距離感
入寮から3日。
朝6時。
日の出からそれほど時間の経っていない蒼凛学園のグラウンドに、一人の少年が立っていた。
黒崎大雅だった。
軽く身体を動かしながら、時折マウンドへ視線を向けている。
そこへ足音が近づいてきた。
「早いな」
黒崎が振り返る。
神代怜司だった。
「……遅いやん」
「集合時間なんて決めてないけど」
「俺の方が先や」
「だから?」
「今日は俺の勝ちやな」
神代が少し考える。
「何の勝負?」
「何でもええねん」
「朝から面倒だな」
「お前に言われたないわ」
その後ろから、もう一人が歩いてきた。
「二人とも早いね」
水城湊だった。
神代と水城の部屋は隣同士。寮を出る途中で顔を合わせ、そのまま一緒に来たらしい。
水城が黒崎を見る。
「自主練?」
「ああ」
「何するの?」
「軽く投げる」
「朝から?」
「身体動かす程度や」
水城が頷く。
「僕もフォーム確認したかったから、ちょうどいいな」
黒崎が水城を見る。
「そういや、お前の球ちゃんと見てへんな」
「そうなの?」
「昨日ちょっと見ただけや。後で投げてみ」
「いいよ」
神代がすぐに口を挟んだ。
「二人とも投げすぎるなよ」
黒崎の眉が動く。
「お前は監督か」
「違うけど」
「なら好きにさせろや」
「壊れたら困る」
「誰が壊れんねん」
「大雅だよ」
即答だった。
「縁起でもないこと言うな!」
水城が笑った。
「やっぱり二人、仲いいよね」
「どこがや!」
「どこが?」
二人の声が重なった。
水城はさらに笑う。
黒崎が不満そうに神代を見る。
「こいつと仲良く見えるんか?」
「見えるけどなー」
「目悪いんちゃうか」
「悪くないよ」
神代が言った。
「湊の視力、両目とも1.5以上あるから」
水城が神代を見る。
「なんで今それ言うの?」
「目悪いって言われてたから」
「そういう意味ちゃうわ!」
静かだった早朝のグラウンドに、黒崎の声が響いた。
まだ高校生活すら始まっていない。
それでも、蒼凛学園野球部の一日は、もう始まっていた。
春休み。普通の中学3年生なら、卒業式を終えて友人と遊び、高校生活が始まるまでの短い休暇を過ごしている時期。
だが蒼凛学園野球部の十一人には、あまり関係がなかった。
朝食を食べる。
練習する。
昼食。
午後も練習。
夕食を食べ、各自で身体のケアをして、眠る。
そして翌朝。
またグラウンドへ出る。
榊原監督は、神代が作った十一人分の育成計画をそのまま使うことはしなかった。実際に選手を見た上で内容を調整し、一人ずつ課題を与えていく。
黒崎は、ストレート以外の完成度。
水城は、現在の投球の特徴を崩さないまま身体を作ること。
白石は高い守備力をさらに磨き、鷹野は圧倒的な身体能力を野球の技術へ変えるための基礎。
御堂は打撃の幅。
橘は状況別の打撃。
轟は変化球への対応。
藤堂は複数ポジションでの守備と連係。
朝倉、九条、そして神代にも当然課題はある。
だが、春休みの数週間で劇的に何かが変わるわけではない。
黒崎の変化球が突然一級品になるわけでもない。水城の球速が一気に伸びるわけでもない。轟が全ての変化球を打てるようになるわけでも、鷹野が完成された外野手になるわけでもない。
それよりも。この期間に、別のものが少しずつ変わり始めていた。
それは十一人の距離だった。
夕食。
寮の食堂。
「轟くん、おかわり?」
「お願いします!」
寮母の声に、轟剛士が空になった茶碗を差し出した。
その様子を見ていた橘陽斗が聞く。
「今何杯目?」
「6」
「6?」
「そうだけど」
「陽斗ももっと食え」
「食ってるよ」
「少ない」
「お前が多すぎるんだって」
橘が笑う。
その間にも寮母が大盛りのご飯を持ってきた。
「はい、轟くん」
「ありがとうございます!」
「でも無理して食べないようにね」
「余裕です!」
「頼もしいわね」
寮母が次に向かったのは神代だった。
「神代くん」
「はい」
「ご飯少なくない?」
神代は自分の食事を見る。
「十分ですけど」
「練習してるんだから、もう少し食べなさい」
「必要な摂取量は計算して――」
「はい」
問答無用で茶碗にご飯が追加された。
「……」
九条が笑う。
「怜司、負けたな」
「何に?」
「理論」
「別に勝負してない」
朝倉も笑っている。
寮母は気にする様子もなく、今度は橘の前で止まった。
「橘くん」
「はい?」
「野菜残さない」
橘が皿を見る。
「あとで食べようと思ってました」
「今食べなさい」
「はい」
隣にいた藤堂岳が小さく笑った。
橘が見る。
「岳も残ってるじゃん」
「僕は最後に食べるだけですよ」
「俺もそれ」
「橘くん」
「はい。食べます」
今度は黒崎が笑った。
「弱いやん」
「大雅、笑ってるけど人参残ってるよ」
水城が指摘する。
黒崎が止まった。
全員の視線が、その皿へ集まる。
端に、綺麗に避けられた人参。
「……これは後で食うねん」
橘が吹き出した。
「同じじゃん!」
