第3話:夜更けの沈黙と隠された手傷
仮義脚での歩行訓練が始まってから、丸三日が過ぎた。
作業場に響くのは、不格好な木と金属の足音が一つ。それから、どさりと重い物体が倒れ込む鈍い音。
「――がはっ……!」
何度目かも分からない転倒。レオンハルトは床に強く叩きつけられ、荒い息を吐いた。 額から流れる汗が目に入り、強い刺激に歪む。左膝の切断部位は、摩擦と圧迫でとっくに擦り切れ、熱を帯びた激痛がじんじんと脳を揺らしていた。
「ほら、重心が右に寄ってる。倒れる怖さから無意識に右脚へ頼ろうとしてんだよ」
作業台で真鍮のギヤを磨いていたカルラが、振り返りもせずに冷たく言い放つ。
「怖がって腰が引けてるから、義脚の膝関節が噛み合わない。自分の脚を信用できないなら、歩くなんて一生無理だね」
「……言われずとも、分かっている」
レオンハルトはかすれた声で返し、左手一本で床を押し、再び身体を起こす。 引き締まった胴体が悲鳴を上げているのが目に見えて分かる。だが、その青い瞳に宿る暗火は、一度たりとも衰えることがなかった。
「……チッ」
カルラは手元を止め、不機嫌そうに舌を鳴らした。 泣き言のひとつでも言えば、「ほら見ろ、やっぱり騎士様の道楽だったか」と捨て台詞を吐いて追い出せる。そう思っていた。 しかし、レオンハルトはどれほど酷な試練を課しても、黙ってそれを受け入れる。根性論で突っ走る愚か者かと思いきや、カルラが指摘した「筋肉の使い方の癖」や「重心の移動」を、一回ごとに恐ろしい集中力で修正しようとしていた。
(……変に賢くて根性があるのが、一番タチが悪いんだよ)
カルラは作業台の引き出しから、粗雑に小瓶を取り出して床に転がした。小瓶はカランコロンと音を立てて、レオンハルトの膝元で止まる。
「今日はそこまでだ。風呂に入って、その軟膏を傷口に塗りな。血と汗の臭いが工房に充満して迷惑なんだよ」
「……まだ、目標の十周に届いていない」
「うるさいね! 職人がもう終わりだって言ってんだよ。これ以上傷口を痛めつけられたら、明日採寸のやり直しになるだろ! 私の時間を無駄にするな!」
まくし立てるカルラに、レオンハルトは一瞬だけ呆けたように瞬きをし、やがて小さく頭を下げた。
「……分かった。配慮に感謝する」
「感謝なんて求めてない! さっさと消えな!」
カルラはプイッと背を向け、再びヤスリを乱暴に動かし始めた。
夜更け。
工房は静まり返り、外からは遠く王都の夜風の音だけが聞こえていた。
カルラは一階の作業場に残り、一本の小さなランプの明かりを頼りに、羊皮紙へ図面を引いていた。 レオンハルトの右肩から胸筋にかけての筋肉の伸縮データ。そして、左大腿部の残存骨と筋肉の立体構造図。
(左脚の切断部位……断端部の痛みが予想以上に酷いな)
カルラはペンを止め、眉間にシワを寄せた。 昼間のレオンハルトのわずかな表情の歪み。歩幅のズレ。倒れる際のかばい方。それらから察するに、彼は切断部位の神経腫(幻肢痛や痛みを引き起こす神経の結節)による激痛を、気力だけで押し殺している。
(バカが。痛みを隠してリハビリなんてしてたら、そのうちショックで倒れるよ……)
溜め息をつき、カルラは立ち上がった。 厨房へ向かい、保温鍋から温かい薬草茶を一杯の木コップに注ぐ。鎮痛効果のある赤根草と、筋肉の緊張をほぐす月見草をブレンドした特製のものだ。
(……別に、あいつを心配してるわけじゃない。明日、作業の途中で倒れられたら邪魔なだけだ)
自分に言い訳をしながら、カルラは静かに二階への階段を上った。
物置部屋のドアの前に立ち、ノックをしようとした瞬間――。
「……くっ……っ……!」
ドアの向こうから、極限まで押し殺された、酷く苦しげな喘ぎ声が漏れ聞こえてきた。
カルラは眉をひそめ、無言でドアノブを回した。
「おい頑固中尉、薬草茶を持って――」
部屋の中の光景に、カルラは息をのんだ。
薄い布団の上で、上衣を脱ぎ捨てたレオンハルトが、畳んだ左脚の付け根を強く押さえて丸まっていた。 彼の全身は滝のような冷や汗で濡れ、引き締まった胸板が激しく上下している。歯を食いしばりすぎて、唇からは血が滲んでいた。
そして、その右肩――。
右腕の切断部位周辺の皮膚が、赤黒く腫れ上がり、痛々しく熱を放っていた。昼間の過酷な水汲みと、不自然な態勢での転倒の連続により、縫合痕の内部で酷い炎症を起こしているのだ。
「……カル、ラ……殿……」
レオンハルトは濁った青い瞳をカルラに向け、荒い息のまま、必死に体を起こそうとした。
「すまない……醜態を……見せた。……すぐに、静かにする……」
「……バカか、あんたは」
カルラは手に持っていたコップを床に置き、大股でレオンハルトに歩み寄った。 そして、彼の右肩の傷口に容赦なく手を触れた。
