第10話 変わらないもの
美咲が西の魔女商店を出ると、外はすっかり藍色の空に包まれていた。
来たときと同じ道を駅へと向かって歩く。
行き交う人も、並ぶ店も、何も変わっていない。
なのになぜか、視界が広くはっきりと景色が見えてくる気がした。
美咲は来るときよりも、少しだけゆっくりと歩き始める。
――失うこと。そして、手放すこと。
澪が指し示した小さな印が、頭の中に浮かぶ。
――Amissio。
美咲にとって、初めてのことばかりだった。
占い方も、出された図形も。
そして、澪の言葉も。
結局、指輪の行方は分からなかった。
莉央が本当のことを言っているのかも、分からない。
それでも、胸の奥を埋めていた重苦しいものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「……手放す、か」
――手放さなければならないものを、今ここで決める必要はありません。
――もし、何かを手放すとしたら。それは誰かに言われたからではなく、美咲さんがそうしたいと思ったときでいいんです。
澪の言葉を思い出しながら、美咲は小さく呟いてみる。
自分は、何を手放せばいいのだろう。
指輪への執着だろうか。
それとも、妹を疑う気持ちだろうか。
考えてみても、答えは出なかった。
ただ、澪の言葉だけは耳に残っている。
美咲は鞄の肩紐を掛け直すと、俯きがちだった顔を上げ、駅へと向かって歩き始めた。
帰宅すると、リビングからテレビの音が聞こえていた。
それにかぶさるように聞こえる母親の声と、それに答える莉央の声。
美咲は履いていたパンプスを脱ぐと、シューズボックスの扉を開く。
ここ数日なら、莉央の声が聞こえると、少しだけリビングに顔を覗かせて帰宅を知らせるだけで、入らずに二階へ上がっていた。
けれど今日は、小さく深呼吸をすると、リビングの扉を開けた。
「ただいま」
「おかえり、美咲」
母親が振り返る。
ソファに座っていた莉央も顔を上げた。
「……おかえり、お姉ちゃん」
「うん」
美咲は短く答えた。
だけど、美咲も莉央もそれ以上の言葉は続かなかった。
美咲はダイニングテーブルの椅子に鞄を置くと上着を脱ぐ。
言葉は交わさないが、莉央の視線が自分を追っていることには気づいていた。
「お姉ちゃん、遅かったね。今日も仕事忙しかった?」
不意に声をかけられ、美咲は振り返る。
「……うん。ちょっとね」
「そっか。お疲れさま」
それだけ言うと、莉央はまたテレビへ視線を戻す。
以前なら当たり前だった、ほんの短いやり取り。
けれど今は、それが妙にぎこちなかった。
「美咲、ご飯どうする?」
母親に聞かれ、美咲は時計を見た。
「先に食べようかな」
「じゃあ、温めるね」
母親が立ち上がろうとすると、莉央が声をかけた。
「あ、お姉ちゃんの分、残してあるよ」
美咲は思わず振り返った。
「……何を?」
「今日のデザートのシャインマスカット。お姉ちゃん好きでしょ」
そう言って、莉央は小さく笑った。
「私、美味しかったからもう少し食べたかったけど、やめた」
「……そうなんだ」
「うん」
莉央はそれ以上何も言わなかった。
母親が台所へ向かうと、美咲はダイニングの椅子に腰を下ろした。
昔からぶどうは好きな果物だった。
それを莉央が覚えていることも、もちろん知っていた。
けれど、今はその小さな気遣いを、どう受け取ればいいのか分からなかった。
妹に、自分の何かを奪われたように感じたことは、何度もあった。
けれど、こうして自分に何かを残してくれたことも、きっとあったのだろう。
美咲はふと心に浮かんだその考えに、自分でも少し驚いた。
食事を終え、入浴を済ませて自室へ戻った美咲は、いつものようにドレッサーへ視線を向けた。
そこには空のリングケースがあり、隣には祖母からもらった宝石箱が並ぶ。
そっとその宝石箱に触れると、幼い頃、莉央に欲しがられたときのことを思い出した。
あのとき、祖母が守ってくれた宝物は、今もこうして、自分のそばにある。
美咲はしばらく宝石箱を見つめていたが、そっと触れていた手を放す。
この中はもう、何度も探した場所だった。
――取ってないよ!
あの日の莉央の声が、表情が蘇る。
あのとき、自分は何を見ていたのだろう。
妹が部屋に入ったという事実は確かだった。
けれど、そのあとに生まれた疑いは、幼い頃から心の奥に残っていた何かに影響されていたのかもしれない。
美咲はそっと目を閉じる。
指輪はまだ、見つからない。
それはあの日から変わらないこと。
けれど、莉央を疑うことだけが、答えを探す方法ではないのかもしれない。
美咲は何度目かの小さなため息をつくと、ドレッサーから離れ、ベッドへ腰かけた。
そのまま倒れこむようにベッドへと身を預けた美咲の耳に、スマートフォンが小さく震える音が響く。
ゆっくりとスマートフォンへと手を伸ばすと、恒一からのメッセージの通知が目に入る。
『今度の土曜日、時間ある?』
美咲は画面を見つめた。
恒一はあの日、一緒に指輪を探してくれた。
責めることもなく、焦らせることもなく。
そして、自分が莉央を疑っているのかもしれないと言ったときも、答えを決めつけなかった。
美咲はメッセージアプリに文字を打ち始める。
占いへ行ったこと。
そこで、自分でも気づかなかった気持ちを話したこと。
全部を説明するために、文字にするには言葉が足りない気がした。
美咲は文字を打ちかけて、一度消し、少し迷ったあと返信した。
『うん。会って話したいことがある』
すぐに既読がついた。
『わかった。ゆっくり話そう』
美咲はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。
何を話せばいいのか、まだ分からない。
指輪のこと。
莉央のこと。
そして、自分自身のこと。
どれも、まだ答えは出ていなかった。
けれど、今度は誰かに答えを求めるためではなく、自分の言葉で話してみたいと思った。
窓の外では、夜の街灯が静かに灯っていた。




