第9話 地図に残された印
眉根を寄せたまま答える美奈子に由紀が問う。
もしかしたら美奈子は頑なに直人が口にしなかった、和也の事故について詳しく知っているのかもしれない。
「事故の前、主人と和也さんの間に何かありませんでしたか?」
美奈子は首を振る。
事故当日は和也が一人で出掛けていたことしか知らない。
「あの人が一人で出かけたことは覚えています。でもどこへ行ったのかまでは知らなくて。直人さんも、和也が亡くなってから随分辛そうでした。親友だったから当然だと思っていましたけど……」
49日を過ぎて通帳を持ってきた直人も、痩せて憔悴していた。
ただ、美奈子自身も妊娠中に夫を突然亡くし、出産を控えていた。直人のことまで考える余裕はなかったと言う。
あの日、美奈子は出かける和也をいつも通り送り出しただけ。
物言わぬ姿となった最愛の人を迎えた美奈子の気持ちを思うと、由紀はそれ以上聞く事はできなかった。
美奈子と別れ帰宅した由紀は、これまで集めたものをダイニングテーブルへ並べる。
アルバム。
直人の通帳。
新聞記事を書き写した手帳。
病院の診察券。
検査予約票。
領収証。
そして、25年前に和也は亡くなったこと。
その直後から直人は毎月一万円を送り続けていること。
それを25年間、一度も止めなかったこと。
だったら――。
「どうして、今なの……?」
25年間、欠かさず続けてきた事なのに、なぜ25年目になって突然姿を消したのかがわからない。
ふと、由紀の視線が病院関係の書類へ向かう。
知らない病院へ行き始めた時期。
昔のアルバムを見るようになった時期。
帰宅が遅くなった時期。
そして失踪。
一つ一つを確かめるように思い出し、書類の日付を確認した。
「もしかしたら……」
病院で何かを知ったから、直人は25年前を振り返り始めたのではないだろうか。
浮かんだ考えに由紀は思いつめたように唇をかむ。
「……違う」
ぽつりと呟くと、由紀は詰めていた息を吐く。
病気なのか。どんな診断を受けたのか。
それが失踪の理由なのか。
自分はまだ、何一つ確認できていない。
「疑問を不安で埋めては駄目」
そう自分に言い聞かせるように呟くと、由紀はスマートフォンを手にした。
翌日、由紀が向かったのは澪の所だった。
店を訪れた由紀は、ここまで分かったことを澪へ話す。
25年前の事故。
森川和也。
妻の美奈子。
和也が生まれてくる子供のために始めた一万円の貯金。
その通帳を直人へ預けていたこと。
事故後、直人が代わりに一万円を入れ続けたこと。
美奈子が何度やめてほしいと言っても、25年間続けたこと。
そして――美奈子にも理由は分からなかったこと。
さらに病院のこと。
事実だけを告げていく由紀の言葉に、澪は何も言わず耳を傾けた。
「何かがあったから、主人は突然25年前を振り返り始めたんだと思います」
言い終わった由紀が言う。
「……いえ。そう思っているだけです。まだ、分かりません」
少しの間の後、続けた由紀の言葉に澪がほんの少し笑った。
「先生、主人がどこにいるのか、占えませんか」
その言葉に澪が軽く首を傾ける。
「占いが、場所を教えてくれるとは限りませんよ」
「分かっています。でも、探したいんです。私がまだ気づいていないことがあるなら、それを知りたい」
まっすぐに澪を見つめ言う由紀の言葉に、澪が微かにほほ笑む。
「では、大地に尋ねてみましょう」
問いは、――直人へ至るための場所。
前回と同じように、由紀は澪から渡される紙に点を打っていく。
由紀が打ち終えた紙を受け取ると、澪はそれを自分の前へ引き寄せた。
一枚目から順に点の数を確かめ、奇数なら一点、偶数なら二点。
四枚を一組として、紙の上に点を置いていく。
最初に現れたのは、Puella。
二つ目は、Via。
三つ目にも、Via。
そして四つ目には、再びPuellaが現れた。
