時間の速度は、特に主観的なものだ。
■◇■
頁を捲る音だけが静かに空間の中に響く。
落ち着いた灯り、鼻孔に香る紙とインクの匂い。
緩やかに時間が流れることを、仄かに知覚する。
ふと、彼女は目の前の人物に視線が留まる。
その青年は静かに、そして真剣な眼差しで文章に目を通していた。
見た所、歳は彼女とそう離れていないだろう。
大人びた印象ではあるが、彼女よりも年下である可能性もある。
一言で言えば、魔術師然としたその青年は目の前に座す彼女には目もくれず、ただじっと本を読んでいた。
ミヤビが聖女であることにも気が付いていないのか、そうした視線も感じない。
時計の針はもうすぐ約束の時間だ。
無言のまま読書をすること一時間弱。
集合時刻に間に合う為には、そろそろ席を立たなければならない。
故に、ミヤビは話しかけることにした。
「興味がおありなんですね。聖教に」
「……ええ、まあ。一人の魔術師として興味はあります」
暗に『自分は聖教徒ではない』と返事をされる。
彼の用意していた本達は歴史書から物語、宗教形態等と内容は様々だったが、現在彼が読み進めているものは神聖魔術に関するもの。
こうしたことから、ミヤビ自身も薄々彼は単なる魔術師なのだろうと考えていたので、それ自体には何も思わない。
彼女自身、私的な時間にまで布教を行うつもりはなかった。
ただ気になっただけだ。
自分以外の人間……最高学府という場所に属する魔術師が聖教をどう見ているのかが。
「差し支えなければ、どのような所に興味を持っているのか伺ってもよろしいですか?」
「……そうですね……やはり神聖魔術の構造でしょうか。単なる古代魔術とも異なる、あの魔術の構造は興味を惹かれますね」
「それは、聖教徒しか使えない、という所にでしょうか?」
神聖魔術は聖教徒にしか使えない。
正確には『聖典を信仰する者』しか使えないのだが、概ね同じ意味である。
正式に聖教徒でなくとも、信じるものが正しければ恩寵は授けられる。
要は自認が『聖教徒』であることは必要条件ではないということだ。ただ、結果として聖典を信仰する殆ど全ての者が自身を『聖教徒』と認識しているといだけである。
「はい。信仰心によって扱える魔術が異なる、というのは他に無い神聖魔術だけの特性です。詠唱や魔術名が判明していたとしても資格のあるものしか使用できない、という意味では一部の古代魔術や血統魔術と同じですが……神聖魔術はそれらとも明らかに異なる。信仰の多寡に応じる訳ですから、先天的なものではない。まるで……っと、すみません、つい」
「いえ、大変興味深いお話ですね」
「すみません。初対面の方相手に無礼でしたね」
「無礼なんて思っていません。興味深い話でした」
実際、ミヤビは彼の話を面白いと思っていた。
ミヤビは聖女として高位の神聖魔術も扱うことができる。
だが彼女自身は魔術を研究する者、最高学府でいう『魔術師』ではない。
彼女はあくまで聖教という宗教の中で授かったものを行使しているだけであり、彼女自身が魔術を創り出したとか、修得したという訳ではないのだ。
だからこそ、彼女は目の前の青年の話を面白いと思った。
世間一般で言う『魔術を使う者』としての『魔術師』ではなく、『魔術を学ぶ者』としての『魔術師』である彼の話はミヤビにとって今までにない視点に感じられたのだ。
「ただ……もう少し貴方のお話を聞いていたいところだったのですが……残念ながら、この後で人に会う約束をしているのです。そろそろ帰らないと叱られてしまいますから。もし次の機会があれば、その時はもう少し詳しく聞かせてくださいね」
ミヤビとしてはもう少し彼の話を聞いていても良かったのだが、法国と聖教の代表として最高学府を訪れているミヤビには様々な責務がある。
その中には優先順位として劣るもの、言い換えれば『後回しにできるもの』もあるが、会食の予定はそうもいかない。特に今晩の会食は最高学府の権力者とのものである。外す訳にはいかなかった。
「……そうですか。それでは、お気をつけて。本も忘れずに持って行ってください」
「ですが……本当によろしいのですか?貴方が借りるつもりで探し集めたもの、ですよね」
机上に集められた本達は、目の前の青年が厳選して集めたものだ。
広大な中央大図書館の中から、これだけの種類を集めるためにはどれだけの労力がかかったか。
館内で目的の本を見つけられず困っていた彼女だからこそ、推測もつく。
「さっきも言いましたが、まだ貸出の手続きもしていない、ただ集めただけ本です。流石に全部と言われれば困りますが……何冊か持って行くだけなら、止める権利も俺にはありません。貴女が読み終えて返却したものを改めて借りられれば、それで良いですから」
青年はそう言うと、ふっと微笑む。
まるで、二度も確認する必要はない、と言わんばかりに。
確かに他人が集めた本を、いきなり横取りするような行為はマナー違反ではあるが、この場合は集めた本人が良いと言っているのだ。であればミヤビも遠慮する必要はない。
