第7話:小さな生活と、二人の夕食
昨日の雨のような散水劇から一夜明け、工房には気まずい沈黙が流れていた。
朝から工房の掃除と水汲みを完璧にこなしたレオンハルトは、カルラから命じられた通り、過度な負荷をかけない基礎歩行訓練に専念していた。 カシャン、カツン。 一歩一歩、身体の中心に一本の芯を通すような正確な歩み。筋肉を悲鳴をあげさせるのではなく、義肢と対話し、お互いの譲れる境界線を探るような落ち着いた足取りだ。
「……フン、少しは学習したみたいだね」
作業台で真鍮のギアを研磨していたカルラが、チラリと視線を送って呟く。 口元はいつものように尖っていたが、その手元にある羊皮紙には、昨日レオンハルトが痛めた右肩の負荷を逃がすための新しいジョイント構造の設計図が描き込まれていた。
「カルラ殿。水瓶の補給と、裏庭の薪の整理は完了した。次の指示を」 「……今日の訓練はそこまでだ。あんたの筋肉の熱も引いたみたいだし、余計な無理をさせてまた壊されたら敵わないからね」
カルラはヤスリを置くと、無造作に束ねた琥珀色の髪をかきあげた。
「それより、今日は街の買い出しだ。……あんたも来な」 「買い出し、か。左手の荷物持ちだな」 「それもあるけどね。あんたの歩行姿勢を『日常生活の雑踏』の中で観察するためだよ。整った床の上だけで歩けても意味がないんだ。傾斜や石畳の凸凹に対応できなきゃ、実用には耐えないからね」
そう言ってカルラは、いつもより大きめの買い物かごを二つ用意した。
王都の市場は、今日も活気に満ちあふれていた。 石畳の路面は長年の使用で擦り減り、わずかな高低差や歪みがあちこちにある。不完全な義足で歩くには、注意が必要な環境だった。
レオンハルトはカルラの斜め後ろをキープしつつ、接地角度を細かく調整しながら歩く。
「おいおい、そこの不器用そうなあんた! 今日仕入れたばかりの極上豚バラ肉はどうだい? 安くしとくよ!」
精肉店の店主が威勢よく声をかけてくる。 以前のような嘲りの視線やヒソヒソ話は、カルラが市場で啖呵を切って以来、すっかり鳴りを潜めていた。むしろ「あの凄腕で偏屈なカルラが本気で義肢を作っている男」として、市場の人々の間には好奇と一目置くような空気が漂っている。
「叔父さん、その肉、脂身が多すぎるよ。もっと赤身の引き締まった肉にしな。この頑固中尉、リハビリ中でタンパク質が必要なんだからさ」
カルラは手際よく肉を指さし、容赦なく値切っていく。
「あいよ! カルラちゃんには敵わないねぇ。……しかし、その兄さんも板についてきたじゃないか。最初は幽霊みたいに青白いツラしてたが、いい顔になってきた」 「……」
店主に言われ、レオンハルトはわずかに瞬きをした。 カルラは急に顔を忍ばせるようにそっぽを向き、肉の包みをひったくった。
「くだらないこと言ってないでオマケしな! ほら、中尉、荷物持って!」 「ああ」
レオンハルトは完成しつつある右手の義手で、力加減を慎重にコントロールしながら肉の包みを受け取った。紙包みを押し潰すことなく、しっかりと保持する。
「お……上手に持てたな、兄さん!」 「カルラ殿の調整のおかげだ」
淡々と答えるレオンハルトに、カルラは「……フン」と鼻を鳴らしたが、その頬がうっすらと朱に染まっているのをレオンハルトは見逃さなかった。
その日の夕食は、カルラが腕を振るった特製のポトフだった。 大きめに切った根菜と、先ほど仕入れた豚肉がくたくたになるまで煮込まれ、ハーブの香りが工房の食卓を包み込んでいる。
「……食いな。一応言っとくけど、あんたの筋肉の回復を早めるための栄養設計なんだからね。感謝なんて要らないよ」 「いただく」
レオンハルトは左手でスプーンを持ち、ゆっくりとスープを口に運んだ。 滋味あふれる温かい味が、身体の隅々まで染み渡っていく。
「……美味いな」 「当たり前だろ。私の作ったものが美味しくないわけがない」
カルラは不機嫌そうな顔を装いつつも、自分が作った料理を素直に味わうレオンハルトの姿に、どこか満足げだった。
カチャ、と小さな音が響く。
レオンハルトが右手の義手でパンを掴み、一口サイズにちぎって口へ運んだ。 その動きは、驚くほど自然だった。
「……指先の連動性が、昨日より格段に上がっている」
レオンハルトは己の右手をじっと見つめた。
「食事という日常の動作で、ここまで違和感なく機能するとは。……カルラ、お前の技術はやはり恐ろしいな」
「だーかーら! 食事中の動作はね、人間が最も繊細に脳の魔力を指先へ伝達するシチュエーションなんだよ」
カルラはパンを口に放り込みながら、ドヤ顔で語り始めた。
「殺し合いや剣を振るだけの義手なんて、ただの鈍器だ。だが、温かいスープを飲み、柔らかいパンをちぎり、誰かと食事を楽しむ――そうやって『生きるための動作』を完璧にこなせる構造を作ってこそ、本当の義肢なんだよ」
カルラは身乗り出し、琥珀色の瞳を輝かせる。 職人としての圧倒的な情熱と自負。己の美学を語る時の彼女は、いつもの毒舌が嘘のように輝いて見えた。
「あんたがいくら『戦場に戻る』とか意地を張っててもね、私の義肢をつけてる限り、あんたは『人間らしい豊かな生活』から逃げられないんだよ。戦うためだけに生きるなんて、私の作品に対する愚弄だね!」
胸を張り、言い放つカルラ。
レオンハルトはその顔を、ただ静かに見つめていた。
「……お前の言う通りかもしれないな」
「……え?」
カルラは不意を突かれたように目を見開いた。いつもなら「俺には守るべき民が」と堅物らしく反論してくると思っていたのだ。
「俺は……騎士団にいた頃、生きることの本質を見失っていたのかもしれない」
レオンハルトは不器用に右手を握り、開いた。
「国を守る、民を守る……そう叫びながら、己の身を削り、無機質な盾になろうとしていた。だが……美味いものを食い、快適に歩き、誰かと当たり前の日常を分かち合う。……お前が守ろうとしているその『豊かさ』こそが、俺が守るべきだった民の暮らしそのものなのだな」
氷の騎士と呼ばれた男の、深く、柔らかい吐息。
「カルラ。お前と出会えて、良かった」
「~~~っ!?」
直球すぎる言葉の破壊力に、カルラは手にしていたスプーンを落としそうになった。
「な、ななな何言ってんだよこのバカ中尉!!」
顔面をリンゴのように真っ赤にしたカルラは、ガタッと勢いよく立ち上がった。
「ふ、ふざけたこと言ってないでさっさと食いな! 食器洗いもあんたの仕事なんだからね! 私はもう寝る!」
カルラは自分の皿を抱え、逃げるように二階への階段を駆け上がっていった。
バタン! とドアが閉まる音が響く。
残されたレオンハルトは、静かな食卓でポトフの湯気を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……また、怒らせてしまったか。素直に感謝を伝えただけなのだが」
首をかしげながらも、レオンハルトの胸の中には、冷たい戦場では決して味わうことの出来なかった、温かな灯火が宿っていた。




