第3話 つながった点
変わらず棚の前にCarcerが佇んでいる。
彼は『閉じ込められている者は、一人とは限らない』と言った。
澪はその言葉の真意を探るため、由紀へと問う。
「ご主人の様子が変わったのは、いつ頃からですか?」
「3か月くらい前でしょうか。はじめは、帰宅が遅くなることが多くなって。もともと、毎日のように残業する人ではなかったんです。その頃から主人の携帯もよく鳴るようになりました。会社でトラブルがあった、と言っていました。でも、私がそばにいると別の場所へ行って電話に出るんです。最初は、大事な話だから聞かれたくないんだと思っていたんですが」
そこまで言うと、由紀は下唇を噛み、俯く。
「それで『浮気』と」
澪の言葉に由紀が小さく頷く。
それなら、一つ腑に落ちないことがある。
浮気を疑っていた女性が、なぜ、夫が死を選んだのではないかと怯えていたのか。
澪は棚の前に立つCarcerへ一度だけ視線を向けた。
「……もう一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「ご主人が『死を選ぶ』と思ったのは、なぜです?」
澪の問いに由紀が少しだけ視線をあげ、手元のティーカップを見つめる。
「主人には持病があるんです」
「はい。先ほどそう仰っていましたね」
「血圧に問題があって、数年前から降圧薬を毎朝服用しています」
高血圧できちんと薬も飲んでいる。
なのになぜ、死を選ぶと思ったのか。
「それだけで、ご主人が死を選ぶと思ったんですか?」
「……違うんです。主人がいなくなってから、知らない病院の診察券を見つけて」
由紀がそこで言い淀む。
本棚に背を預けたCarcerも何も言わない。
ならば、と澪は促すように由紀を見つめた。
由紀は小さく息を吸い込むと、手帳に挟んでいた一枚の診察券を取り出し、澪の前に差し出した。
その診察券に記載されていたのは、地元では大きな総合病院の名前だった。
「主人が血圧のことで通っているのは、個人病院です。私はここに通っていることを知らなかった……」
澪が診察券を裏返してみる。何も書かれていない。
「ご主人に聞いたことは?」
「ありません。だって、この診察券を見つけたのは主人がいなくなった後ですから」
「そうでしたね」
「でも……これだけじゃないんです」
そう言うと、由紀は診察券とともに検査の予約票や領収証が見つかったと続ける。
「主人、高血圧とは別の病気なんじゃないでしょうか」
澪は診察券へ視線を落とした。
「可能性はありますね」
「それで……」
由紀の指が、膝の上で強く組まれる。
「残された時間を、一緒にいたい人と過ごそうと思ったんじゃ……」
澪は顔を上げた。
「一緒にいたい人?」
澪の問いに、由紀の体が一瞬こわばった。
由紀の手元の茶は、もうすっかり冷めている。それでも温もりを求めるようにカップを包む指には、ゆっくりと力がこもっていった。
澪は問いかけたまま、静かに答えを待った。
静かな空間に、外の雨の音だけが響く。
まるで、そこだけが切り取られたような時間が流れていく。
「浮気相手です。だから、私には何も言わなかった。病気のことも、その人のことも」
ようやく絞り出すような声で続ける由紀を、澪は黙って見つめる。
「そう考えれば、全部つながるんです」
「……ええ。つながりますね」
澪が肯定の言葉を言ったことで、由紀が少し傷ついた顔をする。
否定してほしかったのかもしれない。それは考えすぎだと、嘘でもいいから。
だから、澪は続ける。
「ただ、つながることと、それが事実であることは別です」
その言葉に、由紀がはっとしたように顔を上げた。
「お茶が冷めてしまいましたね。温かいものを入れ直しましょう」
そう言うと、澪は席を立った。
その様子に由紀が驚いた表情を浮かべる。
澪は微かに口の端を上げ、そっとティーカップを手にすると、部屋の端に備え付けられた小さなキッチンへと向かう。
カチャリと響く食器の音。
コポコポと音を立てるポット。
そして、ふわりと漂うレモンバームの香り。
けれど、由紀はそれにも気づかない様子で、膝の上の指を強く組んでいる。
コトン、とテーブルに置いたティーカップの音で、由紀の意識が現実に引き戻されたように顔を上げた。
新たに置かれたカップからは、ほんの1時間前、初めてこの席に座ったときと同じように、柔らかな湯気と香りが立ちのぼっていた。
「今、分かっていることを整理しましょうか」
3か月ほど前から帰宅が遅くなったこと。
携帯への連絡が増え、由紀の前では出なかったこと。
由紀の知らない総合病院の診察券があること。
検査予約票と領収証があること。
直人は何も告げず姿を消したこと。
「これだけです。『重い病気』も『浮気相手』も、まだ由紀さんの推測です」
「……でもっ」
澪の言葉に由紀が声を上げる。
「では、浮気相手がいると確認できるものは?」
「……っ」
由紀と目を合わせ、澪はゆっくりと問いかける。
由紀は答えられない。
相手とのやり取りをしたスマートフォンの中を見たわけではない。
女性といるところを見たわけでもない。
ホテルの領収証が出てきたわけでもない。
「……何もありません」
つめていた息を吐き出すように、由紀が呟く。
「では、もう一度最初から見てみましょうか」
その様子を見つめていた澪が、さっきより少し柔らかい声音で言い、診察券をテーブルへ置く。
「今、分かっていることだけを使って」
澪の言葉に、棚にもたれていたCarcerが呟く。
「人は、空いた場所を埋めたがる」
澪はCarcerへ視線を向けた。
――そして、自分で埋めたものを事実だと思い込む。




