蒼凛野球部 始動
神代は理事長と監督に挨拶するために皆んなを誘導した。
「行くぞ」
十一人が一斉に立ち上がった。
開校前の校舎は静かだった。十一人分の足音だけが、新品の廊下に響く。
教室には机と椅子が綺麗に並んでいる。当たり前だが黒板には何も書かれていない。
掲示板も空白。体育館も、廊下も、階段も。どこにもまだ過去がない。
御堂が教室を覗く。
「本当に新品なんだな」
白石が言った。
「先輩もいない」
鷹野も周囲を見る。
「本当に実績も何もないんだよな」
橘が笑った。
「それ面白くない?」
「何が?」
「全部俺たちが最初ってことだろ」
橘は誰も使っていない廊下を見渡す。
「最初の公式戦も、最初のホームランも、最初の甲子園も。全部俺らが作れるってことでしょ」
数人が橘を見る。
神代も見た。
「そうだな」
橘が少し驚く。
「あの神代が同意した」
「一体俺を何だと思ってる?」
「合理性の化け物とかか?」
九条が即答した。
「颯真には聞いてない」
「聞かれてなくても答えちゃう」
そんなことを話しているうちに、会議室へと辿り着いた。
神代が扉をノックする。
「失礼します」
十一人が中へ入った。
そこには二人の男性が待っていた。
一人は理事長。神代とは以前から面識がある。
そして、その隣には四十代ほどの男性が立っていた。
派手さはない。体格も特別大きくない。
鋭く睨むわけでもなければ、笑顔で十一人を迎えるわけでもない。
ただ静かに、入ってきた一人一人の顔を見ている。
『榊原誠司』
四月から蒼凛学園の教員となり、野球部を率いる男だった。
神代と目が合う。
榊原監督が僅かに頷いた。
神代も頭を下げる。
「揃ったようだね」
理事長が立ち上がった。
「改めて、蒼凛学園へようこそ」
十一人が揃って頭を下げる。
「よろしくお願いします」
まだ声は完全には揃っていなかった。
理事長は少し笑った。
「まだ初日だからね。そのうち揃うでしょう」
そして、十一人の顔を順番に見る。
「この学校には、まだ歴史がありません」
「そして甲子園出場歴もなければ、野球部の公式戦勝利もまだない。そもそも、野球部そのものが今日まで存在していなかった」
理事長は一度言葉を切った。
「だから君たちには、受け継ぐものが何もありません」
黒崎が僅かに眉を動かす。
「その代わり、これから蒼凛学園野球部で最初に起こることは、全て君たちのものです」
橘が少し笑った。
先ほど自分が言ったことと、ほとんど同じだった。
「私は神代くんから、随分と大きな計画を前もって聞かされています」
九条が朝倉へ顔を寄せる。
「随分どころじゃないけどな」
神代が見る。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ったからな」
「颯真」
朝倉が小声で止める。
理事長は苦笑した。
「確かに、随分では足りないかもしれないね」
今度は数人が笑った。
「一年目の夏から甲子園で優勝し、その後も春夏全て勝つ。そして三年間、公式戦で一度も負けない」
黒崎、水城、白石、鷹野、御堂、橘、轟、藤堂。
全員が、その計画を聞いた上でここへ来ている。
「普通なら、無謀だと言われるでしょう。私も最初に聞いた時は正直驚きました」
「でも反対はしなかったですよね」
神代が言う。
「君が反対された程度でやめるのなら、もしかしたら反対したかもしれないね」
九条が吹き出した。
理事長は続ける。
「皆さん、学校として約束できることは一つです。挑戦するための環境は、可能な限り学校側が用意します」
グラウンド。室内練習場。トレーニング施設。そして寮。
必要なものは、すでにかなりの部分が揃えられている。
「ただし、勝つことだけが高校生活の全てではありませんよ」
神代が僅かに反応した。
「君たちはこれから高校生になる。勉強もする。友人も作る。失敗もするでしょう。野球以外の時間も含めて、三年間を過ごしてほしいなと思っています」
橘が真っ先に頷く。
「はい」
神代が横を見る。
「返事早いな」
「だって楽しそうじゃん、高校生活」
「まだ始まってないけど」
「だから楽しみなんだよ」
理事長が笑った。
「橘くんくらいでいいのかもしれないね」
そして隣を見る。
「では、榊原監督からもお願いします」
榊原監督が一歩前へ出た。
十人の視線が集まる。
神代を除けば、全員にとって初めて会う監督だった。
「榊原誠司だ。四月から蒼凛学園の教員として勤務して、野球部の監督を務める」
短い自己紹介だった。
「最初に言っておく」
十一人を見る。
「俺は名将でも、有名な指導者でもない」
黒崎の眉が僅かに動いた。
「監督を務めるのも初めてだ。選手時代にも、人に自慢できるような実績はない。ましてや甲子園にも出ていない」
何人かの表情が僅かに変わる。
