第2話 大地に問いなさい
「・・・あの、先生?」
手に取っていた紙片から視線を由紀へと戻し、澪はゆっくりと瞬きをすると、手にした紙片を由紀へと戻す。
由紀の瞳の中の不安を感じ取った澪は、テーブルの右端に置かれた小さな引き出しから紙を一枚取り出し、ペンと一緒に由紀へと向ける。
目の前に置かれた真っ白な紙とペンを見て、由紀が戸惑うように澪を見た。
「この紙に、思いつくまま好きなように横一列に点を打ってください。打つのを止めるのもご自身の気持ちのままに」
澪の言葉に『意味が分からない』といった表情を浮かべながらも、由紀はペンに手を伸ばすと、トン、トンとリズミカルな音と共に白い紙に点を打ち始めた。
「数えないでください。止めようと思ったところで、ペンを止めて」
由紀が点を打ち終えると、澪は何も数えずにその紙を伏せ、新しい紙を置く。
2枚、3枚、4枚と由紀が無心で点を打つ。
5枚目、6枚目と続くうちに、最初は戸惑いながら動かしていた由紀の手から、次第に迷いが消えていく。
紙の上にペン先が触れる小さな音だけが、雨音に混じって店内に響く。
夫はどこにいるのか。なぜ何も言わずに消えたのか。
頭から離れなかった問いも、いつしか点を打つことに意識を奪われ、由紀の中から遠ざかっていた。
打ち終わると新しい紙を差し出され、16枚目を打ち終わったところで、由紀はこれがいつまで続くのだろうと思う。
打ち終わった紙を澪に渡すと、新しい紙は手渡されなかった。
代わりに澪はいつの間にか手元に置かれている箱を開け、インク瓶と繊細な細工の施されたガラスペンを取り出す。
そして、澪の前に伏せられていた、先ほど無数の点を打った紙を表にし、1枚目から順に目を通す。
1枚目の点に視線を走らせると、新たに用意された紙に澪が点を打つ。
2枚目、3枚目、4枚目と同じ作業を繰り返すと1つの図形のようなものを描き上げる。
4枚の紙を1組として、2回目、3回目、4回目と続き、4つの図形が出来上がる。
四つの図形が出来上がると、澪はそこで初めてガラスペンを置いた。
由紀には、それが何を表しているのかまるで分からなかった。
1つの点と2つの点。それが縦に4段並んでいる。ただそれだけのものが、澪の前には4つある。
澪はしばらくそれらを眺めていたが、やがて新しい紙を1枚、手元に引き寄せた。
今度は由紀の打った紙には触れない。
澪は最初に出来上がった4つの図形を横に並べ、その下に新しい紙を置いた。
今度は、4つの図形を上から順に追いながら、決まった位置の点を拾うように新しい図形を描いていく。
1つ。2つ。3つ。4つ。
最初の4つの下に、さらに4つの図形が並んだ。
澪は今度は、その8つを2つずつ組み合わせていく。
1番目と2番目から1つ。3番目と4番目から1つ。
同じように繰り返すたび、紙の上には新しい図形が増えていった。
8つだった図形は12に。
12の中からさらに2つが生まれ、14になる。
そして澪は、その最後の2つだけを見つめた。
これまで迷いなく動いていたガラスペンの先が、初めて止まる。
2つから、1つ。
最後の点が置かれ、15番目の図形が完成した。
「これが、今回の答えです」
澪の声に、由紀は紙の上へ視線を落とした。
現れた紋は――
Carcer。
由紀の持ってきた紙と同じもの。
その名を知らない由紀にも、それが先ほど澪に差し出した紙片に描かれていたものと同じだということは分かった。
由紀の視線が、紙片と澪の描いた紋の間を行き来する。
偶然。
そう思おうとしたのか、由紀の唇が何かを言いかけるように動いた。
けれど、声にはならなかった。
Carcerの文字を書き終えた瞬間、その文字が澪の目にだけゆらりと揺れた。
ランプの炎が揺れる。
さっきまで窓を叩いていた雨音が遠のき、薄い膜を一枚隔てた向こうから聞こえてくるようなくぐもった音に変わる。
澪はガラスペンを手にしたまま、静かにその変化を見つめる。
この感覚を、彼女は知っていた。
やがて右側の壁、古書の並ぶ本棚の前に、人影が滲むように現れる。
1人の男だった。
だが、由紀は気が付かない。
気が付かないのではない。見えるのは澪ただ1人だけ。
背が高く、すらりとした体躯。それでも骨格がしっかりしているためか、実際の背丈以上に大きく見える。
肌は青白く、髪と瞳は鉛を思わせる鈍い灰色をしている。
一目で『人界に属さないもの』と分かる姿を前にしても、澪は動じない。
彼はCarcerを司る精霊だから。
Carcerは由紀ではなく、紙片を見ている。
「……誰から受け取った」
澪は心の中で答える。
――私も、それを知りたい。
「この図形の意味って・・・」
黙ったまま図形を見つめる澪に、由紀がテーブルの下の両手をぎゅっと握りしめた。
由紀の声に澪がゆっくりと視線を向ける。
「Carcerは、牢獄や拘束、制限や閉塞を意味します」
静かに答える澪の声に、由紀が目を瞠る。
「牢獄?拘束? え、でも主人は警察には・・・。これって、主人は誰かに閉じ込められているってことですか?」
震える声で問う由紀の言葉に、澪は目を伏せる。
「まだ、分かりません」
「そんなっ」
由紀の小さな悲鳴のような声に、澪は再び、自分が導き出した図形と由紀の持参した紙片へ視線を向けた。
変わらず場所から動かないCarcerが呟く。
「閉じ込められている者は、一人とは限らない」




