第8話 なぜ、二十五年も
由紀はもう一度、古いアドレス帳を見た。
「森川和也/美奈子」の欄には、結婚後の住所と電話番号が書いてある。
このアドレス帳は25年前のもので、和也はもういない。住所も電話番号も変わってるかもしれないと由紀は思う。
暫し眉を寄せて考えていた由紀が思いついたようにアドレス帳を見直す。
もし美奈子が和也の妻なら、結婚前は別の名字だったはずだ。
そして、直人が結婚前から美奈子を知っていたのなら、旧姓でアドレス帳に残っているかもしれない。
「結婚する前の名前があるかも……」
そう呟くと、由紀は最初のページから見直していく。
探すのは「美奈子」という名前だ。
ア行から始まり、さっき見たマ行を過ぎ、ヤ行まで来たところで――
「あった……」
ヤ行の中に、「山本美奈子」の名前を見つけた。
名前や住所、電話番号には線が引かれているが、住所と固定電話番号は識別できる。
由紀は、山本美奈子 → 森川美奈子になったのではないかと考え、スマートフォンに手を伸ばしかけたが、何かに気が付いたように手を止めた。
「……まだ、そうと決まったわけじゃない」
澪は『ただ、つながることと、それが事実であることは別です。分からないものを、分からないまま置いておくのは怖いですからね』と言った。
そう。分からないなら、確かめればいい。
翌日、由紀は山本家の番号へ電話する。
25年前の番号だ。この番号も使われていない可能性はある。使われていてもほかの人の番号となっているかもしれない。
そう思いながらスマートフォンのキーをタップする。
そっと耳に当てると呼び出し音が流れた。
何回目かのコールで、ぷつりと相手とつながる音がした。
『はい、山本です』
耳元に聞こえたのは少し年配の女性の声だった。
由紀は少し緊張した声で、ゆっくりと慎重に告げる。
「突然申し訳ありません。森川美奈子さんという方をご存じでしょうか」
由紀の問いに相手の女性は黙った。
このご時世だ。突然こんな問いかけを言われれば警戒してしまうだろう。
それでも由紀は祈るように相手の言葉を待った。
『……美奈子は娘ですが、どちらさまでしょう』
束の間の沈黙の後、相手の女性から怪訝そうな声が返った。
山本美奈子=森川美奈子。繋がった……。
由紀はいつの間にか息を詰めていたのかゆっくり吐息を吐き出した。
そうして心を落ち着けながら、由紀は自分が直人の妻であること、美奈子に聞きたいことがあることを伝える。
相手は直人のことを覚えていたのだろう。
怪訝そうな声から柔らかなものへと変わった。
由紀は自分の携帯番号を伝え、美奈子にいつでも良いので連絡してほしいと伝える。
「わかりました。娘に伝えます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
そう言うと、由紀は相手が受話器を置くのを待った。
やがて相手が受話器を置いたと知らせる、ツーツーツーと言う機械音を聞きながら由紀はようやく耳元からスマートフォンを離した。
その日の夕方、由紀のスマートフォンに知らない番号から着信が入った。
由紀は深呼吸をした後、通話ボタンを押した。
「高瀬由紀さんでしょうか? 森川美奈子です」
「お電話、ありがとうございます。高瀬由紀です」
「……直人さんの……奥さんなんですね」
少し間の後、美奈子が少し懐かしさを含んだような声で言う。その声で、由紀は美奈子が直人を知っていると確信した。
「はい」
「あの、私に聞きたいことがあると聞きましたが……」
「実は、数日前から主人がいなくなったんです」
由紀の言葉に美奈子が「えぇっ?!」と驚いた声を上げた。
「主人のことで、お聞きしたいことがあります。できれば直接お会いできませんか」
由紀の続く言葉に、美奈子が沈黙した。
「あの、私直人さんとはもう25年ぐらい会っていないんです」
「……はい」
「……お役に立てるかはわかりませんが……。でも、」
「でも?」
「いえ、お話、出来ることもあるかもしれません」
美奈子が了承してくれたことに、由紀は安堵した。
その後の会話でなるべく早いほうがいいでしょうと美奈子に言われ、翌日会うことにした。
待ち合わせは、直人とよく来たカフェだ。
由紀は目の前に座った美奈子を見る。
25年間、直人が毎月お金を送っていた女性。
頭では「浮気と決まったわけではない」と分かっていても、つい体が緊張してしまう。
目の前の美奈子は、ごく普通の50代の女性。先ほどちらりと見えた左手の薬指には少し古いデザインの結婚指輪が見えた。
お互いの頼んだドリンクが来たところで、由紀は隣に置いてあった鞄から通帳を出した。
「これを、主人の部屋で見つけました」
美奈子の視線が、差し出された通帳に止まる。
少し細められた美奈子の様子を、由紀が見つめる。
「……まだ、続けていたんですね」
『まだ?』
通帳を見つめたまま呟いた美奈子の言葉に、由紀は目を瞠る。
この人は知っていた。
直人が自分に金を送り続けていることを。
心臓の音が煩いぐらいに由紀の中で響く。
すぅ、とゆっくりと息を吸い込み、由紀が静かに尋ねる。
「主人は、どうしてあなたに毎月一万円を?」
「それは……私にも分からないんです」
「わからない……?」
そんなことがあるだろうか?
