卒業。涙と別れ、そして新たなる出会い?
濃い夏が終わった、そして季節は流れゆき春を迎えようとしていた。
夏に始まった神代怜司たちの全国行脚。
大阪、静岡、長野、福岡、愛知、宮城、広島。
そして最後は、北海道から一人の少年が東京へやってきた。
『黒崎大雅。水城湊。白石奏太。鷹野隼人。御堂悠真。橘陽斗。轟剛士。藤堂岳』
神代が探し続けた八人。そこに神代怜司、朝倉蓮、九条颯真の三人を加えた合計十一人。蒼凛学園野球部の第一期生が全員揃った。
そして、三月。
「蓮、泣きすぎだろ」
体育館で九条颯真が隣を見ながら言った。朝倉蓮が目元を押さえている。
「颯真だって泣いてるじゃん」
「俺は泣いてない」
「じゃあその目は?」
「花粉」
朝倉が周囲を見る。窓は全て閉まっていた。
「体育館なのに?」
「細かいこと気にすんな」
「無理あるって」
二人のやり取りを聞きながら、神代怜司は前を向いていた。
中学校の卒業式。壇上では校長が話している。周囲から鼻を啜る音が聞こえ、三年間を振り返って泣いている者もいる。友人との別れを惜しむ者。担任教師の話を聞いて涙を流す者。
だが、神代から涙は出なかった。
別に嫌な三年間ではなかった。友人もいた。教師にも世話になった。野球部でも多くの時間を過ごした。朝倉と九条とは、小学校からずっと一緒に野球をしてきた。思い出はいくらでもある。
ただ、終わった。
神代にとっては、それだけだった。
名前を呼ばれ、神代は壇上へ向かう。卒業証書を受け取り、校長へ頭を下げた。
中学校生活、終了。
次は高校『蒼凛学園』。そして高校野球。
神代の頭の中では、すでに春から始まる計画が動き始めていた。
卒業式終了後。校門の周辺には大勢の生徒が残っていた。
写真を撮る者。友人と抱き合う者。教師へ挨拶する者。制服のボタンを交換している生徒までいる。
「怜司!」
呼ばれた神代が振り返る。クラスメイトがスマートフォンを持っていた。
「写真撮ろうぜ」
「いいよ」
数人で並んで撮影する。その直後には別の生徒に呼ばれ、さらにまた別の生徒に呼ばれる。神代は断る理由もないので、そのたびに写真へ入った。
少し離れたところで九条がその様子を見る。
「意外と人気あるよな、あいつ」
朝倉が笑う。
「昔からね」
「本人全然興味なさそうだけど」
「そこも昔から」
その時だった。
「神代先輩!」
数人の男子生徒が走ってきた。野球部の後輩だった。
「卒業おめでとうございます!」
「ありがとう」
「高校でも頑張ってください!」
「ああ」
後輩の一人が言った。
「甲子園、絶対行ってくださいね!」
神代は少し考えた。
「行くだけじゃ足りないけどな」
「え?」
「いや、何でもない」
後輩たちが顔を見合わせる。
一年目の夏から甲子園優勝。その後も春、夏、春、夏と全部勝つ。高校三年間、公式戦無敗。
今ここで説明したところで、普通は信じない。
「応援してます!」
「ああ」
後輩たちは頭を下げて去っていった。神代も朝倉たちのところへ戻ろうとする。
その時。
「神代くん」
後ろから声がした。
振り返ると、同じ学年の女子生徒が立っていた。顔は知っている。同じクラスになったこともある。ただ、ほとんど話したことはなかった。
「何?」
「ちょっと……いい?」
「いいけど」
女子生徒が周囲を見る。どうやらここでは話したくないらしい。
神代は校舎の脇へ移動した。女子生徒もついてくる。人通りが少なくなり、二人きりになった。
「あの……」
女子生徒は俯いている。明らかに緊張していた。両手を身体の前で握り、神代を見てはすぐに目を逸らす。
「何?」
「待って」
「うん」
数秒後、女子生徒が息を吸い、顔を上げた。
「ずっと好きでした」
神代は黙る。
