉で片付けられる。
だが、集められた十一人を実際に見てから、榊原の考えは少しずつ変わり始めてた。
蒼凛学園、開校初日。
神代怜司の高校野球が本当に始まる日は、同時に、神代怜司自身の高校生活が始まる日でもあった。