25年間、毎月送られている事実があるのに、理由がわからないなんて。
思わず口から言葉が出かけたところで、美奈子が通帳を見つめたまま続ける。
「でも、口座のことは話せます」
そう言うと、美奈子は鞄から古い通帳を取り出した。
今度は由紀がその通帳へと視線を送る。
「私が妊娠したころ、あの人、和也が口座を作ったんです。結婚して間もなく、子供ができて。車好きだった和也は、手元にお金があると車や趣味に使ってしまう。でも子供のためにって。毎月一万円ずつ貯金を始めたんだそうです」
「……『そうです』?」
由紀の問いに美奈子が懐かしそうに笑う。
「私も知らなかったんです。後から知ったんですが、自分で通帳を持っていたら、残高を見るたび使いたくなるからって。カードは自分で持って、毎月一万円ずつ入金して、通帳だけ直人さんに預けていたそうです。『直人に預けた金だと思えば、さすがに手は出さないだろ』って笑っていたって」
懐かしそうに微笑む美奈子を見て、由紀はアルバムのあった二人の姿を思い出す。
同じ車種を買うほど仲の良かった二人。
金の管理まで頼める親友だったんだと。
「けれど、私が妊娠7か月の頃、あの人が事故で亡くなってしまって。私は悲しみと、出産を控えた生活で精いっぱいで。正直葬儀の前後の記憶があんまりなくて。49日が過ぎたころに直人さんが訪ねてきたんです」
そこで初めて『和也から預かってた』と通帳を渡され、子供のために貯金をしていたと知ったという。
「あの人らしくないなって思いました。貯金なんてできる人じゃなかったから」
そういって小さく美奈子が笑った。
「だから余計に、泣いてしまって」
その後、美奈子は出産し、両親の手を借りながらも一人で子供を育てる生活が始まった。
通帳のことはすっかり忘れていたという。
たまたま、和也の遺品を整理していた時に出てきた通帳を見て、そういえばと記帳をしたという。
「記帳する音が続くからおかしいなと思って。出てきた通帳を見たらあの人が亡くなった後も毎月一万円振り込まれていて。振込人は直人さんでした」
驚いた美奈子は直人へ電話し、なぜこんなことをするのかと問い質したという。
けれど、直人は明確な理由を言わず『俺がしたいだけだから』と答えた。
「和也のお金じゃないでしょう。直人さんのお金でしょう?って。もう振り込まないでとお願いしました」
「……それで主人は納得したのでしょうか?」
由紀の問いに美奈子が小さく首を振る。
それでも翌月、また一万円。翌々月も一万円と続いた。結婚するまでの2年の間、何度か美奈子は連絡をしたという。けれど繋がることも折り返されることもなかった。
「それから2年後ぐらいでしょうか。直人さんから連絡があったんです。『結婚することになった』って。だからもう一度言いました。
もう本当にやめてくださいって。これから家庭を持つ人が、私にお金を送り続けるなんておかしいでしょう。奥さんにも失礼ですって」
それでも直人はやめなかった。
やがて直人の連絡先が変わり、美奈子から連絡する方法はなくなる。
でも、毎月一万円だけは届き続けた、25年間。
由紀が尋ねる。
「そのお金は……?」
「使ってません」
「え?」
「今日まで一度も手をつけていません」
そう言いながら美奈子は通帳を見つめる。
「でも、助けられました」
由紀には意味が分からない。
「使っていないのに?」
「……お守りだったんです」
シングルで一人息子を育ててきた。
生活が苦しいときもあった。
息子のことでお金が必要になったときもあった。
それでも使わなかった。
ただ、「本当にどうにもならなくなったら、あのお金がある」と思えた。
その存在だけで踏ん張れた。
「使ってはいません。でも、必要なかったとは言えないんです」
美奈子の言葉に、由紀が通帳へ再び視線を向けた。
「全部、お返しします」
美奈子の言葉に驚いた由紀が顔を上げる。
「全部、お返しします。直人さんの奥さんである由紀さんが現れた以上、自分が持っていていいものではないから。今日はそのお話をするつもりで、この通帳も持ってきました」
静かに笑って言う美奈子の言葉に由紀は目を伏せた。
「……私には受け取れません」
少しの間の後、由紀が答える。
「でも、直人さんのお金です」
「主人の、私の知らない思いがあることだから。それに、美奈子さん。『お守りになった』って言われたでしょう?」
そういって美奈子に微笑む。
理由を知らない自分が、直人の25年間を勝手に終わらせることはできない。
由紀がゆっくりと続ける。
「美奈子さん。一つだけ、教えてください」
「はい」
「主人は、どうして25年間も一万円を送り続けたんでしょう」
美奈子は視線を通帳に落とし眉根を寄せる。
「……分からないんです」
「一度も、理由を?」
「聞きました。でも、直人さんは教えてくれませんでした」
そういうと、美奈子は通帳から由紀へと視線を戻す。
「だから私も、ずっと知りたかったんです。どうして直人さんは、和也がしていたことを……25年間も続けているんだろうって」