「中一の頃から。高校も別になっちゃうし、今日言わなかったら、もう言えないと思って」
女子生徒は神代を見た。
「付き合ってください」
神代は数秒考えた。だが、答え自体は決まっている。
「ごめん。無理」
女子生徒の表情が固まった。
「……そっか」
「うん」
「好きな人いるの?」
「いない」
女子生徒が少しだけ顔を上げる。
「じゃあ……」
「恋愛に興味ないから」
神代にとって、それが理由の全てだった。
「高校では野球に集中する。付き合っても、君に使える時間はほとんどないと思う。それなら最初から付き合わない方がいい」
女子生徒は俯いた。
神代の中では筋の通った答えだった。付き合っても自分は野球を優先する。相手に時間を使わず、結局不満にさせる。それなら最初から断る方がいい。期待させる方が悪い。
神代は本気でそう考えていた。
「……分かった」
小さな声だった。
「ごめんね、急に」
「謝らなくていいよ」
「……じゃあ、高校でも頑張ってね」
「ありがとう」
女子生徒は背を向け、早足で去っていった。そして途中から少し走るようになった。
神代はその背中を見る。
泣いているのだろう。
おそらく原因は自分。そこまでは分かる。
だが、何を言えばよかったのかは分からなかった。
神代も戻ろうとする。
その時だった。
「神代先輩」
神代が止まって振り返るが誰もいない。
いや、校舎の角。そこから一人の女子生徒が姿を現した。
神代が見る。知らない生徒だった。少なくとも話した記憶はない。制服を見ると卒業生ではなく二年生。一学年下。
少女はゆっくりと神代の方へ歩いてきた。
小柄で華奢。整った黒髪。顔立ちも整っているが、それ以上に目につくのは幼さだった。中学二年生というより、一、二歳ほど下にも見える。
しかし、歩き方、背筋、立ち止まった時の姿勢。そのどれもが妙に綺麗だった。
少女は神代の前へ来ると、丁寧に頭を下げた。
「ご卒業、おめでとうございます」
「ありがとう」
少女が顔を上げる。柔らかく微笑んでいる。
神代が聞いた。
「誰?」
「九重莉々花と申します」
「九重?」
「はい」
「二年生か?」
「その通りでございます」
神代は記憶を探したが、やはり知らない。
「俺とどこかで話したことあるのか?」
「いいえ。本日が初めてです」
「じゃあなんで俺のこと知ってるの?」
「以前から存じ上げておりますので」
「どうやって?」
莉々花はほんの少しだけ笑った。
「色々と」
「色々?」
「はい」
神代は数秒莉々花を見るが、よく分からない。
「それで、何か用があるんだろ?」
「もちろんです。その前に一つだけ」
「何?」
莉々花が、先ほど女子生徒が去っていった方向を見る。
「先ほどの方とのお話」
神代の目が僅かに動く。
「見てたのか?」
「はい」
「どこで?」
莉々花が、自分が出てきた校舎の角を見る。
「そこ?」
「はい」
「最初から?」
「途中からです」
「盗み聞き?」
莉々花が少し考える。
「否定はできませんね」
「そうか」
神代はそれ以上聞かなかった。過ぎたことだからだ。
だが莉々花の目が僅かに細くなった。まるで、神代がそう反応することまで分かっていたように。
「神代先輩。一つお願いがございます」
「何?」
莉々花が鞄からスマートフォンを取り出した。
「私と連絡先を交換してください」
神代が黙る。
「なんで?」
「必要ですので」
「何に?」
「今後のためです」
「今後って?」
「今後は今後です」
「それじゃ答えになってないけど」
「申し訳ございません。今は、それ以上申し上げることができません」
「じゃあ交換しなくていいよね」
「いいえ」
即答だった。
神代が莉々花を見る。
「俺には必要ないけど」