澪は出来上がった四つの図形をしばらく見つめると、その隣へ新しい紙を置いた。
「ここからは、今できた四つの図形を使います」
由紀は黙って頷く。
澪は最初の四つの図形を上から一段ずつ拾い、新たな図形を作っていく。
Via。
Conjunctio。
Via。
Via。
「……また、同じものが」
由紀が思わず呟いた。
先ほどから、同じ形が何度も現れている。
上から一点、一点、一点、一点。
「Viaです」
「道、でしたよね」
「ええ」
澪はそれ以上の意味を告げず、八つになった図形を二つずつ組み合わせていく。
同じ段に置かれた点の数を見比べ、奇数なら一点、偶数なら二点。
新たに四つの図形が生まれる。
Rubeus。
Rubeus。
Carcer。
Populus。
由紀の視線が、三つ目の図形で止まった。
上から一点、二点、二点、一点。
「……Carcer」
「覚えていたんですね」
「忘れません」
初めてこの店を訪れた日。
澪が自分の前に置いた図形だった。
――牢獄。
あの日は、その意味が直人を示しているのだと思った。
けれど今は、それだけではなかったのかもしれないと由紀は思う。
澪は何も言わず、さらに図形を重ねる。
十二の図形から二つの証人が生まれた。
Populus。
そして、Carcer。
最後に二つの証人を組み合わせる。
澪のペン先が紙の上で止まった。
一点。
二点。
二点。
一点。
由紀が小さく息を呑む。
「……また」
裁判官の位置、問いに対する結論として現れた図形も――Carcerだった。
「閉じ込めるもの……」
前回澪に言われた言葉を思い出したのか、由紀が呟く。
澪はすぐには答えなかった。ただ、並んだ図形を眺めている。
「先生?」
「ええ。Carcerには、閉鎖、制限、孤立といった意味があります」
「じゃあ、主人はどこかに閉じこもっている?」
「そう読むこともできます。でも、それだけではありません」
澪は静かに首を振った。
「私たちが尋ねたのは『直人さんは、どこに閉じこもっていますか』ではありません」
由紀が顔を上げる。
「『直人さんへ至るための場所』です」
「あ……」
「問いが違えば、同じ図形でも見るものは変わります」
澪はCarcerの横に、もう一つ図形を書き始めた。
裁判官と最初の図形を組み合わせて導かれた形。
Albus。
「これは?」
「Albus。白という意味を持つ図形です」
「白……」
澪はそれ以上説明せず、出来上がった図形を見つめる。
混乱の中から物事を見分けること。
感情に呑まれず、明晰さを取り戻すこと。
けれど、それは由紀に与える答えではない。
澪は紙を一枚取り替えた。
「ここから、もう一つ見ます」
「まだあるんですか?」
「ええ。今までは図形そのものを見ていました。でも今回は『場所』を尋ねていますから」
澪は新しい紙に大きな円を描き、それを十二に分けていく。
「これは?」
「ハウスです。十二の場所には、それぞれ異なる意味があります」
出来上がった十二の区画へ、澪が先ほど導き出した図形を順番に配置していく。
由紀には、その規則までは分からない。ただ、澪の指先が迷うことなく一つずつ図形を置いていくのを見つめる。
すべてを配置し終えると、澪の視線がチャートの一点で止まった。
「まず、ここ」
指先が一つの区画に触れる。
「第七室です」
「七……?」
「配偶者やパートナーを表す場所です。今回なら、直人さんを見るための重要な場所の一つになります」
そこにある図形を見て、由紀が瞬きをした。
Via。
何度も現れた図形。
「……道」
「ええ。道、移動、旅。Viaは、一つのところに留まるより、動いていく性質を持っています」
「じゃあ主人は、まだどこかを移動しているんですか?」
「そこまでは言えません」
澪はきっぱりと言った。
「Viaが出た。そこまでは事実です。『今も移動している』と決めてしまえば、また分からないところをこちらの想像で埋めることになります」