「ありがとうございます。それではこちらと、こちらと……こちらの合計五冊を貰わせていただきます」
「どうぞ。……あ、念の為ですが本を借りる方法は分かりますか」
「出口付近の窓口で本を司書にお渡しすれば良いのですよね?」
「ええ、それで大丈夫です。窓口ならどこでも大丈夫ですが、これから帰るというのなら、そこが一番丁度良いでしょう。返却も窓口で可能ですから、期限だけ注意してください」
最高学府の図書館の貸出期間は原則七日間とされており、延長はできない。
同じ本を七日以上借りたい場合、一度窓口に返却し、その場で借りるという手続きを行うことで実質的な延長が可能な仕組みになっている。
そして返却期限を破った場合、直ちに罰則を与えられる訳ではないが、余りにも期限を超過すると重罰が科せられ、最悪図書館施設の利用禁止もあり得るので注意が必要だ。
「ご忠告ありがとうございます。……それでは、失礼します」
軽く感謝の言葉を告げ、青年から譲り受けた五冊の本を抱きかかえるようにしてミヤビはその場を離れる。
五冊の本は一冊あたりそれなりの厚みがあり、多忙なミヤビでは七日間で全てを読み切る事は難しいだろう。ミヤビは七日後に再びこの場を訪れる予感がしつつ、集合場所へと急ぐ。
(……もしかしたら、七日後にまた会えるかもしれませんね)
そんな事を考えながら。
◇
聖女が去った後、残された空間では一人の青年が疲れた表情で本を机上に置いていた。
理由は言わずもがな……青年の身に急に降りかかったこの数十分間の出来事が原因である。
「まさか……こんな場所で出会うことになるなんてな……一体どうなってるんだ」
青年魔術師……ゼルマ・ノイルラーは周囲に人が居ない事を確認しつつ、言葉を漏らした。
正に今日の午前中にノアと会話をしてからの邂逅だ。
まさかその聖女が供回りもつけず、あまつさえ自分に声をかけて一緒に読書をする事になろうとは完全に想定外だ。流石のゼルマも少し驚きが勝ってしまい、対応がぎこちなくなってしまった程である。
特徴的な服装や装飾品を外し、髪型も変えていたとはいえ気付かない筈もない。
ゼルマは聖女の特別講義にも参加していたのだ。向こうは何百人も居た魔術師の一人だったかもしれないが、ゼルマにとってはたった一人の『法国の聖女』である。
加えて彼女は控えめに言っても容姿端麗だ。確かにクリスタルやフェイムのように人目を惹きつける雰囲気ではないが、相対すればまず顔を忘れることはない。
(あれで気付かれないと思っているなら……他人の感情が分からないか、余程の世間知らずだな)
ゼルマの周囲に居る女性、クリスタルもフェイムも自分の容姿に自覚的だったが故に無自覚的な聖女の行動には驚かされた。
因みにエリンもかなり整った容姿を持っているのだが、本人曰く「人種からはそう見えるだけだ」とのこと。人間種族でも種族が異なれば美的感覚は変わるので、平凡的な人種の美的感覚しか持たないゼルマには良く分からないのだが。
(しかし……ノア先輩はあの聖女と会話なんてできるんだろうか……?どう考えても会話が弾む未来が見えないが……心配だな)
ノアと聖女ミヤビはゼルマから見てもかなり対照的な人物である。
ノアも別に会話自体が苦手ではないのだが、何分他人と会話する機会が少なく初対面では特に距離感を間違えてしまいがちなのである。
普段ならば特に問題はないのだが、今回は相手が相手だ。
最高学府外の有力者であり、ノア個人ではなくウルフストン本家の人間としての対応。これは彼女が最も苦手とすることの一つでもある。
(そういえば、誰かもう一人呼ぶと言っていたな……)
となれば希望はノアが用意した助っ人しかいない。
六門主家と聖女の会食に参加できるだけの人間なので、それなりに地位が高い人間であることは間違いない。問題はその人物がノアと聖女の間に入って会話を円滑に進ませることができるかどうかなのだが。
(ともかく……無事に乗り切れて良かった。あの程度の会話なら、向こうも特に印象にも残らなかっただろう)
実の所、ミヤビの中では印象強く残っていたのだが……ゼルマは知る由もない。
一般的な魔術師らしく振る舞うことが、逆に興味を持たれることになるとは誰が想定できるだろう。
まさかの出会いだったが、偶然とはそういうもの。
ゼルマはここ最近、偶然という力の巨大さを散々思い知らされている。
レックスとの決闘、フェイムへの師事、クリスタルとの約束……様々な偶然の積み重ねによって、ゼルマが経験してきた出来事達。
(思い返せば……ここ最近だけで色々とあったもんだな)
そんなことを振り返り……ゼルマはふっと微笑む。
その微笑は、先程ミヤビにしたものと少し異なっていた。
「さて、もう少し読んで行くか」
そうして、ゼルマは机に置かれた本へと手を伸ばした。
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