第9話 失うこと、手放すこと
「ええ。では、少しずつ始めましょうか」
澪はそう言うと、卓上の時計に目を向けた。
次の予約まで、まだ時間はある。
鑑定の内容と料金について説明すると、美咲は小さく頷いた。
「……お願いします」
澪は、傍にある棚の引き出しから、紙と筆記具を机の上に用意する。
「ジオマンシーという占いをご存じですか?」
慣れた手つきで準備をしていく様子を見ていた美咲は、澪の問いに首を横に振った。
「では、少しだけご説明しますね」
澪は、安心させるように微かに微笑むと、紙に点を打つ方法を説明した。
「大切なのは、正確な数を数えようとしないことです。気持ちのままに打って、気持ちのままに止めてください。私が用紙を渡さなくなるまで続けていただきます」
澪に一枚の白い紙とペンを渡された美咲は、少し戸惑いながらも、言われたとおりに点を打ち始めた。
――トン、トン、トン……
最初はぎこちなく続いていた音が、少しずつリズムがつき始めると、紙の上に小さな点が重なっていく。
打つのを止めると、澪から新しい紙が渡され、それを繰り返していく。
説明を聞いて、ペンを手に取って点を打ち始めた美咲は、この点に何の意味があるのか分からなかった。
けれど、繰り返していくうちに、指輪のことも、莉央のことも、頭の中で少しずつ静かになっていくような気がした。
何枚点を打ったのだろうか、と、美咲が思い始めるころ、澪から新しい紙を渡されず、美咲は詰めていた息を小さく吐いた。
ちらりと視線を上げると、今まで美咲の書いた用紙を見つめていた澪は、その点をもとに図形を組み立てる。
現れたのは、Amissio。
澪はその印をしばらく見つめていた。
「……アミッシオ」
「それは、どういう意味なんですか?」
「失うこと。そして、手放すことを表す図形です」
その言葉に、美咲の表情が曇る。
「……じゃあ、指輪はもう戻らないんでしょうか」
澪は静かに首を横に振った。
「この図形だけで、指輪が戻るかどうかを決めることはできません」
「でも、失うって……」
「そうですね。そう聞くと、指輪のことを思い浮かべますよね」
美咲は頷いた。
澪は、机の上の図形へ視線を落とす。
「ただ、何かを失うことと、自分の意思で手放すことは、同じではありません」
美咲は不思議そうに澪を見る。
「……手放す?」
「ええ」
澪はそれ以上、口を開かず、じっと図形を見つめている。
少しの沈黙のあと、澪は尋ねた。
「先ほど、『また』とおっしゃいましたね」
澪の言葉に、美咲の指先が膝の上で小さく動いた。
「妹さんがお部屋に入られたと聞いて、そう思われたのですよね」
「……はい」
「以前にも、似たようなことがあったのでしょうか」
そう尋ねられ、美咲は視線を落とした。唇を噛みながら、無意識に今は何もつけられていない自分の左手の薬指を見つめる。
しばらくして、ぽつりと話し始めた。
「……子どもの頃、祖母に宝石箱をもらったんです」
猫足のついた、小さな宝石箱。
祖母の部屋にあるのを見て、憧れの童話のお姫様の部屋にあるようなデザインが素敵で、美咲はよく祖母の部屋に行っては見せてもらっていた。
ただ、見ているだけでワクワクとした気持ちになれる、それだけで楽しかった。
そんな美咲を見て、ある日、祖母が優しい笑顔を見せ「美咲ちゃんに」と譲ってくれた。
あの時の気持ちを、美咲は今でも覚えている。
美咲にとっては、どんな玩具よりも大切なものだった。
けれど、まだ幼かった莉央がそれを欲しがったことがある。
「莉央も欲しい!」
妹は手を伸ばし、宝石箱を抱える。
思わず取り返そうと手を伸ばした美咲に、両親は困った顔をしながらも言う。
「美咲、お姉ちゃんなんだから、莉央に貸してあげたら?」
その言葉に、美咲は何も言えなかった。
自分の大切なものなのに。
お父さんもお母さんも、それを知っているはずなのに。
どうして、莉央が欲しいと言っただけで、渡さなければならないのだろう。
そのとき、祖母が二人の間に入った。
「これは、美咲の宝物なのよ」
そう言って、宝石箱を美咲の手に戻してくれた。
「莉央には、また別のものを探してあげようね」
幼い美咲は、祖母の手の温かさを覚えていた。
「……結局、取られなかったんです」
美咲は小さく笑った。
「でも、あのとき怖かったんです。自分の大事なものが、妹のものになってしまうかもしれないって」
澪は美咲の顔を見つめ、優しく頷く。
「大切だったんですね」
「……はい」
「宝石箱も。そのときの、美咲さんのお気持ちも」
続いた澪の言葉に、美咲は顔を上げる。
そうして、美咲と視線が合うと、澪は静かに続けた。
「妹さんを大切に思うことと、自分のものを大切にしたいと思うことは、矛盾しませんよ」
その言葉に、美咲の視線が揺れた。
「……でも、私、お姉ちゃんなのに」
澪はその答えに静かにほほ笑む。
「お姉さんであることと、美咲さん自身であることは、別のことではないでしょうか」
澪の言葉を聞いた美咲の瞳が、大きく見開かれる。
ずっと、当たり前だと思っていた言葉だった。
――お姉ちゃんなんだから。
――莉央はまだ小さいんだから、譲ってあげて。
――美咲、我慢してくれる?
けれど、祖母だけは違った。
自分の大切なものを、大切にしていいと言ってくれた。
――これは、美咲の宝物なのよ。
もう一度、祖母の声が美咲の頭の中で響く。
澪はAmissioの印をそっと指し示した。
「手放さなければならないものを、今ここで決める必要はありません」
美咲は、澪が指し示すその小さな印を見つめた。
「もし、何かを手放すとしたら。それは誰かに言われたからではなく、美咲さんがそうしたいと思ったときでいいんです」
いつの間にか力を込めていた、美咲の指先が膝の上でゆっくりとほどけた。
指輪は、まだ見つからない。
妹への疑いも消えていない。
それでも、自分がずっと抱えていた気持ちを、初めて否定されずに聞いてもらえた気がした。
そう思い、美咲の視界がにじむ。
零れそうな涙を指で拭うと、美咲はもう一度、Amissioの印へ視線を落とした。
失うこと。そして、手放すこと。
その二つは、似ているようで違うのかもしれない。




