第9話 母の隣の人
奈緒は写真を手にしたまま、しばらく動かなかった。
ただ、じっと写真を見つめる。
写真の中で母の隣にいる女性は、母と同じくらいの年齢だろうか。
肩まで伸びた髪に、少し大きめの眼鏡。
写真の中で笑った時に目尻が下がるところが、どこか印象に残る女性だった。
けれど、この写真だけでは分からない。
この人の名前も書かれていない。
この人について母から聞いたこともない。
奈緒は、写真の裏側をもう一度確認する。
――昭和五十一年 若葉荘にて――
それだけだった。
奈緒は写真を机の上に置くと、今度は別の写真を取り出した。
同じ女性が写っている。
その次も。
また、その次も。
母と二人で写っている写真もあれば、女性一人で写っているものもある。
一枚目は今の時代から見れば、少し古い外観のアパートの前。外壁に「若葉荘」と記されている。
二枚目はどこかの公園だろうか。花見に行ったのか満開の桜と一緒に、レジャーシートの上にお弁当と飲み物を広げ、その横で楽しそうに体を寄せ合って写っている。
三枚目は部屋の中だろうか。これは母が撮ったのか、少し生活感のある部屋の中で女性がケーキを目の前にして照れ臭そうに笑っている。
どの写真でも、一緒に写っている母は楽しそうだった。
「……仲良かったんだ」
何気なく呟いた奈緒は、ふと手紙の束へ視線を向けた。
これまで何度も読んだ手紙だ。
それでもその中に、少しでもこの女性のことが書かれていないだろうか。
見落としてはいないだろうか。
奈緒は古い順に手紙を並べると、写真を横に置き、もう一度一通ずつ確認していった。
最初の手紙。
季節のこと。
次の手紙。
仕事のこと。
その次は、奈緒が生まれたこと。
どれも一見すると、普通の手紙だ。
けれど、今までとは違う視点で読むと、少しずつ気になる言葉が見えてくる。
――あの頃は、毎日が楽しかった。――
――あの部屋は狭かったけれど、二人でいると不思議と広く感じました。――
奈緒の指が止まった。
「……二人?」
呟いた奈緒は、その文章の前後を読み返してみる。
けれど、誰と二人だったのかは書かれていない。
また別の手紙を開く。
――あの時、若葉荘の窓から見た夕焼けを今でも覚えています。――
奈緒は顔を上げ、広げた写真を見た。
「若葉荘……」
そして、もう一度手紙へと視線を戻した。
今まで何度も読んだはずなのに、気づかなかった。
それは、手紙を書いていた母にとっては当たり前すぎる記憶だったからなのかもしれない。
もしかしたら、奈緒自身が「藤井千鶴」という人物に囚われすぎていたからかもしれない。
数は多くはないが、手紙の中に何度か出てくる「若葉荘」という言葉を呟くと、奈緒は写真を一枚ずつ並べていく。
昭和五十一年。
その翌年の五十二年。
さらにその翌年の五十三年。
写真の裏に書かれた日付を確認すると、同じ女性と一緒に写った写真は三年間に集中していた。
「この三年間、ずっと一緒だった……?」
奈緒は写真の女性を見る。
名前はまだ分からない。
けれど、母にとってはただの知人ではないことは分かる。
若葉荘という同じ場所。
何度も一緒に写った写真。
そして、母が何十年も後になってまで書き続けた手紙。
すべてが一本につながっていく。
奈緒は、写真の中の女性の顔をじっと見つめた。
「……千鶴さん?」
問いかけるように、その名前を口に出してみる。
もちろん、写真の女性が答えるはずはない。
奈緒は少し迷ったあと、手紙の中から一通を取り出した。
その手紙の宛名には、いつもの名前が書かれている。
藤井千鶴様。
奈緒は写真と手紙を並べた。
そして、写真の女性をもう一度見る。
「この人が……お母さんがずっと手紙を書いていた人?」
しばらく黙っていた奈緒の表情が、少しずつ変わっていく。
これまで探していたのは、住所だった。
その住所にいるはずの人物だった。
けれど、本当に探すべきだったのは住所ではなかったのかもしれない。
母がそこに何十年も書き続けた理由。
母が忘れなかった場所。
母が忘れなかった人。
奈緒は写真をそっと指先でなぞった。
「……お母さんにとって、千鶴さんはどんな人だったの?」
写真の中の母は、奈緒が知らない顔で笑っている。
その隣には、同じように笑う女性。
二人の間に何があったのか。
奈緒はまだ知らないが、ただ一つだけ分かったことがある。
藤井千鶴という女性が、母の人生の中にいた。
そのことだけは、もう疑いようがなかった。
そして、その事実を母は奈緒に一度も話していなかった。