「うるさい!」
寮母が黒崎を見る。
「黒崎くん?」
「……食べます」
食堂に笑い声が広がった。
榊原監督の妻である寮母は、野球のことにはほとんど口を出さない。
誰がエース候補なのか。誰が4番候補なのか。誰が足が速いのか。
そんなことは関係ない。
ちゃんと食べる。ちゃんと眠る。洗濯する。掃除する。忘れ物をしない。
彼女が見ているのは、全国から集められた十一人の野球選手ではなかった。
これから高校1年生になる、十一人の少年だった。
その日の夜。
コンコン。
水城の部屋の扉が鳴った。
「はい」
開けると橘が立っていた。
「今暇?」
「え?」
「まあ……暇だけど」
「入っていい?」
「いいけど」
橘が入る。
水城が扉を閉めた。
「何か用?」
「ないよ」
「……ないの?」
「うん」
橘は当然のようにベッドへ座った。
水城は少し困った顔をする。
「じゃあ、何しに来たの?」
「遊び」
「何して?」
「話すとか?」
「何を?」
「それを今から考える」
水城にはよく分からなかった。
だが嫌ではない。
しばらく二人で話していると、また扉が鳴った。
コンコン。
「はい」
今度は鷹野。
「陽斗いる?」
「いるよ」
「やっぱり」
橘が手招きする。
「隼人も入れよ」
水城が言う。
「僕の部屋なんだけど」
「駄目?」
鷹野が聞く。
「駄目じゃないけど」
さらに数分後。
藤堂。その後に御堂。
いつの間にか、水城の個室に5人が集まっていた。
藤堂が周囲を見る。
「さすがに少し狭くないですか?」
「僕も今そう思ってた」
水城が答える。
「でも、こういうのがいいんじゃん」
橘だけは変わらず楽しそうだった。
御堂が床へ座る。
しばらく野球や地元の話をしていたが、ふと思い出したように聞いた。
「そういえばさ」
4人を見る。
「みんな、どうやって怜司に誘われたの?」
橘がすぐに反応した。
「それ俺も気になる」
鷹野も頷く。
「確かに。全員違う場所にいたんだもんな」
藤堂が言った。
「僕は皆さんとは少し違いますけどね」
「どういうこと?」
「僕は神代くんから誘われていませんので」
御堂が藤堂を見る。
「そうなの?」
「はい。自分から連絡しました」
「怜司に?」
「正確には、学校側への問い合わせとメールですね」
橘が身を乗り出す。
「なんで?」
「噂を聞いたので、調べました」
藤堂は淡々と説明する。蒼凛学園という新設校。そこへ進学する神代たち3人。
野球部推薦枠が十一人。
それを一つずつ調べていったら、推薦枠があと1人残っている可能性が高いと分かった――そういう話だった。
鷹野が少し引いた。
「そこまで調べたの?」
「北海道から東京まで行くんです。何も調べずに来る方が怖くないですか?」
「いや、調べ方が怖い」
橘が笑う。
「怜司と気が合いそうだな」
「調べすぎるところ、ですか」
藤堂は少し考えた。
「それは否定できませんね」
そこから、今度は水城へ話が向いた。
「湊は?」
橘が聞く。
「僕?」
「静岡まで怜司が来たんだろ?」
「うん」
水城は少しだけ嬉しそうになった。
「あの時、球速だけじゃ誰も声かけてこなかったのに、神代くんはフォームとか将来性とか、他の人が見ないところ見てたんだよね」
「へえ」
藤堂が水城を見る。
「神代くんの話になると、水城くんはかなり喋りますね」
「そうかな?」
「さっきまでの倍くらい喋っています」
「そんなに?」
その時だった。
廊下を歩いていた朝倉と九条が、部屋から聞こえてくる声に気づいた。
「それに神代くんは――」
九条が足を止めて朝倉を見る。
「始まった」
朝倉も笑う。
「湊の怜司自慢」
二人が扉から顔を出した。
「何してるの?」
橘が答える。
「怜司にスカウトされた時の話」
九条の顔が少し変わった。
「それを湊に聞いてるの?」
鷹野が聞く。
「何か問題ある?」
「長いぞ」
水城が不満そうに言う。
「そんなに長くないよ」
朝倉も首を振る。
「怜司の話になると長い」
「だって本当にすごいんだから仕方ないじゃん」
「何が?」
後ろから声がした。
朝倉と九条が振り返る。
神代だった。
水城が止まる。
「……いつからいたの?」
「『本当にすごい』くらい」
「ほとんど聞いてないじゃん」
「何の話?」
九条が笑う。
「湊がお前の凄さをみんなに説明してる」
神代が水城を見る。
「湊」
「何?」
「別に説明しなくていいから」
「でも皆まだ神代くんのこと全部知らないし」
「全部知らなくていい」
「なんで?」
「なんでって……」
珍しく神代が答えに困った。
それをみて九条が笑う。
「諦めろ、怜司」
朝倉も頷く。
「昔からこういうタイプだったんじゃない?」
「その話はもう明日にして、皆んな戻って休んだらどうだ」
神代が提案をするが無視される。
そしてその時、黒崎、白石、轟まで声を聞きつけてやってきたため、
結局話は水城の部屋だけでは収まらなかった。
狭すぎるという理由で食堂へ移動することになった。




