第8話:夜の工房と、不意打ちの温もり
月光が、古い工房の窓格子を青く縁取っていた。
夜の静寂が満ちる刻限。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った一階の作業場で、カチャリ、と小さな金属音が規則的に響いていた。
レオンハルトは、作業台の前に一人腰掛けていた。 脱ぎ捨てた上着の傍らには、一本の油瓶と柔らかい羊皮の布。彼は左手だけで丁寧に、完成度を高めつつある右手の魔導義肢を磨き上げていた。
金属の表面に油を伸ばし、歯車の噛み合わせに一滴の潤滑油を注ぐ。 指先の接合部、肘の可動軸、そして肩のソケット接続部――。
(……寸分の狂いもない。この精緻な構造を維持するために、カルラはどれほどの夜をここで明かしてきたのか)
カルラの手先が見せる魔法のような手際と、妥協を絶対に許さない執念。 昼間、彼女が語った「人間らしい豊かな生活のために作る」という言葉が、レオンハルトの胸の奥で心地よい重みを持って打ち震えていた。
騎士団にいた頃の自分は、命を捨てることを誇りとしていた。 民を守るための盾となり、いつか戦場で泥に塗れて果てることこそが本望だと信じて疑わなかった。だが、カルラに拾われ、この泥臭い工房で彼女の毒舌に揉まれながら過ごす毎日は、失った右腕と左脚の痛み以上に、己の殺伐とした心を優しく解きぐしてくれていた。
「……こんな夜更けに、何の真似だい」
唐突に投げかけられた声に、レオンハルトは振り返った。
階段の陰から現れたのは、ダボついた部屋着に身を包んだカルラだった。 無造作に解かれた琥珀色の髪が肩に零れ落ち、眠気眼を擦りながら不機嫌そうに眉をひそめている。手には、冷やかし半分で持ってきたらしい一抱えもある羊皮紙の束が握られていた。
「カルラ殿。起しに言ったわけではないのだが」
「金属音が響いてんだよ。静かに磨けないなら、さっさと寝な。明日も早朝から可動テストだって言ったろ」
カルラはツカツカと歩み寄ると、作業台の端にドスンと腰掛けた。 そして、レオンハルトが左手だけでぎこちなく油を拭き取っている様子を、苦々しい目で見つめる。
「……ハァ。手際が悪いねぇ。左手一本で油拭きなんかしたら、布の繊維がギアに挟まるだろ。貸しな」
「いや、これは俺の課題だ。自分の手入れくらいは自分で――」
「うるさい! 私の作った機械にホコリが入る方が嫌なんだよ!」
カルラはレオンハルトの手から羊皮の布を引ったくると、彼と向かい合う形で作業台の椅子を引き寄せた。
距離が、劇的に縮まる。
ランプのほのかな灯りが、カルラの整った輪郭と、素肌の白さを浮き彫りにしていた。 昼間のツンツンとしたトゲが影を潜め、少しだけ眠たげな彼女からは、甘い柑橘系のアロマオイルの香りと、彼女自身の体温がふわりと漂ってくる。
「……じっと見つめるんじゃないよ。やりにくいだろ」
カルラは不機嫌そうに呟きつつも、手元は驚くほど繊細だった。 レオンハルトの右腕の義肢を膝に乗せ、布で余分な油を拭い、精密ドライバーで小さなネジの緩みを一つひとつ確認していく。
レオンハルトは、自分の右肩と接続されたその義肢を通して、カルラの指先の微かな振動を感じ取っていた。
「……カルラ」
「何だよ」
「お前は、なぜ一人でこの工房を守っているんだ」
不意の質問に、カルラの手がぴたりと止まった。
カルラは一瞬だけ眉を寄せ、呆れたように息を吐いた。
「なんだい急に。……前にも言ったろ。あたしは自分の技術で稼いで、美味いもん食って、ふかふかのベッドで寝るためだけにここを開いてんだ」
「それだけではないだろう」
レオンハルトの澄んだ青い瞳が、逃げ場を与えないほどの真っ直ぐさでカルラを射抜く。
「お前の腕があれば、宮廷魔導具師として召抱えられることも、貴族のお抱え職人になって贅沢を極めることも容易いはずだ。……だがお前は、王都の端のこんな小さな工房で、市井の道具や、俺のような厄介者の義肢を作っている」
「……」
「お前の作る『生活を豊かにするための道具』には、使う者への深い慈愛が込められている。……お前は、ただ自分が贅沢をしたいだけではないはずだ」
レオンハルトの静かで、核心を突く言葉。
カルラはあわてて視線を泳がせ、手に持っていたドライバーを乱暴に作業台へ置いた。
「っ……な、知ったような口をきかないでおくれ! あんたみたいなカチカチの堅物騎士に、私の美学が分かってたまるか!」
「分かろうとしているのだ」
「~っ!?」
即答だった。
レオンハルトは迷いのない瞳でカルラを見つめ、静かに言葉を重ねる。
「俺はお前のすべてを知りたい。お前が何に怒り、何に喜び、何を想ってその指先を動かしているのか。……お前を知ることが、俺がこの義肢と共に生きる道だと感じている」
言葉の重みが、静寂に包まれた夜の工房に溶けていく。
カルラの顔が、一瞬で耳の先まで朱に染まった。 心臓が暴論のような勢いで脈打ち、胸の奥が焼き尽くされそうなほど熱くなる。
(な、何言って……何言ってんの、このバカ中尉……っ!?)
