第12話 いつか、二人で
奈緒は、若葉荘と書かれた数十通の封筒を一枚ずつ手繰る。
「どうして、ここなんだろう……」
千鶴のアメリカでの住所が分からなくなった。
だから送れなくなった。
そこまでは理解できる。
でも、それなら普通は宛先を書かずに手紙を書くか、最後に分かっていたアメリカの住所を書くのではないだろうか。
なぜ母は、若葉荘だったのか。
いくら考えてもその答えは出てこない。
奈緒は再び手紙を古い順に並べてみる。
今度は、千鶴の近況を探すためではない。
若葉荘での記憶。
この手紙の束の中に、いくつもの母の思いがあった。きっと当時の記憶もあるはずだ。
母が何を覚えていたのか。
奈緒はそこだけを拾うように読み直していく。
――あの部屋は狭かったけれど、二人でいると不思議と広く感じました。――
――給料日前に二人で安い食材を買って、何日分も作ったことを思い出します。――
――英語の本を開いたまま眠っていたあなたを見て、こんなに頑張る人ならきっと夢を叶えるんだろうと思っていました。――
奈緒は読む手を止めた。
「……お母さん、全部覚えてたんだ」
特別な出来事ではない。
どこかへ遊びに行ったわけでも、旅行でも、事件でもない。
何でもない、繰り返される毎日の中での出来事たち。
でも母にとっては、それが大切だったのだろう。
書かれている内容は、まるで日記のようだと奈緒は思う。
奈緒は一通ずつ読むごとに便箋が収められていく封筒に書かれた「若葉荘」という文字を見つめた。
「ここって……住所じゃないのかも」
書かれている住所は、千鶴が住んでいる場所だとずっと思っていた。
でも母にとって若葉荘は、千鶴の住所ではなく、二人の時間が残っている場所だったのかもしれない。
ふと奈緒はそんなことを思う。
「忘れられなかったんじゃなくて……忘れる必要がなかったのかな」
母は自分の意志で地元へ戻った。
そして父と出会い、結婚し、奈緒が生まれた。
その人生が誰かに決められたものでもなく、不幸だったわけではないのだろう。
奈緒の記憶にある母の姿や、両親と奈緒で過ごした時間は、奈緒自身から見ても懐かしく、心が温かくなるような記憶だった。
だからこそ、母にとってもそうであって欲しいと思う。
だからといって、若葉荘で過ごした三年間を捨てる必要もない、大切なもの。
そう考えて、奈緒は小さくため息をつくと一番新しい手紙を取り出した。
日付を見ると、それは母が亡くなる少し前に書かれたものだった。
何度も読んだ最後の部分。
――長い時間がかかりました。でも、ようやく決めました。今度は、私がそちらへ行く番ですね。――
奈緒は、その文章をじっと見つめた。
ずっと母の記憶と思いを辿ってきたからこそ、その文章は今までとは違う意味に見える気がした。
「……そちらって、千鶴さんのところじゃない?」
もし、そうではないなら。
母が言う「そちら」とは――。
奈緒は手紙を握ったまま、若葉荘の写真を見た。
「……もしかしたら、二人で行くはずだった場所? でも『今度は』ってある……」
奈緒は最後の手紙を机の上に置いた。
「そちら……今度は……」
何度読んでも、その言葉だけが引っかかる。
これまで奈緒は、千鶴のいる場所だと思っていた。
けれど母は、千鶴が今どこにいるのか知らなかった。
今度は、と書かれているということは、先に千鶴だけが行った場所なのかもしれないと奈緒は思う。
それなら、「そちら」とはどこなのか。
千鶴が「行った場所」はアメリカだ。
でも、母から一度もアメリカに行きたいなんて話を聞いた記憶もない。
奈緒はもう一度、古い手紙を読み始めてみる。
今度探すのは、若葉荘でも千鶴でもなく、場所を示す言葉だ。
何通か読み進めたところで、奈緒の指が止まる。
――結局、あそこには行けなかったね。――
奈緒はその手紙と封筒を手紙の束から取り分け、別の手紙を読み始める。
何通か目を通したところで再び奈緒の指が止まった。
――いつか二人で行こうと話していたことを、今でも覚えています。――
「……いつか二人で行こうと話した?どこだろう?」
読み進めても場所の名前は書いていない。
奈緒の視線が写真の入っていた缶に移動すると、そのまま手を伸ばし、一枚ずつ写真を取り出してみる。
すると、写真の下に隠れるようにして、色褪せた一枚の絵葉書があった。
青い海。
岬。
遠くに水平線。
裏返すと、そこにはエアメールと同じ文字が並んでいる。
――いつか、二人で来ようね――
その一言に、奈緒の息が止まる。
「……ここ?」
スマートフォンで絵葉書にある写真を撮ると、奈緒はその画像をもとに場所を検索してみる。
似たような景色は検索に上がってくるが、決め手がない。
奈緒がもう一度絵葉書を隅々まで視線を走らせると、絵葉書の隅に淡く変色した文字があった。
「この絵葉書の場所かもしれない」
目を凝らしながら文字を拾い、再びスマートフォンで検索すると、今も存在する場所であるとわかった。
若葉荘からは少し遠いが、休日なら行けなくはない距離。
二人がそこへ行った写真は、一枚もない。
でも、絵葉書には千鶴の文字で「いつか、二人で来ようね」とある。
奈緒は絵葉書の消印を確認した。
それは、母が父親の病気を知って地元へ戻った後の日付だった。
「……千鶴さん、一人で行ったんだ」
母と二人で行くはずだった場所へ、千鶴は一人で行った。
そして、そこから母へ絵葉書を送ったのだ。
――いつか、二人で来ようね。――
その言葉を残して。
その後、千鶴は夢だったアメリカへ渡った。
「……行けなかったんだ」
約束を破ったわけではない。
喧嘩したわけでもない。
ただ、二人の人生が別々に動き出した。
奈緒は最後の手紙を開いた。
――長い時間がかかりました。でも、ようやく決めました。今度は、私がそちらへ行く番ですね。――
もう一度、絵葉書を見る。
「そちらって……千鶴さんのところじゃなくて」
奈緒の指が、絵葉書に写る岬をなぞる。
「ここ……だったの?」
答えはない。
もう母に聞くこともできない。
けれど奈緒の中に、一つの考えが浮かんだ。
母が行けなかったのなら――。




