第1話 婚約指輪
休日の昼。
橘美咲は、キッチンからリビングで家族と楽しそうに話す、恋人の高橋恒一を見つめる。
美咲の左手の薬指には控えめだけれども、品の良いプラチナとダイヤの指輪が収まっている。
もともと二人は大学時代から付き合い始めたため、何度か恒一は自宅に遊びに来ていたが、今日は家族に改めて二人の今後についてを話すためにやってきた。
指輪をもらった時点で、美咲は家族に恒一のこれからについて話をしていたが、改めて二人で並んで報告をすると、家族はとても喜んでくれた。
今、恒一が座るソファーの隣には、妹の莉央が腰かけ恒一と楽しそうに話している。
莉央は昔から人懐っこい。恒一にも自然に話しかけ、二人の会話には笑い声が混じっている。
美咲はその様子を眺めながら、特に不快に思っているわけではない。
自分の家族と、自分が未来をともに歩く相手が仲が良ければ、それに越したことはない。
ただ、一瞬だけ。
高校生の頃に偶然見た、過去の恋人が莉央に向けた視線が脳裏をよぎる。
愛嬌があり人懐っこく、愛らしい妹は、真面目が取り柄のような自分よりも愛される。
そう、自分が幼い頃に憧れたお姫様のような妹――。
けれど、美咲は心に浮かんだ気持ちをすぐに打ち消した。
恒一は違う。
自分を大切にしてくれていることを、美咲自身が一番よく知っている。
見た目もそれなりに良く、人当たりの良い恒一は大学内ではそれなりに人気があった。
その恒一から告白されて始まった交際も、大学を卒業して就職してから続いていた。小さなけんかやすれ違いはあっても、二人の関係が揺らぐことはなかった。
そして、恒一からの誠実な言葉と共に贈って貰った左手の薬指に収まった指輪。
それは、美咲の好みをよく理解している恒一が選んでくれたものだった。
改めての挨拶が終わり、その日の夕方、恒一が帰るのを美咲は外まで見送った。
少し安心したように、恒一が美咲に笑う。
「美咲の家族が喜んでくれて良かった」
「うん。今日はありがとう」
「帰ったら電話するよ」
そう言い、美咲の頭をそっと撫でると、恒一は駅の方向へと歩いて行った。
美咲が玄関のドアを開けると、莉央が待っていた。
「お姉ちゃん、嬉しそう。その指輪きれいだね」
そう笑って言うと、莉央の視線が美咲の薬指へと向かう。
「そう?」
「うん。すごく似合ってる」
莉央は本当に嬉しそうに笑うと、二階の自室へと戻っていくため階段を昇って行った。
いつもの無邪気な莉央の笑顔だった。けれど、その笑顔の奥に、ほんのわずかな引っかかりが美咲の中に残った。
莉央から少し遅れて美咲も二階の自室へと戻ると、薬指から丁寧に婚約指輪を外した。
普段使いできるようにと恒一は選んでくれたが、会社にはつけていかない。
大切だから。
傷つけたくないし、失くしたくない。
これは、恒一が自分のために選んでくれたものだ。
そう思いながら、美咲は指輪を手にしたまま、ふとドレッサー横の棚にある古い宝石箱を見る。
それは今は亡くなってしまった祖母から譲られたものだった。
幼い頃、美咲が「お姫様みたい」と喜んだ宝石箱だった。
そっと蓋を開けると、中には、子どもの頃のビーズのブレスレットや、お小遣いやお年玉を貯めて買ったイヤリングなどが入っている。
今ではもう使わないものばかり。
その中に、付き合い始めた頃に恒一からもらった小さなメッセージカードもあった。
美咲はそれを手に取り、少しだけ眺める。
恒一の性格を表すような、丁寧に書かれた文字が並んでいた。
「美咲ー」
ぼんやりと当時を思い出していた美咲の耳に、階下から呼ぶ母親の声が聞こえてきた。
「はーい」
美咲は母親に聞こえるように、少し大きめの声で返事をすると宝石箱の蓋を閉じた。
翌朝。
美咲は出勤の支度が終わったあと、いつものようにオフホワイトの布張りの指輪ケースを手に取る。
仕事には着けてはいかないが、貰ってから数日、毎朝出勤前に眺めるのが日課になっていた。
「……あれ?」
ない。
あるはずの指輪がケースにない。
美咲は一瞬、驚いて目を瞠ると、慌てて指輪を探し始める。
机の上にもない。
ドレッサーの上にある、アクセサリーケースの中にもない。
昨日つけていた場所を思い返すが、最後にどこへ置いたのか思い出せない。
「あっ」
思い出したように小さく声を上げた美咲が、昨日手にした宝石箱を開く。
ビーズのブレスレット。
古いイヤリング。
ネックレス。
メッセージカード。
指先でいくつかを動かしてみる。
「……ここじゃない」
美咲は蓋を閉じると箱をもとの場所へと戻した。
途方に暮れたように美咲は部屋の中で立ち尽くした。
しばらく美咲がそうしていると、トントンと、階段を上ってくる音が響き、ゆっくりと美咲の部屋のドアが開いた。
「美咲、早くいかないと遅刻するわよ。……どうしたの?」
いつもの時間になっても降りてこない美咲を気にかけたのだろう。
開いたドアから母親が顔をのぞかせ、美咲の顔色が悪いことに気が付き眉根を寄せた。
「あ……、お母さん。指輪が見つからなくて……」
「指輪って、恒一さんから貰った婚約指輪?」
「……うん」
美咲が絶望したような声で呟くと、ちょうど莉央が自室から出てきた。
「お母さんもお姉ちゃんも。どうしたの?」
ただならぬ美咲の様子に、莉央が部屋を覗き込んで言うと、母親が思い出したように莉央へと向く。
「そういえば昨日、莉央、お姉ちゃんの部屋に行くって言ってなかった?」
「……えっ?」
母親の言葉に莉央が目を丸くする。
「ほら、お姉ちゃんがお風呂に入ってるとき。レポートの資料がとか言ってたじゃない?その時見なかった?」
母親の言葉に、美咲の表情がわずかに止まった。