素直すぎる。無骨すぎる。そして、まっすぐすぎる。 こんな恥ずかしい台詞を、一切の計算もなく、心からの本音として口にできる男がこの世に存在するだろうか。
「あ、あんたは……本当にバカだね! 息を吐くように恥ずかしいこと言っちゃって……!」
カルラは激昂した振りをしながら立ち上がろうとした。
――その時だった。
勢いよく立ち上がったカルラの足が、作業台の脚に引っかかった。
「きゃっ……!?」
「カルラ殿!」
レオンハルトは反射的に身を乗り出した。 左手を伸ばし、倒れ込んできたカルラの細い腰をしっかりと抱き寄せる。
ドサッ。
重厚な音が響き、二人は作業台の横の大きな革製ソファへと倒れ込んだ。
レオンハルトの広い胸の中に、カルラがすっぽりと収まる格好。 レオンハルトの左腕がカルラの背中をしっかりと固定し、カルラの手は無意識にレオンハルトの堅い胸板を押し返そうと置かれていた。
至近距離での密着。
お互いの吐息が交差する距離。 レオンハルトのたくましい体温と、カルラの柔らかい体躯がダイレクトに伝わり合う。
「……っ!」
カルラは息をのんだ。 真上から見下ろしてくるレオンハルトの青い瞳。そこには、普段の冷静な騎士の顔ではなく、一人の男としての強い揺らぎと、眼前の女性を守ろうとする必死な光が宿っていた。
「……怪我は、ないか」
低く、耳元で響くような声。
「……な、……離しなよ、頑固中尉」
カルラの声が、自分でも驚くほど小さく震えていた。 押し返そうとする手に、力が入らない。レオンハルトの胸の鼓動が、自分の掌を通してドクドクと激しく伝わってくる。
(あ……この男も、緊張してる……?)
氷のように冷徹だと思っていた男の、激しい動悸。
レオンハルトは一瞬、カルラの朱に染まった唇と、潤んだ琥珀色の瞳を見つめ――吸い寄せられるように、ほんの僅かに顔を近づけた。
「カルラ……俺は――」
「~~~~っ! 離せって言ってんだろ、この変態!!」
極限まで限界を迎えたカルラは、火がついたように叫ぶと、レオンハルトの胸を両手で力任せに突き飛ばした。
「ぐっ……!?」
勢いよく押し返されたレオンハルトがソファの背もたれに沈み込む間に、カルラは弾かれたように跳ね起き、真っ赤な顔を両手で覆った。
「ば! バカ! アホ! 堅物! 変態! 明日の朝飯は激辛の唐辛子スープにしてやるからね!!」
カルラは怒鳴り散らしながら、階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。
バシィィン!!
物置部屋の扉が、壊れるのではないかというほどの爆音を立てて閉まる。
一人残された夜の工房。
ソファに横たわったままのレオンハルトは、天井を見上げ、深く、長く息を吐き出した。
左手には、まだカルラの細い腰の感触と、柔らかい体温が残っている。
「……俺は、何をしようとしていたのだ……」
右手のない肩を左手で押さえながら、レオンハルトの顔が、生まれて初めて自覚的な熱で真っ赤に染まっていった。
民を守るための信念。騎士としての矜持。 それらとは全く違う、一人の不器用な女性に対する猛烈な愛おしさと執着が、彼の中で確かな形を取り始めていた。




