第14話 私が来たよ
数週間後、奈緒は絵葉書と同じ場所に立っていた。
目の前に広がる海。
絵葉書が撮られた頃にはなかったであろう案内板や舗装された道、少し離れた場所には新しい建物も見える。
けれど、その向こうにある海だけは、きっと昔とそれほど変わっていない。
「……ここなんだ」
暫く景色を見つめていた奈緒は、鞄から古い絵葉書を取り出す。
取り出した絵葉書を目の高さまで掲げ、色褪せた写真と今目の前にある景色を見比べた。
遠くに見える水平線は同じでも、周りの景色は少し変わっている。
絵葉書とまったく同じではない。
絵葉書は奈緒が生まれる前のもの。
年月が経っているのだから当然だ。
それでも、海の形や遠くに見える岬には、絵葉書の面影が残っていた。
奈緒は少し歩き、海が近くまで見える場所まで向かう。
秋から冬に変わる手前の季節は、海から吹く風が思っていたより強い。
髪を押さえながら、奈緒はふと笑った。
「お母さんも、ここに来たかったのかな」
口にしてから、すぐに答えが返ってくるはずもないことに気づく。
ふと、西の魔女商店で澪に言われた声が頭に響く。
――分かりません。
記憶にある澪の声を、言葉を思いながら奈緒は海を見る。
「……そうだよね」
もう母には確かめられない。
最後の手紙の「そちら」が、本当にこの場所だったのか。
母が千鶴とここへ来る約束をしていたのか。
母が何十年も、その約束を覚えていたのか。
それは、もう分からない。
これまでなら、その分からない部分を埋めるために、奈緒は何か答えを探しただろう。
でも今は、少し違う。
母は若い頃、県外で働いていた。
若葉荘という寮で暮らした。
千鶴という友人と笑っていた。
父親の病気を心配して、故郷へ戻った。
そこで奈緒の父と出会った。
結婚し、奈緒を産み、母として生きた。
けれど、それだけが母の人生ではなかった。
奈緒の知らない場所で。
奈緒の知らない人と。
奈緒の知らない時間を、母は確かに生きていた。
「お母さんって……ちゃんと、お母さんになる前からお母さんだったんだね」
海を見つめながら呟いた言葉に、自分で言ってから、少しおかしな言葉だと思って奈緒は笑う。
でも、それが一番近かった。
奈緒にとって母は、最初から「母」だった。
けれど母自身の人生は、奈緒が生まれたところから始まったわけではない。
そのことを、奈緒は今になって初めて知ったような気がした。
鞄から、母が最後に書いた手紙を取り出す。
――長い時間がかかりました。でも、ようやく決めました。今度は、私がそちらへ行く番ですね。――
奈緒はその文章をしばらく見つめる。
海からの風が、奈緒の髪と手紙を揺らす。
「そちら」がここなのかは、分からない。
それでも。
「私、来てよかったよ」
誰に言うでもなくそう呟くと、奈緒は手紙を丁寧に封筒へ戻し、スマートフォンを取り出した。
絵葉書と似た角度を探す。
「少し右かな。もう少し海を入れて。こんな感じかな……」
そう言うと、カメラアプリのシャッターボタンを押す。
満足げにうなずいた奈緒は撮った写真を画面に開くと、今の景色が残った。
昭和の絵葉書とは違う。
これは、母が残した写真ではない。
奈緒自身が、ここへ来た記録だった。
帰宅した奈緒は、母の古い写真を入れていた箱を開いた。
若葉荘。
若い母。
その隣で笑う、千鶴と思われる女性。
その中へ、今日撮った写真を一枚入れる。
帰ってきてからすぐに印刷したあの景色。
一旦写真を収めた奈緒の指が、もう一度写真に触れると少し迷って、その裏に今日の日付。
そして、
私が来たよ。
と書いた。
母の続きを生きるためではない。
母の代わりでもない。
奈緒が、自分で行きたいと思って行った場所。
それでよかった。
数日後。
奈緒は一枚の葉書を書く。
あの日行った岬で買った一枚の絵葉書だ。
母が千鶴から送られた絵葉書とは少し風景が違うが、同じ岬と灯台がある。
宛先は、西の魔女商店。
文章は長くなかった。
母があの場所へ行きたかったのかは、結局分かりませんでした。
千鶴さんが今どこにいるのかも、分かりません。
でも、私はあの場所へ行ってよかったと思っています。
あの日の鑑定で、地図をありがとうございました。
最後まで書いてから、奈緒は少し考える。
そして一行だけ付け加えた。
今度は、自分の道を歩いてみます。
出勤前、奈緒は駅前のポストへ葉書を落とすと、赤い投入口の向こうへと葉書が消えていった。
母が何十年も出さなかった手紙とは違い、奈緒の葉書は、ちゃんと宛先へ向かっていった。




