第2話 「藤井千鶴」
正確に言えば、存在していないのではない。
2000年代に行われた平成の大合併で、住所に書かれている町は隣接する市へ編入され、旧町名は住所表記から消えていた。
ウェブ上では、かつて表記されていた住所の大まかな場所はわかっても、番地までは調べることが出来ない。
奈緒は小さくため息をついた。
このまま、「母親の過去」としてふたを閉めてしまえば済むこと。
そう思い、バラバラになった封筒の束を見た。
暫く眺めていた奈緒は、立ち上がるとリビングにあるローチェストの一番上の引き出しを引き出す。
ここには、母のもとに送られてきた年賀状や住所録などが入っている。
奈緒は引き出しの中を一つ一つ丁寧に見ていく。
年賀状の次に住所録も見たが、該当する名前は見つからない。
次に同じ引き出しに入っていた、母の使っていたスマートフォンを取り出すと、一緒に片付けてあった充電ケーブルを繋いだ。
暫くすると、充電中であることを示す表示が画面に浮かんだ。
ふと、奈緒の頭の中に母がはじめてスマートフォンを手にした時の様子が思い出される。
なれない操作に最初は少し手間取っていたが、1か月もすれば使いこなせるようになっていて、奈緒は驚いた。
アナログ派だった母は、便利さを覚えると、庭の草花の写真や料理の写真をよく送ってきていた。
つらつらと、そんな事を思い出していると真っ暗だった画面が明るくなった。
母からロック解除の番号は教えられていた。
すでに解約をしているから電話は繋がらないが、充電すればスマートフォンの中身を見ることができる。
解除しようとして、画面に触れようとした奈緒の手が止まった。
ロック画面には、母と奈緒の写真がある。
それを見た奈緒が小さく笑った。
「どこにもないなぁ……」
スマートフォンのあとは、押し入れの隅に並んでいたアルバムを引っ張り出した。
父と知り合う前の、若い母の姿。
父と母の若い頃。
結婚式。
奈緒が生まれた時。
奈緒の成長の記録。
だけど、「藤井千鶴」が見つからない。
そもそも、「藤井千鶴」という人物がどういった風貌なのかもわからないのだ。
「……あっ、もしかしたら叔母ちゃんなら知っているかも」
そう思い出し、自分のスマートフォンで連絡を取る。
タイミングがよかったのか、何回目かのコールで叔母と話すことはできたが、肝心なことはわからなかった。
「藤井千鶴……」
そう呟くと、奈緒は開いた数枚の便箋を眺める。
母が書いていたのは丁寧な文章だったが、決して堅苦しくなかった。
「……友達、だったのかなぁ」
この「藤井千鶴」という人は、母の親しい人だったのかもしれない。
叔母や自分が知らないということは、親戚や幼い頃からの知り合いではないのかもしれない。
学生時代?
それとも社会に出てから?
母は父と結婚する前は、会社の事務として働いていたと聞いていた。
その頃に知り合った人かもしれない。
だけど、何かあって離れた。
手紙を書き続けるぐらい大事な人。
でも送れなかった。
そして死ぬ直前、「ようやく会いに行く決心をした」のではないか。
けれど母は、その前に亡くなってしまった。
そうだとしたら、母はきっと無念だっただろう。
そう思いながら、奈緒は封筒を手にすると書かれている住所を見つめる。
だったら、私がその場所に行ってみる?
お母さんの代わりに。
そう思い、ゆっくり目を閉じる。
違う。
お母さんが、最後に行こうとしていた場所を知りたい。
お母さんが、こんな風な手紙を書いた「藤井千鶴」という人を、私が知りたいんだ。
「……この人のことを知っているのは、結局お母さんだけなんだ」
そう呟いた奈緒は、改めて十数通の手紙を今度は「藤井千鶴」を知るために読み始める。
1度目はさっと目を通しただけだったが、じっくりと読み返すほど、母にとって「藤井千鶴」という人が大事な人だったのだと奈緒は思う。
だけど、これだけ長い間、毎年手紙を書いていたのに、一通も送らなかった。
「どうして?」
読めば読むほど、その疑問が大きくなっていく。
奈緒は、封筒の裏に記された日付を眺めると、今度は封筒を古い順に並べてみた。
一通り並べ終えたところで、奈緒の目が2、3度瞬きを繰り返した。
「……待って、住所が消えたのは、平成の大合併……」
奈緒が一番古い封筒を見る。
そこにあるのは合併より前の日付。
もう一通、さらにもう一通と確認していく。
「……違う」
住所がなくなったから、送れなかったわけじゃない。
住所がまだ存在していた頃から、母は送っていなかった。




