第1話 母の文箱
朝晩の空気が少し涼しく感じ始めたころ、佐伯奈緒はようやく、数か月前に亡くなった母親の住んでいた実家の整理を始めた。
奈緒の住む場所から実家までは車で1時間ほどの距離だったが、夏の間はさすがに片付ける気力がわかなかった。
久しぶりに訪れた実家の鍵を開け、奈緒は室内にこもった空気を入れ替えるように、家中の窓を開けていく。
奈緒が社会人となり、実家を離れて暫くたったころ、父親を病気で亡くした。
それ以来、この一軒家には母親一人が住んでいたが、その母親も病気がわかり1年前から入院生活となっていた。
月に1度は実家を訪れ、家に風を通す。
入院中の母親が気にしていたものや、必要なものを持ち出しては翌週の休みに病院へと持っていく。
奈緒の他には兄弟はいなかったため、それがこの1年のサイクルとなっていた。
はぁ、と奈緒が小さくため息をついた。
「一人になっちゃったな……」
父を亡くし、母も旅立った。
40代になり、周りの友達は中学生や高校生の子供もいる。
独身で、仕事に邁進する奈緒を羨む友達もいる。
結婚に興味がなかったと言えば噓になるが、それでも独り身でいる方が気が楽だった。
一人でいたからこそ、離れて暮らしていても、母親との時間を持てたとも思う。
だからこそ、母が居なくなった事で胸にぽっかりと空洞ができたような気持ちを抱えていた。
暫くぼんやりとしていた奈緒がはっと我に返る。
「……ぼんやりしてた。今日はどこに何があるか確かめるんだった」
そう呟くと座り込んでいたリビングの座布団から立ち上がった。
母は几帳面な人だった。
重要書類も整理されているし、遺品整理そのものに大きな問題はないはずだ。
予定のない週末に通えば寒くなるころにはすべて整理ができるだろう。
そんな事を思いながら、奈緒はリビングの押し入れのふすまを開けた。
入院前に母が片付けたのか、中には大きなものはない。
奈緒はプラスチックの衣装ケースを取り出し、その奥を覗き込んだ。
「……あれ?」
衣装ケースのあった場所の奥に、古い木製の箱があった。
「なんだろう?」
奈緒はそう呟くとその木箱を引っ張り出す。
少し古いデザインの木箱には鍵類はついていない。
「何が入っているんだろ?」
そう言いながら、奈緒はゆっくりと被せ蓋を取った。
中には紐でまとめられた十数通の封筒。
「手紙?」
奈緒はまとめられた束を取り出し、紐をほどいて一つずつ宛名を確認した。
「あれ?」
何通か見たところで奈緒の手が止まる。
「全部同じ人宛て?」
束ねた封筒すべての宛名が同じ女性名だった。
住所もすべて同じもの。
だけど、どの封筒にも切手も消印もない。少なくとも、郵便として出されたものではなさそうだった。
「藤井千鶴 様?」
宛名に書かれた聞いたことがない名前を呟く。
封筒の裏には母の筆跡で日付が記されている。
その日付を辿ると、一年に一通、ほぼ同じ時期に書かれ、それが十数年以上続いていることがわかった。
読んでもいいのだろうか。
一瞬そう思ったが、もう母に尋ねることはできない。
奈緒は暫く迷ったが、そっと一番古い封筒から中身を取り出した。
ぱらり、と乾いた紙の音と共に、開いた便箋には母の文字が並ぶ。
視線を走らせていると、文章の中に『奈緒も今年――』と自分の名前があった。
一通、また一通と読み進めると、そこには自分の成長の様子が書かれている。
知らない女性に、母が自分の人生を書いていた。
そのことに驚きながら、奈緒は読み進めていく。
最新の手紙は母が亡くなる数週間前。
最後に、
「長い時間がかかりました。
でも、ようやく決めました。
今度は、私がそちらへ行く番ですね」
その一文に奈緒の心がざわつく。
藤井千鶴という名前に心当たりはない。
母から聞いた記憶もない。
奈緒はポケットに入れていたスマートフォンを取り出すと、宛先となっている住所を検索した。
しかし――
その住所は現在、存在していなかった。