普通なら、わざわざ最初に言うことではない。
まして、神代が全国から選手を集めたチームの監督である。
だが榊原監督は気にした様子もない。
「不安に思うなら、それでも構わない」
黒崎が真正面から榊原監督を見る。
榊原監督も視線を逸らさない。
「ただし、実績がないからって、お前たちに遠慮するつもりもないからな」
神代の目が僅かに細くなった。
「野球が上手ければ何をしてもいいわけじゃない。練習態度、学校生活、寮生活。間違ったことをすれば普通に叱る」
一度、十一人全員を見る。最後に神代で視線が止まった。
「神代の計画についても、理事長からすでに聞いてる」
「どう思いましたか?」
神代がすぐに聞いた。
九条が小さく笑う。
「いきなり聞くんだな」
榊原監督は少しも迷わなかった。
「率直にいうと、馬鹿げてると思った」
室内が静かになった。
朝倉が神代を見る。
黒崎の口元が僅かに上がる。
神代だけは表情を変えない。
「それは今もですか?」
「ああ」
即答だった。
「一年生十一人だけで夏の甲子園優勝。その後も五大会全部優勝。三年間公式戦無敗だったな」
榊原監督は神代を見る。
「高校野球はそんなに簡単じゃないぞ」
「知ってます」
「本当に分かっているのか?」
「簡単なら計画を立てる必要がないので」
数秒の沈黙。
榊原監督が小さく息を吐いた。
「……お前ならそういう答えをすると思った」
九条が呟く。
「監督、もう怜司の扱い分かってきてるな」
「颯真」
「はいはい黙りまーす」
榊原監督は再び十一人を見る。声が少しだけ強くなる。
「ただし、馬鹿げてることと不可能なことは同じじゃない」
神代の目が止まった。
「実際、その計画を聞いた上で全国から十人が集まった。それは紛れもなく事実だ」
黒崎が神代を見る。他の選手たちも同じように見る。
「だから俺は、最初から無理だって言って止めるつもりはない」
榊原監督は言った。
「やるからには、俺も本気でやる」
しばらく誰も話さなかった。
最初に口を開いたのは神代だった。
「分かりました」
「何がだ?」
「監督としては問題なさそうです」
榊原監督の眉が動く。
「まさかお前、俺を評価してたのか?」
「当然です」
「当然なのか……」
朝倉が笑いを堪えている。
九条は隠す気もなく笑っていた。
神代は持っていたバッグを開いた。そこから一冊の分厚いファイルを取り出す。
榊原監督の表情が少し変わった。
「何だ、それ」
神代が差し出す。
「春休み中の練習計画です」
「……もう作ったのか?」
「はい」
榊原監督が受け取り、ページを開く。
十一人全員の身体の状態。現在の能力。課題。優先して伸ばす項目。
練習内容。短期目標。
全員の内容が違う。
榊原監督が数ページめくった。
「全部、お前が作ったのか?」
「はい」
「いつこんなもの作ったんだ?」
「全国を回ってる途中から少しずつ。それと、入学前の変化も反映してあります」
黒崎が横から覗く。
「暇なんか、こいつ」
九条が答える。
「怜司に暇って概念あるのかな」
神代が見る。
「あるよ」
「じゃあ暇な時何してる?」
「次にやること考えてる」
「それ暇じゃねえだろ」
榊原監督はファイルへ視線を戻した。
そしてしばらく読む。
神代は待つ。どこを修正されるのか。
練習量か。順番か。負荷設定か。
だが、榊原監督はファイルを閉じた。
「今日はやらない」
神代の眉が僅かに動いた。
「理由を聞いてもいいですか?」
「そうだな」
榊原監督は十一人を見渡す。
「お前たち、お互いのことをどれくらい知ってる?」
神代が答えた。
「それならかなり知ってます」
「例えば?」
「黒崎はストレートが最大の武器で、負けず嫌い。感情が投球へ――」
「お前じゃない」
神代の言葉が止まる。
榊原監督は黒崎を見る。
「黒崎」
「はい」
「水城のこと、どれくらい知ってる?」
黒崎が水城を見る。水城も黒崎を見る。
「左投げのピッチャー」
「うん」
「あと球遅い」
「え?ちょっと」
「でも打ちにくい」
「……まあ合ってる」
「それ以外は?」
黒崎が黙った。
「ほぼ知らんす」
「水城。白石はどうだ?」
水城が白石を見る。
「守備がすごく上手い……くらいです」
「白石。鷹野は?」
「足が速い」
「鷹野。御堂はどうだ」
「バットコントロールが良い」
「御堂。轟だ」
御堂が轟を見る。
「えーっと……とにかくでかいです」
轟の眉が寄る。
「それ能力ですらないだろ」
橘が笑った。
榊原監督は神代を見る。
「これで分かったか?」
神代は少し考える。
「俺は全員知ってます」
「だから、お前の話をしてない」
「でも練習すれば互いの特徴は分かります」
「野球の特徴はな」
榊原監督は手にしたファイルを軽く上げる。
「ここには十一人分、よく調べて書いてある。たぶん俺よりも詳しいだろう」
