第10話 道の先
澪の店を出た由紀は、バス停まで来るとすぐスマートフォンで花火大会を調べる。
画面に現れた花火大会の情報をタップし、開催日を確認する。
開催日は、一週間前の土曜日。
「……終わってる」
由紀の中で繋がった3つの言葉は、答えではなかった。
道。楽しみ。水。
この言葉で由紀が繋げた答えが花火大会だった。
でもそこに確約はなく、あくまでも由紀の憶測だ。
由紀はバス停の行先ごとの時刻表を確認した後、備え付けのベンチに腰かけため息をついた。
そして、さっき澪が見せてくれたチャートを思い出してみる。
何度も繰り返し出たVia。
道、移動、旅。そして水。
第五室の楽しみ。
確かに直人との会話で花火大会の話を聞いた。だから花火大会を思い出したのは間違いではない。でも、それ自体が答えとは限らない。
澪はこうも言った。
『占いは、直人さんの居場所を住所で教えてはくれません。でも、地図に印をつけることくらいはできます。その印を見て、何を思い出すのか。それは由紀さんの中にしかありません』
澪は今ここにあるものだけ、持って帰ればいいと。
由紀は今まで調べて見つけた事実だけを思い出しながら一つずつ、声に出して呟いてみる。
病院の診察券。
検査予約票。
領収証。
アルバム。
「……アルバム」
アルバムにあった写真。
赤とシルバーの同じ車種。
その背景に何があった?
そう、3分の1は同じような景色が後ろに写っていた。
以前、2人で行ったドライブ、海沿いの道を走っている時、直人が何気なく話していたことがあった。
『あの頃、和也とよく海まで走ったんだよ。車買ったばっかりだったから、用もないのに走りたくてさ』
その言葉を思い出した由紀はぽつりと呟く。
「……あの海岸」
道は二人で車を走らせた海岸線の道路。
楽しみは若い頃、二人で遊んだこと。
そして、水は海。
由紀はもう一度時刻表へと視線を向けると、自宅方面へと向かうバスの時刻を確認した。
自宅へ戻った由紀は、靴を揃えることも忘れて直人の部屋へと駆け込む。
鞄を肩にかけたまま、臙脂色のアルバムへと手を伸ばし、1ページずつ視線を走らせ、写真に添えられた言葉を拾っていく。
何ページかめくったところで、由紀の視線が一枚の写真に止まる。
「……あった」
2人が2台の車の前でポーズをとっている写真。
そこには27年前の日付と、『1年ぶりに来た』という言葉の隣に、何度も2人の後ろに写りこんでいた場所が記されていた。
由紀は鞄からスマートフォンを取り出すと、海岸までの経路を調べた。
バスと電車を乗り継いできた由紀は、改札を出たところで目の前に広がる景色に目を少し細める。
その海岸は、夏には海水浴場になる場所。
すでに時刻は夕方近く。
海岸へ向かう人よりも、帰宅のため駅へと向かう人が多い。
駐車場にはまだ何台か車がある。
海の家では片付けが始まり、砂浜には家族連れや若者が少し残っていた。
ここは直人と付き合い始めてから、一度か二度来たことがある。
でもそのとき由紀は知らなかった。
ここが直人と和也の場所だったことを。
由紀は砂浜を歩く。
スニーカーに履き替えてきたが、それでも砂に足を取られて少し歩きづらい。
確証はない。だけど、「いるかもしれない」と思って来た。
まばらになった人影を見るたびに目で追う。
違う。
また違う。
「……やっぱり違ったのかもしれない」
海岸名を見た時はここだと思った。
けれど、その確信は直人ではない人影を見るたび、少しずつ萎んでいく。
『その印を見て、何を思い出すのか。それは由紀さんの中にしかありません』
澪の言葉を思い出し、止まりかけた足を進めていく。
違ったのなら、また事実を並べていけばいい。
駅を出た頃にはまだ少し眩しかった太陽も、今はオレンジ色に空を変えていく。
海水浴場から、少し離れた防波堤のある場所まで来たところで、由紀は来た道をもう一度探してみようかと思い、海の先へと延びる防波堤へと視線を向けた。
薄暗くなった景色の中、海を見つめて座っている人がいる。
顔は見えない。
でも。
それは23年間、見てきた背中だった。
「……直人」
由紀の口が自然と名前を呼ぶ。
それは小さな呟き。
だけど、次の瞬間にはその声が大きく響く。
「直人!」
由紀の声に男の肩が僅かに動く。
もう一度由紀が呼ぶ。
「直人!!」
ゆっくりと影が振り返る。
その姿を確認した由紀は大きく息を吐くと、ゆっくりと直人の方へと向かう。
直人は由紀の姿を見つめたまま動かない。
痩せている。
無精髭が少し伸びている。
でも、間違いなく23年間一緒に過ごした夫だ。
だけど、何日も探していたのに、実際に目の前にすると何を言えばいいか分からない。
