第5話 昔のことだから
澪は由紀の言葉を聞き、ゆっくりと瞬きをする。
「その言葉を聞いたとき、由紀さんはなんと?」
由紀は手にしたカップをソーサーへと置く。
「突然そんなことを言われてしまったので……。あまり深く考えず『縁起でもないこと言わないでくれる?そんなことになったら困るに決まってるでしょう?』と」
視線をカップに向けたまま、由紀が答えた。
「ご主人は、そのあと何か?」
澪の問いに、由紀は膝の上で指を組んだ。その指先に無意識に力が入り、わずかに白くなる。
「主人は少し黙ったあと、『そうか』とだけ。いつものように冗談だと思っていたので、そのまま会話は終わったんです。今思えば、あの人、冗談を言うときは笑うんです。でも、あのときは笑いもせず、そのまま新聞を見ていました」
「……ほかに何か思い出せることは?」
「特には……」
そう言うと、由紀が小さくため息をついた。
少し雨が強くなったのだろう。
さっきよりも雨の音が強く響いた。
澪は再びCarcerの紋と文字を見つめた。
棚にもたれたままのCarcerも何も言わない。
ふわりとサイプレスの香りが、澪と由紀の間を通り抜ける。
サイプレスの香りを追うように、由紀がわずかに顔を上げた。
「……アルバム」
「アルバム?」
「はい、主人がいなくなる少し前、古いアルバムを見ていたんです」
失踪する数日前、直人が古いアルバムを開いていたと。
それは結婚後の家族写真ではない。
直人が独身だった頃の写真を収めた古いアルバムだったと言う。
「普段ほとんど開かないものだったので、私も『珍しいな』と思ったんですが、ただ、そのときは声をかけなかったというか、かけてはいけない雰囲気で」
なぜ忘れていたんだろう、と由紀が瞬きを繰り返した。
そう、あの日直人はアルバムを見ていた。
何かを懐かしんでいるというより、じっと一枚の写真を見つめて。
声をかければ、その時間に踏み込んでしまうような、そんな空気だった。
「どんな写真を見ていたか、覚えていますか?」
「たしか、あのアルバムは主人が若い頃のもので……。友達と撮った写真もあったと思います」
「一緒に写っている方を、由紀さんはご存じだったんでしょうか?」
澪の問いに由紀は思い出しながら答える。
「名前は知っています。確か、主人の親友だった人です」
「『だった』人?」
「私と主人が結婚する2年くらい前に亡くなっているので、私は会ったことはないんです」
「亡くなった理由はご存じですか?」
由紀は、思い出すように手を口元へあてて束の間考える。
「事故だったとは聞いています。でも、それ以上は……。主人、その人のことをほとんど話さなかったんです」
「23年間、一度も?」
「一度もというわけでは……名前を聞いたことはあります。若い頃、よく一緒にいた人だって。でも、私が聞こうとすると、いつも話はそこで終わってしまって」
「由紀さんから尋ねたことも?」
「あります。でも、『昔のことだから』って」
由紀はそこで口を閉じた。
そう言われれば、由紀にもそれ以上聞く理由はなかった。
亡くなった親友のことを無理に聞くのも悪いような気がしていたから。
澪の中に、新たな点が増えた。
3か月前の病院。
失踪3日前の言葉。
失踪直前に見ていた、若い頃の写真。
25年前に事故で亡くなった親友。
「ご主人がそのアルバムを見ていたとき、どんな様子だったか覚えていますか?」
澪の問いかけに、由紀の眉が微かに寄る。
「そういえば……あのアルバムを見ている主人、なんだか懐かしそうには見えなかったんです」
そう言った由紀は少し考え、口を開きかけて噤む。
澪は急かさず、ただ微かにほほ笑んだ。
澪の笑みを見て、由紀はそっと目を閉じる。
「……苦しそうでした」




