第7話 なくしたもの
仕事を終えた美咲が家に帰ると、玄関には莉央の靴があった。
視界に入った靴に、美咲の肩が一瞬だけ強張った。
以前なら、莉央の靴があること、莉央が自宅にいることなど気にしたことなどなかった。
けれど今は、リビングから聞こえてくる妹の声に、扉の前で足を止めてしまう。
小さなため息をつくと、美咲は扉を開けた。
「ただいま」
美咲が声をかけると、テーブルに視線を向けていた母親が顔を上げた。
「おかえり、美咲」
その隣にいた莉央も、美咲を見る。
「……おかえり、お姉ちゃん」
「うん、ただいま」
それだけだった。
いつもなら、莉央が大学であったことを話したり、美咲が仕事での出来事を話したりする。
けれど今は、言葉が続かない。
「美咲、先にご飯食べる?」
母親も二人の間の微妙な空気は感じ取っているはずだが、あえて触れずにいつも通りの声で美咲へ問う。
「ううん、先にお風呂入っちゃう。ご飯は後で温めて食べるから」
そう答えて美咲は鞄を持ち直すと、二階へ上がった。
美咲が出て行ったあと、その後姿を追うように泣きそうな表情を浮かべた莉央が見つめていた。
*
美咲は自室の扉を開けると照明をつける。
明るくなった部屋のドレッサーの上には、空のリングケースがあった。
そして、その隣には祖母からもらった宝石箱がある。
美咲は鞄を置くと、ゆっくりとドレッサーの前の椅子に腰かけた。
猫足のついた古い宝石箱を見つめていると、幼い頃の記憶が浮かんでくる。
莉央が生まれた頃。
もともと母親は忙しい人だった。
莉央が生まれる前まで正社員で働いていて、美咲の世話は当時同居していた祖母がしてくれていた。
莉央が生まれ、仕事を辞めた母親が家にいるようになり、とてもうれしかったのを覚えている。
けれど、それまで少ない時間ながらも母親の隣にいることが当たり前だった美咲は、少しずつ妹にその場所を譲るようになった。
父親も仕事があった。
二人とも自分のことを大切に思ってくれている。
それは分かっていた。
それでも、ときどき寂しくなった。
「お姉ちゃんなんだから」
その言葉を聞くたび、美咲は自分の気持ちを飲み込んだ。
けれど、祖母だけは違った。
美咲が何かを我慢していると、隣に座って話を聞いてくれた。
この宝石箱をくれたのも祖母だった。
幼い美咲には、本物のお姫様が持つ宝物のように見えた。
そんな事を思い出しながら、美咲は宝石箱へと手を伸ばしかけ、止める。
もう何度も探した。
そこに指輪はなかった。
*
入浴を済ませ、リビングに顔を出すともうその場に莉央はいなかった。
まだリビングにいた母親が、美咲の為に夕食を温めなおしてくれ、今日あったことを話しながら食べた。
莉央の話題には触れない。
母親に話せば、最近の二人の様子から、きっと莉央のことを尋ねられる。
だから、他愛のない話だけをした。
そうして自室に戻った美咲は手にしたスマートフォンの画面を見つめる。
恒一は一緒に指輪を探してくれた。
責めることもなく、ただ傍にいてくれた。
だからこそ、これ以上心配をかけたくなかった。
それならば、と通信アプリに並んだ友人たちの名前を見つめる。
どの友達も美咲の結婚を喜んでくれ、二つ返事で「招待状待ってるね」と言ってくれた。
その友人たちに話せば、莉央が盗ったのではないかという話になってしまうかもしれない。
何度目かのため息をつくと、美咲はスマートフォンを伏せた。
誰かに聞いてほしい。
でも、誰にも話せない。
そんな思いを抱えたまま、夜が更けていった。
*
数日後。
仕事帰り、美咲はいつもとは違う道を歩いていた。
以前、友人たちとお茶をするお気に入りのカフェへ行く途中に、何度か見かけた古い建物。
「西の魔女商店」
少し目を引く外観を何度か見るうちに、その場所が占いの店だと知った。
最初から相談するつもりで来たわけではない。
ただ、誰にも言えない思いを抱えたまま家に帰るつもりが、自然と足が向いてしまった。
閉ざされた扉の前で、視線をさまよわせていた美咲は、扉のそばにある看板に目が留まり、書かれている文字を追う。
「あ……、予約制」
美咲はそれを読み小さく呟くと、鞄を肩に掛けなおした。
「そうだよね、いきなりなんて無理か……」
そう呟くと駅へ向かう道へ帰ろうと一歩踏み出した。
カラン―。
先ほどまで閉ざされていた扉が開き、ドアベルの音が響いた。
その音に、美咲は思わず振り返ると、中から出てきた女性と視線が合った。
中から出てきた女性――雨宮澪は、店の前に立つ美咲に気づいた。
「何か、ご用でしょうか」
穏やかな笑みを浮かべた澪の言葉に、美咲は慌てて首を振る。
「いえ、あの……予約が必要なんですよね」
「ええ。鑑定は予約制にしております」
美咲は小さく頭を下げる。
「すみません。突然来てしまって」
そう言って頭を下げると立ち去ろうとする美咲の姿に、澪の眉根が微かに寄った。
困ったように笑って言うその顔には疲れが滲んでいる。
澪は少しだけ美咲の様子を見つめたあと、立ち去ろうとする美咲に声をかけた。
「……お時間はございますか?」
その言葉に、美咲は驚いて振り返る。
「次のご予約まで、少し時間があります。よろしければ、お茶でもいかがですか」
澪に柔らかく微笑まれ、美咲は戸惑いながら答える。
「でも、予約もしていないのに……」
「鑑定をお受けするかどうかは、お話を伺ってからでも構いませんよ」
澪はそう言って、扉を少し大きく開けた。
美咲はしばらく迷ったあと、小さく頷く。
「……ありがとうございます」
そう言うと、美咲は澪に促され、西の魔女商店へ足を踏み入れた。
勧められるままに椅子に座った美咲は、不躾にならない程度に店内へと視線を動かす。
大きな本棚にはたくさんの本が並び、年季の入った、でも丁寧に扱われてきたとわかる古いインテリアたち。
瓶詰されたハーブに、鉱石たちが棚に並んでいる。
まるで昔憧れたお姫様の出てくる物語の中の、魔女の部屋のようだと美咲は思う。
そんなことを思っていると、コトリという音と共に、美咲の前に紅茶が置かれた。
ふわり、と、カモミールの香りが漂う。
向かいに座った澪が小さく首を傾げた。
「今日は、何か心配事のご相談でしょうか?」
その言葉に、美咲は婚約指輪のことを話そうとする。
けれど、すぐには言葉が出ない。
どう話せばいいのか。
どうしたらこの胸の中のもやもやしたものを伝えることが出来るのだろうか。
しばらく紅茶の入ったカップを見つめていた美咲が顔を上げた。
「……なくしたものが、あるんです」
その言葉に、澪は急かさず続きを待つように微かに笑みを浮かべた。