由紀は一瞬黙り、やがて小さく頷いた。
「……そうですね」
澪の指が次の区画へ動く。
「もう一つ気になるのは、ここです」
そこにもViaがある。
「第五室」
「ここは何を?」
「楽しみ、娯楽、遊び。人が心から楽しむことに関係する場所です」
「楽しみ……」
由紀の眉が寄った。
今の直人と、あまりにも遠い言葉に思える。
家を出て、連絡も寄越さない。
病院へ通っていたことまで隠していた夫。
その直人と「楽しみ」という言葉がどうしても結びつかない。
「そして――」
澪の指がもう一度動く。
「ここにもViaがあります」
由紀は三つ目の同じ図形を見る。
「第八室です」
「また、Via……」
「ええ」
澪は三つのViaを順に見つめた。
「同じ図形が、繰り返し現れていますね」
「道……でしたよね」
「道、移動、旅。そしてViaは月と結びつく図形でもあります」
「月……?」
「ええ。今回のように場所を探す問いなら、月との対応から、水辺も手掛かりの一つとして見ることができます」
「水辺……海とか、川とか?」
「ええ。可能性の一つとして、ですが」
由紀は呟きながら、チャートを見る。
第七室に現れたVia――配偶者と、道、移動。
第五室に現れたVia――楽しみ、娯楽。
そして何度も繰り返し現れる、水の性質を持つVia。
「道……楽しみ……水……」
由紀は一つずつ、確かめるように口にするが、どうしてもその3つが繋がらなかった。
俯き、何度も3つの単語を呟く由紀を澪が見つめる。
「海なら……主人と行ったところなんて、いくらでもあります。川だって……楽しみって言われても……」
由紀は困ったようにチャートを見つめた。
「何を探せばいいのか……」
「探さなくていいんですよ」
「え?」
「今ここにあるものだけ、持って帰ればいいんです」
澪が三つのViaを指先で順に示す。
「道」
次。
「楽しみ」
そして最後。
「水」
由紀は三つの言葉を見つめた。
「占いは、直人さんの居場所を住所で教えてはくれません」
澪が静かに続ける。
「でも、地図に印をつけることくらいはできます」
「地図……」
「その印を見て、何を思い出すのか。それは由紀さんの中にしかありません」
澪の言葉に由紀が唇を結ぶ。
道。
楽しみ。
水。
その三つの言葉を頭の中で何度も繰り返す。
ふいに、サイプレスの香りが二人の間に漂った。
由紀は目を閉じる。
道。
楽しみ。
水。
何度も繰り返した三つの言葉の向こうに、不意に夜空に開く光が浮かんだ。
「……花火」
由紀の中で、図書館で事故の日を絞り込んだときの記憶が戻る。
『あいつと花火大会を見に行く約束をしてたんだ。事故はその少し前だった』
直人の声が聞こえた。
あの花火大会は海岸で行われる。
そして和也と直人は、一緒に行く約束をしていた。
でも和也は、その前に亡くなった。
直人が25年前の思い出を辿っているのだとすれば――。
「まだ、行っていない場所……」
二人が行くはずだったのに、行けなかった場所。
由紀ははっとしたように顔を上げた。
「花火大会……、そう花火大会です。そこにいるかもしれない」
「……かもしれませんね」
「分かりません。でも、行って確かめます」
そう言うと、由紀は鞄を手にし、澪に頭を下げた。
「私、行ってきます」
「お気をつけて」
あの日とは違い、今日は雨は降っていない。
カラン、というドアベルの音の後に扉が閉まった。
窓の外には小走りに横切る由紀の姿が見え、消えた。
その姿が見えなくなると、澪はテーブルの上にある紋を見つめる。
テーブルには、裁判官Carcer。調停者Albus。
ふと気配を感じ、澪がそちらへと向くとCarcerが姿を現した。
『一人は牢を出た』
澪はCarcerを見る。
『だが、もう一人はまだ中にいる』
「ええ」
澪がAlbusへ視線を移す。
「だから、迎えに行ったのよ」




