第9話:距離感のバグと歪む魔導回路
第9話:距離感のバグと歪む魔導回路
昨夜の「ソファでのハプニング」から明けた朝。 工房の空気は、これまでとは質の異なる重苦しさに包まれていた。
「……おい頑固中尉。朝飯だ。さっさと食いな」 「……ああ。感謝する」
朝食のテーブル。 カルラは一度もレオンハルトと目を合わせようとせず、皿をドスンと雑に叩きつけた。宣言通り、スープは真っ赤な唐辛子がたっぷり浮いた激辛仕様である。 しかし、レオンハルトは顔色一つ変えず、静かにスプーンを運んでいた。
(……目が合わせられない)
カルラはスープを啜りながら、心の内で叫んでいた。 昨夜、レオンハルトの腕の中にすっぽりと収まった感触、彼の胸の激しい鼓動、そして至近距離で見つめられた青い瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。 普段は堅物で世辞一つ言えない男のくせに、どうしてあそこまでまっすぐに自分のすべてを知りたいなどと言えるのか。
(バカじゃないの!? 堅物なら堅物らしく、四角四面に接してればいいんだよ!)
「……カルラ殿」 「な、なに!? 何もしてないよ!?」
不意に名前を呼ばれ、カルラは跳ね上がるように大声を上げた。
レオンハルトはわずかに首を傾げ、唐辛子スープの器を傾けながら冷静に口を開く。
「……スープは大変美味だが、少々辛みが強いようだ。汗が止まらん」 「~〜〜っ! 黙って食いな!」
カルラは真っ赤な顔で立ち上がると、逃げるように作業場へ向かった。 レオンハルトは彼女の後ろ姿を見送りながら、静かに汗を拭った。
(……かなり怒らせてしまったようだ。手首の加減といい、昨夜の粗相といい、俺は彼女に対して配慮が足りなさすぎる)
レオンハルトもまた、自分の胸の奥で渦巻く「カルラへの狂おしいほどの愛おしさ」に戸惑っていた。 民を守るためだけに生きてきた男が、一人の女性の存在にここまで心を乱されるなど、人生で初めての経験だったからだ。
午前中の可動テスト。 作業場には、以前以上の気まずい沈黙が流れていた。
「……じゃあ、右腕の魔力伝達テストを始める。……肘を九十度に曲げて、指先を握り込みな」
カルラはレオンハルトから三歩ほど距離を取り、長めの測定器を構えた。露骨な距離感である。
「……分かった」
レオンハルトは意識を右腕のソケットに集中させた。 脳から微弱な魔力を流し込み、義手の歯車と同調させる。
――ウィーン……ガタガタッ!
その瞬間、右腕の義肢が不規則な振動を起こし、指先が不自然に引きつった。
「な……!?」
カルラは眉をひそめ、測定器の数値を凝視した。
「ちょっと、何やってんのさ! 魔力波形がぐちゃぐちゃじゃないか! 焦るなって言ったでしょ!」
「……すまない。集中が、乱れた」
レオンハルトは額に汗を浮かべ、右手を固く握り直そうとした。 だが、動かそうとすればするほど、義手の肘関節からギギギと異音が鳴り、魔導回路が不協和音を奏でる。
「……貸しな。ソケットの接続を確認する」
見かねたカルラが溜め息をつき、レオンハルトに歩み寄った。 距離が縮まる。 カルラのひやりとした指先が、レオンハルトの右肩の素肌に触れた。
「――くっ……」
レオンハルトの肩の筋肉が、跳ねるように強く硬直した。
「なっ……何で身構えてんのさ!」
「……いや。お前の手が触れると、どうにも……意識が逸れてしまう」
素直すぎるレオンハルトの告白。 氷の騎士と呼ばれた男が、顔を僅かに朱に染め、苦しげに視線を逸らしている。
「~~~っ!?」
カルラの手がピタリと止まった。 顔面が爆発したように熱くなり、心臓が耳元でうるさく打ち鳴らされる。
(意識が逸れるって何!? 触られただけで緊張してんの!? この男も!?)
「ば、バカじゃないの!? 私は装具士! あんたは患者! 仕事なんだから余計なこと考えてんじゃないよ!」
「分かっている。分かっているのだが……お前との距離が近いと、心が落ち着かないのだ」
「~っ、それを言うなら私も……!」
思わず口走りそうになり、カルラは大慌てで自分の口を両手で塞いだ。
気まずい沈黙。 二人はお互いに真っ赤な顔をしたまま、至近距離で固まっていた。
カルラはハッと正気に戻ると、乱暴に髪をかきむしった。
「……ハァー! ダメだダメだ! 今日の調整は中止!」
「カルラ殿?」
「あんたも私も、頭に余計な血が上りすぎてんだよ! このままじゃ正確な調整なんてできるわけがない!」
カルラは作業台から大型の工具箱をひったくると、レオンハルトに向かってビシッと指を突きつけた。
「いいかい! 午後は『気分転換』だ! 街の外にある魔導触媒の採取場へ行くよ! あんたも荷物持ちでついてきな!」
「採取場……? 外出か」
「そうだよ! 山道を歩いて足腰鍛え直して、冷たい山風でその沸騰した頭を冷やしな! 私の頭も冷やすから!」
カルラはそれだけ叫ぶと、鼻息荒く工房を飛び出していった。
残されたレオンハルトは、ぎこちなく固まったままの右手の義肢を見つめ、低く溜め息をついた。
「……精神の乱れが、ここまで魔導回路に影響を与えるとはな」
しかし、その口元には、不器用な己と愛おしい女性への、苦笑交じりの温かい笑みが浮かんでいた。