「私には必要です」
「それなら俺が交換する理由ないだろ」
「ございます」
「何?」
「私が困ります」
「それは俺の理由じゃないよね?」
「はい」
「じゃあやっぱりないだろ」
「それでもお願いいたします」
莉々花はスマートフォンを差し出した。
「今断ったんだけど」
「存じております」
「なんでスマホ出したの?」
「交換していただくためです」
「俺の話聞いてた?」
「もちろんでございます」
言葉遣いは丁寧。態度も丁寧。一度も声を荒らげない。
それなのに、全く引かない。
神代が言う。
「交換しても、連絡返さないことあるよ」
「構いません」
「そもそも野球してたら携帯見ないし」
「存じております」
神代の視線が止まる。
「なんで知ってるの?」
「あなたはそういう方ですので」
「俺たち初対面だよね?」
「はい」
また話が噛み合っていない。
神代は少し考えた。
交換した場合のデメリットは特にない。このまま話を続ける時間の方が無駄。
「分かった」
神代がスマートフォンを取り出す。
莉々花の表情がほんの一瞬だけ変わった。
嬉しそうに、年相応の少女のように笑った。
二人は連絡先を交換する。
神代の画面に表示された名前。
『九重莉々花』
「これでいい?」
「はい。ありがとうございます」
莉々花は自分の画面に表示された『神代怜司』という文字を見つめ、スマートフォンを両手で大切そうに持った。
神代は自分のスマートフォンをしまう。
「じゃあ俺戻るから」
「はい」
神代が歩き出す。
「神代先輩」
振り返ると莉々花は同じ場所に立っている。
「蒼凛学園でも、頑張ってくださいませ」
「……蒼凛?」
「はい」
「なんで知ってるの?」
莉々花は答えない。ただ、にこりと笑った。
「応援しております。それでは、またお会いしましょう」
「また?」
「はい」
「俺、今日卒業だけど」
「存じております」
「学校ではもう会わないよね」
「そうですね」
「じゃあいつ?」
莉々花はほんの少しだけ笑みを深くした。
「今お伝えすることはできません」
「何かあるの?」
「それは、その時のお楽しみでございます」
「……?」
「失礼いたします」
莉々花は一礼すると、校舎の方へ戻っていった。
神代はその背中を見る。
九重莉々花。二年生。
なぜか自分のことを知っている。自分の行動も知っている。蒼凛学園へ進学することまで知っている。そして、いつかまた会うと言った。
神代は小さく呟いた。
「……変な奴」
自分が普段、周囲から同じことを言われていることには気づいていなかった。
「怜司」
戻ると、朝倉と九条が待っていた。
九条が神代を見る。
「遅かったな。今の告白か?」
「そう」
「で?」
「断った」
九条が頷く。
「だと思った。なんて断った?」
「恋愛に興味ないから無理って。高校では野球に集中するし、付き合っても時間使えないと思うって」
九条が頭を抱えた。
「お前さあ……もう少し言い方あるだろ」
「でも事実だろ」
「そういう話じゃない」
「じゃあどういう話?」
「……もういい」
その時、朝倉がふと思い出す。
「そういえば、さっきもう一人女の子いなかった?」
「いたな」
九条が顔を上げた。
「誰?」
「知らない」
「知らない?」
「初対面だからな」
九条の眉が寄る。
「じゃあ何話してたんだよ?」
「連絡先交換しただけ」
沈黙。
九条と朝倉が同時に神代を見る。
「……は?」
「何?」
九条が一歩近づく。
「お前今、告白してきた女子は断ったんだよな?」
「そうだけど」
「その直後に初対面の後輩女子と連絡先交換した?」
「ああ」
「なんで!?」
「向こうが交換したいって言ったから」
「それ告白してきた子が聞いたら泣くぞ!」
「もう泣いてたけど」