お互い、何も言わない。
波の音だけが二人の間を通り過ぎていく。
先に口を開いたのは直人だった。
「……どうして、ここが」
「……探したから」
だけど直人は何も言わない。だから今度は由紀が言う。
「帰ろう」
でも直人は首を振った。
「……帰れない」
「どうして」
直人は答えない。
「何も言わずにいなくなったこと?連絡もしなかったこと?……それとも――病院に通っていたこと?」
直人の表情が変わる。
「……部屋、見たのか」
「見たわよ。探したもの。あなたを」
由紀の表情と声には少しの怒りが見える。
「何の病気なの?」
直人は由紀の問いに答えず俯く。
「今度はちゃんと話して」
目をそらした直人を、由紀は目をそらさずに言う。その視線に観念したように直人が呟いた。
「……膵臓がんだ」
直人がぽつりぽつりと口を開く。
「はじめは会社の健康診断で血液検査に引っかかった。再検査と言われていつもの病院へ行って相談した。再検査しても一部の数値がおかしいけど、原因がわからないと言われたんだ」
「……それで総合病院」
「……ああ。精密検査を勧められて受けた。そうしたら膵臓がんだ」
投げやりとも自嘲ともとれるように直人が微かに笑う。
「……どのくらいなの?」
「早期だって言われた。手術もできるかもしれないって」
由紀は直人の言葉を頭の中で繰り返す。
早期。
手術もできるかもしれない。
「……余命は?」
直人が僅かに眉を寄せる。
「言われてない」
「治らないって?」
「……それも、言われてない」
「じゃあ、先生はなんて言ったの?」
「詳しく検査して、治療方針を決めるって……」
由紀は黙って直人を見る。
「直人」
「……なんだよ」
「あなた、死ぬって誰に言われたの?」
直人の口が止まった。
波が防波堤にぶつかり、砕ける音がする。
「……誰にも」
やがて、直人が小さく答えた。
「じゃあ、どうして」
「怖くなったんだ」
直人は海へと視線を戻した。
「膵臓がんだって聞いた瞬間、もう駄目なんだと思った。死ぬんだって」
「……それで、何も言わずにいなくなったの?」
「違う」
直人が小さく首を振る。
「がんが怖かっただけじゃない」
一度言葉を切り、直人は暗くなり始めた水平線を見つめた。
「死ぬかもしれないって思ったら……和也のことを思い出したんだ」
波間に消えてしまいそうな声だった。
病気が分かってから、直人は昔のアルバムを引っ張り出したのだという。
写真を眺めながら、ひとつずつ昔の記憶を辿ったと。
「赤い車が、和也さんの車だったんでしょう?」
直人が驚いて由紀を見る。
「……調べたのか」
「あなたが何も教えてくれないから」
変わらず由紀の表情と声には怒りがある。
「私、浮気してると思った。病気の女の人がいるのかと思った。あなたがその人を思って死ぬんじゃないかって、一人で考えた」
由紀の声が少しずつ強くなっていく。
「全部、あなたが何も言わないからでしょう」
そういって由紀は言葉を切った。
もっと言いたいこともある。
責めたい気持ちもある。
だけど、それは後でいい。
そう思い、由紀はゆっくりと目を閉じて大きく息を吐きだした。
「美奈子さんにも会った」
その言葉に直人の表情が変わった。
「……美奈子に?」
由紀は頷く。
そして自分が知っている事実だけを口にする。
「和也さんが子供のために毎月一万円を貯めていたこと。あなたに通帳を預けていたこと。事故後、あなたが代わりに毎月一万円を振り込み始めたこと。美奈子さんは何度もやめてほしいと言ったこと。それでも25年間、あなたは一度もやめなかった」
空がいつの間にか藍色に染まり始める。
「美奈子さんも知らなかった。どうしてあなたが、25年間続けているのか」
直人がゆっくりと視線を海へと向ける。
直人は何も答えない。海風が2人の髪を揺らす。
海を見つめる直人の横顔に、由紀が静かに言う。
「事故のことも調べた」
暮れ始めた景色の中でも、直人の顔が強張ったのがはっきりと分かった。
「和也さんは、一人で車に乗ってた」
「……ああ」
「速度超過だったって」
「……ああ」
「でも、それだけじゃないんでしょう?」
由紀の言葉に直人の顔がゆっくりと向いた。
驚きで呆然とした表情を浮かべる直人を見て、由紀が続ける。
「25年間、一万円を送り続けなきゃいけないって、あなたが思った理由があるんでしょう?」
その言葉に直人が視線をそらした。
「直人。もう、私に隠さないで」
暗くなり始めた海に波の音が響くなか、直人がぽつりと呟く。
「……あの日、和也と喧嘩したんだ」
由紀はその言葉の先を促すように、小さく頷く。
「……あいつが死んだ日。事故を起こす少し前まで、俺と一緒にいた」