「――っ!?」
熱い。焼けた鉄板のように熱を持っている。
「こんな状態で黙ってリハビリしてたのかい!? 炎症が筋肉の奥まで達してるじゃないか! なんで言わなかった!」
「……これくらいの痛み……戦場に比べれば……大したことはない……」
「大したことあるんだよ、この大バカ野郎!!」
カルラの怒声が狭い物置部屋に響き渡った。 レオンハルトは驚いたように目を見張る。
「戦場と一緒にするんじゃないよ! あんたはいま、戦場にいるんじゃない! 私の工房で、私に身体を預けて治療とリハビリをしてる最中なんだ! 自分の身体の状態を正しく報告できない患者なんて、職人からすれば一番タチの悪いゴミ客だ!」
カルラは苛立ちを隠さず、レオンハルトの胸元を強く突いた。
「『民を守る』だの『諦めない』だのカッコいいこと言って、結局やってることは自分の身体を痛めつける自傷行為じゃないか! そんなに早く死にたいなら、今すぐ外のドブ川にでも飛び込みな!」
竹を割ったような、容赦のない毒舌。 だが――その瞳は、怒りと同じくらい深い「職人としての憤り」と、激しい情熱で揺れていた。
レオンハルトは、強く突かれた胸元を押さえ、呆然とカルラを見つめた。 騎士団にいた頃、怪我をしても「これくらい大丈夫です」「まだ戦えます」と言えば、上官も部下もそれを『不屈の精神』として称賛した。弱音を吐かず、傷を隠して立つことこそが、騎士の美徳だと教え込まれてきた。
だが、目の前の女は違う。 弱さを隠すことを、誇りを守ることを、「愚行だ」と全力で叱り飛ばしてくる。
「……すまない」
レオンハルトは、低く掠れた声で呟いた。
「……ただ、俺は……焦っていたのかもしれない。身体を失い、騎士団からも不要とされ……早く『戦える証明』をしなければと……」
不器用な男が、初めて見せた「焦り」と「弱音」。 いつも氷のように固く閉ざされていた彼の心が、わずかに隙間を見せた瞬間だった。
カルラはハッと息を吐くと、乱暴に自分の髪をかきむしった。
「……チッ。ったく、面倒くさい男だね」
カルラは部屋を出ていくと、すぐに冷やした手ぬぐいと、薬草の練り薬、そして包帯を持って戻ってきた。
「横になりな」
「カルラ殿、自分で――」
「黙って寝ろ!!」
カルラはレオンハルトの肩を力任せに押し倒した。 そして、彼の右肩の熱を持った傷口に、冷えた手ぬぐいを当てる。
「あ……」
「冷やす。それから、炎症を抑える薬を塗り直す。……動いたら承知しないよ」
カルラの手つきは、口調とは裏腹に、驚くほど手際よく、繊細だった。 手ぬぐいで汗を拭い、薬を丁寧に塗り拡げていく。その手から伝わってくる指先の温もりが、冷え切っていたレオンハルトの身体にじんわりと染み込んでいく。
「……カルラ殿」
「喋るな。口を動かすスタミナがあるなら、呼吸を整えな」
「……お前は、なぜそこまで真剣になってくれるんだ。俺の価値観も、俺の生き方も、大嫌いだと言っていたのに」
レオンハルトの問いに、カルラは薬を塗る手を一瞬だけ止めた。 そして、不機嫌そうに顔を背けながら、吐き捨てるように言った。
「言ったろ。あたしは自分の生活を豊かにするためにしかモノを作らないって」
「……それが、これとどう関係する」
「大ありだよ」
カルラは手際よく包帯を巻き終えると、レオンハルトの顔を真上から睨みつけた。
「あんたが中途半端な状態で無理して倒れたら、私の『最高傑作』が作れなくなるだろ。あんたから金貨五十枚をむしり取って、美味しいお酒とふかふかのベッドを手に入れるまでは、あんたを死なせも壊させもしない。……それだけの話だ」
どこまでも利己的で、素直じゃない言葉。 だが、その根底にあるのは、目の前の患者を絶対に諦めないという、圧倒的なプロ意識だった。
レオンハルトは、胸の奥が温かいもので満たされていくのを感じた。
「……そうか。ならば、俺はお前の『最高の金づる』にならねばな」
「……は?」
レオンハルトの口元に、かすかな、しかし確かな笑みが浮かんでいた。 いつも無表情だった男が見せた、初めての柔らかい表情。
カルラは一瞬、息を呑み――次の瞬間、顔が爆発したように赤くなった。
「な、何笑ってんだよ気持ち悪い! さっさと寝な、この頑固中尉!!」
カルラは逃げるように立ち上がると、薬草茶のコップを置いたまま、バタバタと猛烈な勢いで部屋を飛び出していった。
バタン! と激しく閉まったドアの音を見送りながら、レオンハルトは自分の胸の上に残る、冷やされた手ぬぐいの心地よい重みを感じていた。
(……不思議な女だ)
口を開けば毒ばかり。だが、その手は誰よりも温かい。 不器用な騎士と、不機嫌な装具士の間に、確かな変化の芽が宿り始めていた。