「お前ほんとそういうとこだぞ!」
神代が首を傾げる。
「何が?」
朝倉が聞いた。
「その子、名前は?」
「九重莉々花」
「二年生?」
「ああ」
「知り合いじゃないんだよね?」
「今日初めて話した」
「なのに怜司の進学先知ってたの?」
「なんで?」
「知らない」
九条が言う。
「それ怖くね?」
神代は少し考える。
「別に」
「お前がそれ言うと説得力ないんだよな」
「なんで?」
「もういい」
朝倉が小さく笑う。
「高校で少しは変わるといいね」
「何を?」
「色々」
「具体的に言って」
「そのうち分かるよ」
神代にはやはり意味が分からなかった。
「それより、明後日からもう入寮だろ」
九条がため息をつく。
「卒業したばっかなのに、もう野球かよ」
「春休みだからな」
「普通の中学生は遊ぶんだよ」
「遊びたいのか?」
「そういう意味じゃないけどさ」
「じゃあ何?」
「……やっぱお前面倒くせえな」
三人は校門を出た。
朝倉は途中で一度振り返る。九条も少し歩いたところで振り返った。
三年間通った中学校。友人。教師。野球部。後輩。いくつもの思い出が残った場所。
しかし神代だけは、一度も振り返らなかった。
その頃。
校舎の二階。人気のなくなった教室の窓際に、一人の少女が立っていた。
九重莉々花。
窓から校門を出ていく三人を見る。その中心にいる神代怜司が見えなくなるまで見送った。
そしてスマートフォンを開く。先ほど追加された新しい連絡先。
『神代怜司』
その文字をじっと見つめ、やがて口元を緩めた。
「……ようやく」
莉々花は鞄を開き、中から一冊の薄いファイルを取り出した。
表紙には整った文字で、
『神代怜司』
と書かれている。
ページを開く。
野球をしている神代。教室へ向かう神代。友人と話している神代。試合中。考えている時。笑った時。
本人の知らない写真が何枚も並んでいた。
その横には細かな文字。
『思考中、右手人差し指が僅かに動く』
『興味を持った対象に対して瞬きが減少』
『他人の感情より合理性を優先』
『朝倉蓮、九条颯真に対しては説明を省略する傾向。長期間の信頼関係によるものと推測』
『恋愛への関心――極めて低い』
莉々花は最後の項目を見る。
そして一行を書き足した。
『本人の発言により確認』
ペンを置く。
先ほどの告白を思い出す。
神代は迷いなく断っていた。
恋愛に興味がないことは、普通なら落ち込む情報なのかもしれない。
だが、莉々花は違った。
「今のところは、それで構いません」
ファイルを閉じ、表紙を指先で一度撫でる。
九重莉々花が神代怜司という名前を初めて聞いたのは、彼女の父親からだった。
何でもできる少年。勉強。運動。野球。
普通の子供とは少し違う。
父親は、知人の息子について話していただけだった。
だが莉々花は興味を持った。そして自分で調べた。
噂はほとんど全て本当だった。
それどころか、知れば知るほど父親から聞いた話では足りなくなった。
だから彼女は『あること』を決めた。
もちろん神代本人はそんなことを知らない。
でも莉々花は気にしていなかった。
まだ時間はたくさんある。
莉々花は窓の外を見る。
そこに神代の姿はもうない。
それでも楽しそうに微笑んだ。
「来年から、よろしくお願いいたしますね。神代先輩」
全国を巡った神代怜司の中学最後の夏は終わった。
そして、中学生としての三年間もこの日終わった。
だが神代が知らないところで、もう一つ。
彼の人生に関わる計画が、静かに始まろうとしていた。
ここまで読んでくださた皆さん、ありがとうございます。
いよいよ次回からは入寮した十一人が春休み期間の練習を経て高校一年生となります。
引き続きお楽しみください




