第8話 母のいた場所
奈緒が登記の滅失年月日と、手紙の日付を何度も見比べる。
「……やっぱり、おかしい」
アパートがなくなったあとにも、母は何年も同じ住所へ書いている。
「もしかして……」
奈緒の視線が封筒に書かれた住所で止まる。
ずっと奈緒はこの封筒の住所に藤井千鶴という人が住んでいて、そこに母が手紙を書いていたと思っていた。
宛先に人がいるから手紙を書く。
そう思い込んでいた。
けれど、考えてみればおかしい。
母は一度も、その住所に住む千鶴の近況を書いていない。
「千鶴さんは元気ですか」といった問いかけもなければ、返事を待っているような言葉もない。
それなのに、住所だけは何十年も変わらなかった。
「……住所だけが、残ってる」
人がそこにいることよりも、その場所そのものに意味があったのだろうか。
もしかしたら、母は、藤井千鶴が今もこの住所に住んでいると思って、書いていたわけではないのかもしれない。
それならば、なぜ?
法務局から自宅戻った奈緒は、もう一度手紙の束を日付ごとに並べた。
一番古いものから中の手紙を取り出し、読み進める。
前回は「藤井千鶴」という人物を知るため、手紙の内容を読んだ。
今度は内容ではなく、その住所に触れている文章がないかと思ったからだ。
「……目立ったものはないなぁ」
古い手紙の中には母の字で
「あの頃の夏は、今よりずっと暑かったような気がします」
「あの部屋から見えた夕焼けを、時々思い出します」
といった、当時に思いを馳せるような文章がある。
そして読み進めていくうちに、何度も出てくる言葉に意識が引っかかった。
「……あの部屋?」
毎回ではないが、何度か出てくる「部屋」という単語。
「あの部屋」という言葉が出てきた手紙だけを、奈緒は手元に集めていく。
三通。
五通。
十年以上離れた手紙の中にも、同じような表現があった。
「……偶然じゃないよね」
しかも、それは千鶴の暮らしについて書かれた文章ではなかった。
母自身の記憶として書かれている。
「あの部屋で見た夕焼け」
「あの頃、二人でよく……」
そこで文章が途切れていたり、別の話題へ移っていたりする。
奈緒は、そのたびに指を止めた。
文章から察するに、母はこの住所を知っている。
知っているのではない、実際にその場にいた事があるような言葉だ。
奈緒は「藤井千鶴」の住所だと思って、その存在を探していた。
でも、母がこの場所を知っているのであれば。
そう考えた奈緒は、手紙と一緒に持ってきた、アルバムに貼っていない古い写真を入れてあった缶の箱を取り出す。
実家でアルバムを確認した後、ほかに何かないかと探した時に、手紙と同じように押し入れの奥から出てきたものだった。
ふたを開けると、昔ながらのお菓子の入っていたその箱の中には、少し色あせた写真が沢山入っていた。
奈緒は一枚一枚、確認していく。
ふと、奈緒の手が一枚の写真で止まった。
母と、知らない若い女性が写っている。その写真の下には同じ女性と撮ったものが数枚重ねて入っていた。
目に留まったのは、若い頃の母が年も楽しそうに笑っていたから。
「お母さん、楽しそう」
その写真を見た奈緒の顔が自然と笑顔になった。
写真の中の母は、奈緒が知っている母とは少し違っていた。
奈緒が知っている母は、いつも家族のことを気にしていた。
自分のことより、夫や奈緒のことを優先する人だった。
けれど写真の中の母は違う。
誰かと顔を寄せて笑っている。
少し乱れた髪も気にせず、こちらを見て笑っている。
「こんな顔、するんだ……」
奈緒は知らなかった。
母にも、自分が生まれる前の時間があったことを。
そうして、一枚ずつ写真を取り出していると、一枚がひらりと奈緒の手から落ちた。
「あれ?」
その落ちた写真を拾おうとして手を伸ばした奈緒の目に、写真の裏に書かれた文字が映る。
昭和五十一年 若葉荘にて
その文字を見た奈緒が目を瞠ると、スマートフォンの中にある古い住宅地図の写真を出し、登記の写しと見比べる。
「……若葉荘」
古い写真のに書かれた文字。
古い住宅地図。
登記の写し。
「お母さんもこの住所にいたんだ……」
この住所は探していた「藤井千鶴の家」ではなかった。
奈緒の中で、ついさっきまで藤井千鶴の住所だと思っていた。
でも違う。
これは――母自身の住所でもあったのかもしれない。
「千鶴さんに送るための住所じゃなくて……二人のいた場所に書いていたって事?」
母は現在の千鶴に届けるためではなく、
かつて二人がいた場所を宛先にして、千鶴へ語り続けていたのではないか。
奈緒はそう考えるともう一度写真を見る。
写真には母と、もう一人の母と年の変わらない若い女性。
「……この人が、藤井千鶴さん?」




