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勝負師

宮城県のとある球場。


その男は、笑っていた。

六回表。一死一、二塁。

一点ビハインドの場面。

ここで凡退すれば、せっかくのチャンスを潰すことになる。

それでも、打席へ向かう橘陽斗は、確かに笑っていた。

神代怜司の目が細くなる。

「……何だ?」

隣で九条颯真が身を乗り出す。

「どうした?」

「橘が笑っている」

九条も橘を見る。

確かに口元が僅かに上がっていた。

まるで、これから一番楽しいことが始まるかのように。


時刻は戻り三時間前。

神代たちは宮城県内の球場へ向かう電車に揺られていた。

「改めて見ると、今回は随分と普通だな」

九条が資料を眺めながら言った。

「何が?」

神代は窓の外を見たまま答える。

「全部だよ」

九条が資料を軽く叩く。


『橘陽斗:右投右打。身長:177センチ。

外野手。中学通算打率――.318』


「打率三割ちょっと。ホームランも多くない。足も肩も悪くないけど、全国トップってほどじゃない」

「そうだな」

九条が顔を上げた。

「あの異常な数字の得点圏打率の秘密はなんなんだ?」


『通常時打率――.318。得点圏打率――.571』


さらに、


『同点、または勝ち越しの走者が得点圏にいる場面。――.625』


九条が黙った。

そしてもう一度数字を見る。

「……本当なのかこれ?」

「データ上はな」

「母数は?」

「十分とは言えない。ただ、去年から同じ傾向が続いてる」

朝倉が言った。

「つまり、偶然かどうかを確かめに来たと?」

「それもある」

「他にもあるのか?」

神代は少し間を置いた。

「俺にも理由が分からないからだ」

九条が神代を見る。

「珍しいな」

「何が?」

「お前が分からないって言うの」

神代は少し考える様子を見せた。


映像は何度も見た。フォーム。スイング軌道。試合展開。

だが、橘陽斗が得点圏になると打率を大きく上げる理由を説明できなかった。

「だから直接見る」

神代が言った。

九条は少し笑う。

「お前、今ちょっと楽しんでるだろ」

「まあな」


しばらくして、三人は球場へ着く。

今日の試合は宮城県大会準々決勝。

橘の所属する中学は県内では中堅クラス。

全国的に有名な学校ではない。

スタンドにも高校野球関係者らしい人間は、それほど多くなかった。

三人はバックネット裏の上段へ座る。

「いた」

朝倉が言った。

ベンチ前。背番号7:橘陽斗。

特別大きいわけでもない。

筋肉質ではあるが鷹野隼人のように見ただけで身体能力の高さが伝わってくるような体格でもない。


そして守備練習が始まった。

打球への入り方。送球の正確さ。

捕球の仕方。

それらを九条が一通り確認する。

「うーん、悪くはないんだけど」

「そうだな」

「まあでも普通だな」

「だからそう言っただろ」

「本当にこいつなのか?」

「名前を間違えてなければな」

「そこは疑ってないけどさ」

朝倉が笑う。

その時、橘がチームメイトに何かを言った。

周囲の選手が笑う。そして橘自身も笑っていた。

試合前とは思えないほど、周りの選手たちは楽しそうだった。

朝倉が言う。

「明るそうな奴だね」

神代は橘を見る。

「俺とは合わなそうだな」

九条が即答した。

「向こうもそう思うよきっと」

「まだ話してもないだろ」

「話さなくても分かることもあるんだよ」


試合が始まった。

橘は六番でレフトを守る。

二回表。二死走者なし。

最初の打席が回ってきた。

相手投手は右腕。球速は130キロ台中盤。

初球の真ん中付近へのストレートを橘が振る。

そして空振り。

神代の眉が僅かに動いた。

「微妙だな」

朝倉も頷く。

「うん。今のは打てたね」

二球目、外角ストレートはボール。

三球目、低めへ落ちる変化球を橘が振る。

しかし空振り。

1ボール2ストライク。

四球目は高めのストレート。

橘のバットが空を切った。

結果は空振り三振。

橘は何事もなかったようにベンチへ戻る。

九条が神代を見る。

「今のところ橘はどう?」

「別に何も」

「それだけ?」