神代は黙って聞いている。
「でも、お前が知ってるのは選手としてのこいつらだ」
神代の目が僅かに変わった。
「今日初めて会った相手が何人もいる。どういう性格なのか。何を言われたら腹が立つのか。落ち込んだ時どうなるのか。誰と気が合うのか」
榊原監督は十一人を見る。
「そういうことを、まだ誰も知らない」
神代はすぐに聞いた。
「それが野球に必要ですか?」
朝倉と九条が神代を見る。
黒崎も少し驚いたようだった。
だが榊原監督は平然としている。
「俺は必要だと思ってる」
「どの程度ですか?」
「数字で答えろって?」
「できれば」
「それは無理だ」
神代は黙る。
「だから、お前には分かりにくいんだろうな」
「そうですね」
「意外に素直だな」
「分からないものを分かったとは言えないので」
榊原監督は少しだけ神代を見る時間を長くした。
「なら試せ」
「何をですか?」
「今日は計画通りの本格練習はしない。軽く身体を動かすくらいにする」
黒崎の顔が僅かに曇る。
「その代わり、飯食って、風呂入って、話して、互いを知れ」
神代が聞く。
「それで何か変わると?」
「たしかに変わらないかもしれない」
神代の眉が動いた。
「でも、お前は確かめるのが好きなんだろ?」
今度は神代が黙った。
九条が吹き出す。
「監督、正解です」
「颯真、うるさい」
榊原監督は神代を見る。
「データで知るなとは言わない。それはお前の強みだからな」
そして続けた。
「でも、データだけで仲間を知ったつもりにはなるなよ」
会議室が静かになった。
神代は榊原監督を見る。
黒崎が野球以外で何をしているのか知らない。
水城が落ち込んだ時、一人になりたいのか誰かと話したいのか知らない。
白石が何に腹を立てるのか知らない。
鷹野が緊張した時にどうなるのか知らない。
御堂が調子を崩した時に、声をかけるべきなのか放っておくべきなのか知らない。
橘が笑っていない時に何を考えているのか知らない。
轟が何を苦手としているのか知らない。
藤堂が何に本気で怒るのかも知らない。
知っていることは多い。
だが、それと同じくらい知らないことも多かった。
神代は数秒考えた。
「分かりました」
榊原監督が頷く。
「ほんとか?」
「合理性がないとはまだ決まってないので」
「そこか」
朝倉が笑った。
理事長も小さく笑っている。
黒崎が手を上げる。
「じゃあ監督」
「何だ?」
「今日、全く練習なしですか?」
「軽くならいい」
轟がすぐに聞く。
「バッティングは?」
「だから軽くな」
御堂が続ける。
「神代の球打っていいですか?」
「それは駄目だ」
御堂が不満そうにする。
「なんでですか?」
榊原監督は神代を見る。
「こいつ絶対本気で投げるだろ」
神代は少し考えた。
「たぶん」
「ほらな」
九条が笑う。
橘が手を上げた。
「監督、一個聞いていいですか?」
「何だ?」
「監督も寮に住むんですか?」
「いや、俺は住まない」
「じゃあ寮って誰が見てくれるんですか?」
理事長が答えた。
「寮母を務めてくださるのは、榊原監督の奥様ですよ」
橘の顔が明るくなった。
「監督の奥さん?」
榊原監督が嫌そうな顔をする。
「なんだ」
「いや、ちょっと気になっただけです」
「嫌な予感しかしないんだけどな」
「家だと監督と奥さん、どっちが強いんですか?」
「橘!」
榊原監督の声が低くなる。
だが橘は笑って待っている。
榊原監督は数秒黙った。
「……妻だな」
九条が吹き出した。
朝倉も笑う。藤堂まで口元を緩めていた。
「お前ら、笑うな」
橘が笑いながら言う。
「監督、ちゃんと答えるんですね」
「お前が聞いたんだろ」
さっきまで少し硬かった空気が、一気に崩れた。
神代だけは何がそこまで面白いのかよく分からず、笑っている十人を見ていた。
そしてふと気づく。
会議室へ入った時より、全員の表情が柔らかい。
神代はその変化を黙って見た。
榊原監督がファイルを神代へ返す。
「これは明日から使う」
「変更するところはありますか?」
「あるな」
「どこですか?」
「今日は教えない」
神代の眉が動く。
「なんでですか?」
「俺も十一人を見てから考えるからだ」
その答えに、神代の視線が止まった。
監督も、自分と同じだった。
見てから判断する。
評判だけで決めない。
最初から答えを決めつけない。
神代はほんの僅かに口元を緩めた。
「分かりました」
全国から選手を集めたのは、神代怜司だった。
だが、これから十一人を一つのチームにするのは、神代一人の仕事ではない。
蒼凛学園野球部。選手十一人。歴史なし。実績なし。
まだ何一つ持っていないチームの最初の一日は。
神代が用意していた練習メニューではなく――
互いを、選手ではなく人間として知るところから始まった。