「一打席で何が分かるんだ」

「いや、でもさ 今のところ本当に普通だぞ」

神代も同じことを思っていた。


五回の第二打席。

橘は先頭打者。

初球のストレートを打つが、二塁正面に転がりセカンドゴロ。二打席連続凡退。

朝倉が言う。

「少なくとも打撃技術だけなら、御堂の方が何段階も上だね」

「それは比べるまでもない」

神代が答える。

九条が笑った。

「結構ひどいこと言うな」

「事実を言ったまでだ」

神代はノートを見る。今のところ特筆すべき点はない。

むしろ全国から選手を集めるという神代の計画を考えれば、候補から外してもおかしくない。

だが、まだ一度も得点圏で打席に立っていない。

「次だな」

神代が言った。


そして六回表。1対2。

橘のチームが一点を追う。

四番が四球、五番がライト前ヒットと続き 一死一、二塁。

九条が資料を見る。

「得点圏の場面がやっと来たな」

朝倉も少し前のめりになる。

橘は笑いながら打席へ入った。

普通なら少なからず緊張する場面なのに、

橘は先ほどより楽しそうだった。

初球のボールを橘は見送る。

二球目、内角ストレートをファウル。

三球目の低めの変化球は再びボール。

2ボール1ストライク。

朝倉が呟く。

「なんか違うな」

九条。

「何が?」

「雰囲気かな」

神代も気づいていた。

第一、二打席よりも余計な力が抜けているし目線も安定している。呼吸も一定。

神代が言う。

「緊張してないようだな」

「むしろ集中してるように見える」

四球目、外角低めのストレートを橘が捉えた。

キィン!

鋭い打球は右中間の間を抜けた。

二塁走者が一気にホームへ。

同点タイムリーツーベース。

九条が資料を見る。

「……本当に打ったよ」

神代は橘を見る。

二塁ベース上で橘は拳を握る。

「たまたまかな?」

朝倉が聞く。

「まだ分からない」

神代が答える。

だがノートへ一つ書き込む。


『得点圏時――打撃内容変化あり』


試合はそのまま進み八回表。

3対3の同点。二死二塁。

打席には再び橘。

九条が笑う。

「いい場面でまた回ってきたぞ」

朝倉。

「今度は打てば勝ち越しだね」

神代は橘だけを見る。

打席へ向かう橘はまたも笑っている。

神代が呟いた。

「またか」


二球続けて打球はファウルになり簡単に追い込まれた。

相手ベンチから声が飛び、投手も勢いに乗っている。

だが橘の表情は変わらない。

九条が言う。

「焦ってないみたいだな」

朝倉も答える。

「それどころか楽しんでるように見えるよ」

橘は三球目のストレートを弾き返し、打球は一、二塁間を抜けてライト前ヒット。

二塁走者が三塁を回りホームイン。

勝ち越しに成功した。

九条が神代を見る。

「二回も連続で続いたけど偶然かな?」

神代は何も答えなかった。

ここまではデータ通りなのだが、それ以上に打席の中身まで違う。


九回裏、相手チームが一点を返した。

4対4の同点になり試合は延長へ。


そして十回表。一死一、二塁。

打席にはまたしても橘陽斗。

九条が思わず笑った。

「できすぎだろ」

橘は、今日一番楽しそうに笑っていた。

相手捕手がサインを出す。

神代は読んだ。

「初球はストレートだ」

朝倉。

「置きにくるね」

九条。

「一番安全な入り方だな」

そしてその初球。

神代たちの読みどおり、ストレートが真ん中低めへ投げられる。

橘は迷わず甘く来た初球を振り抜く。

乾いた金属音がスタンドまで届く。

打球はレフト前へ弾んだ。

レフトが懸命に突っ込むが二塁走者はすでに三塁を回っていた。

そしてホームイン。

再び橘のヒットにより勝ち越し。

橘は一塁上で両手を叩く。

「よっしゃ!」

満面の笑みだった。

九条がゆっくり座り直す。

「……また打ちやがった」


神代は考える。

橘は御堂とは違う。

御堂は高い技術で投手を攻略する。

橘は技術そのものが劇的に高いわけではない。

なのに勝負が大きくなるほど迷いが消える。

神代はノートを見る。


橘の評価欄はまだ空白のままだった。


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