第2話:地獄の雑用と仮義肢(プロテーゼ)
「おい頑固中尉、いつまで寝てんだ! 朝の六時だぞ、叩き起こされたくなかったら三秒で起きな!」
ガンガンガン! と、鍋の底を金づちで叩くような容赦ない爆音が、工房の二階にある物置部屋に響き渡った。
板張りの床に敷かれた薄い布布団の上で、レオンハルトは反射的に目を覚ました。 右腕がない。左脚がない。その喪失感を味わう暇すら与えず、ドアが蹴り開けられ、カルラが腕を組んで仁王立ちしていた。無造作に結んだ琥珀色の髪から、相変わらず油と焦げた魔術触媒の匂いが漂っている。
「……おはよう、カルラ殿」 「挨拶はいいからさっさと動け! 朝飯前に裏庭の落ち葉はきと、井戸からの水汲みだ。バケツ二杯分、一滴もこぼさずに厨房まで運びな」
レオンハルトは無言で左手をつき、身体を起こした。 昨晩提示された「住み込みの雑用」。それは口先だけの脅しではなかった。
「……右腕がなく、左脚が松葉杖の男に、水汲みをやらせるのか」 「当たり前だろ! うちはタダ飯を食わせる福祉施設じゃないんだよ。働かざる者食うべからずだ。嫌なら今すぐ荷物まとめて騎士団の恩給で余生を送りな」
そう吐き捨てると、カルラはツカツカと階段を降りていった。
レオンハルトは短く息を吐くと、左手で松葉杖を掴み、慎重に立ち上がった。 右腕がないため、体の重心は極端に左へ偏る。左脚もないため、右足一本と左脇の松葉杖だけで全身のバランスを取らなければならない。一歩進むだけで、背中と体幹の筋肉が悲鳴を上げた。
(……だが、引き下がるわけにはいかない)
裏庭へ出ると、冷ややかな朝の空気が頬を刺した。 レオンハルトは左手だけで竹箒を操り、不器用に庭を清めていく。重心がぶれるたびに倒れそうになり、何度も膝をついた。膝をつけば、切断部位の皮膚が地面に擦れ、焼きごてを当てられたような激痛が走る。
それでも、彼は一度も不平を漏らさなかった。 汗だくになりながら庭を掃き終えると、次は井戸からバケツに水を汲み上げる。 左手一本でロープを引き上げ、バケツを抱え、松葉杖をつきながら一歩、また一歩と厨房へ運ぶ。 体のバランスが取れず、バケツの水がバシャリと脚の付け根にかかる。寒さと痛みが全身を痛めつける。
厨房の窓から、カルラはその様子を冷たい目で見つめていた。
(ちっ、なんなんだあいつの打たれ強さは……)
カルラは苛立ちまぎれに、煮立ち始めたスープの鍋をかき混ぜた。 普通なら一時間で音を上げるはずだった。元騎士団の中尉というプライドがあれば、雑用を命じられた時点で激怒して出ていくか、痛みに耐かねて泣き言を言うはずだったのだ。 だがレオンハルトは、屈辱も痛みもすべて飲み込み、ただ黙々と命令を遂行している。
「……運んだぞ、カルラ殿」
約二時間後。ずぶ濡れになり、全身をガタガタと震わせながら、レオンハルトが厨房に現れた。 バケツ二杯の水は、一滴の無駄もなく水瓶に注ぎ込まれていた。
カルラは眉をひそめ、作業台の上にドンと皿を置いた。 固いパンと、肉と野菜がごろごろ入った温かいスープだ。
「……さっさと食いな。冷める」 「感謝する」
レオンハルトは左手でスプーンを持ち、不器用にスープを口に運んだ。 その瞬間、彼の表情がわずかに動いた。 見た目は無骨なスープだったが、塩加減は絶妙で、身体の芯から温まるような深い旨味があった。さらに、スープに入っている薬草の香りは――血行を促進し、鎮痛効果のある「赤根草」の風味だった。
(これは……ただの食事ではない)
「なに見つめてんだよ。味が薄いなら塩でも足しな」 「……いや。実に美味い。感謝する」 「ふん、世辞はいらないよ」
カルラは素っ気なく返すと、自分が食べ終えた皿を片付け始めた。
食事を終えると、カルラはレオンハルトを1階の広大な作業場へ連れて行った。 そこには、木と真鍮、そして謎の魔導回路が刻まれた金属パーツで組み上げられた、無骨な「構造物」が置かれていた。
「よし、服を脱ぎな」 「……ん?」 「上着を脱げと言ってんだよ。切断部位の採寸と、筋肉の動きを測定する。それから――その仮義脚を試す」
カルラが指さしたのは、左脚用の仮義脚だった。本番用の魔導銀製ではなく、調整用の木と革で作られた練習道具だ。
レオンハルトが上着を脱ぐと、カルラは迷いのない手つきで彼の右肩と左大腿部の傷跡に触れた。 ひやりとしたカルラの指先が肌に触れた瞬間、レオンハルトの体が僅かに強張る。
「動くな。筋肉の収縮と、残存している神経の魔力伝達経路を見てるんだ」
カルラの手つきは、粗暴な口調とは裏腹に、驚くほど繊細で正確だった。 傷口の盛り上がり、皮膚の引きつり、骨の削られ方――彼女の指先は、まるで医者のようにレオンハルトの身体の「声」を正確に読み取っていく。
「……あんた、無理なリハビリをしてただろ」 「何?」 「右肩の僧帽筋と、左腰の腸腰筋が異常に炎症を起こしてる。右腕と左脚がないぶん、残った左腕と右脚だけで全身を引っ張り上げようとして、筋肉のバランスが完全に破綻してんだよ。このまま変な癖がついたら、どんなにいい魔導義肢を作ったってまともに歩けやしない」
カルラは眉をひそめ、レオンハルトの左腿の付け根を強く圧迫した。
「ぐっ……!」
レオンハルトの口から、初めて漏れた呻き声。
「痛いだろ。神経が悲鳴をあげてんだ。……いいかい頑固中尉、義肢ってのはな、ただ『切れた場所にパーツをくっつければ動く』なんて単純なもんじゃないんだよ」
カルラは冷ややかな、しかし絶対的な自負に満ちた目でレオンハルトを見つめた。
「人間の身体は精密機械だ。脳から出る魔力信号と、残った筋肉の連動、そして義肢側の魔導回路が寸分の狂いもなく同調して初めて、自分の手脚として機能する。あんたがやってたのは、壊れた機械を力任せに叩いて動かそうとしてたようなもんだ。……素人が身程知らずな真似をするんじゃないよ」
「……」
解剖学と人間工学、そして魔導工学に基づいた圧倒的な専門知識。 単なる「口の悪い職人」だと思っていた目の前の女性が、どれほど深く身体の構造を理解しているか、レオンハルトは痛感せざるを得なかった。
「……すまない。俺が無知だった」 「謝る暇があったら、これを受け取りな」
カルラは木製の仮義脚をレオンハルトの左腿に装着した。 革ベルトが締め上げられ、切断部位に圧力がかかる。
「いいか、まずはその仮脚で、この作業場を十周歩く。……痛むのは当たり前だ。だが、自分の重心が今どこにあるか、残った右足と義脚の重さをどう分散させるか、頭と体で覚え直しな」
「……分かった」
レオンハルトは松葉杖を捨て、仮義脚に体重をかけた。
ガシャン!
一歩踏み出した瞬間、膝関節に相当するロック機構が外れ、レオンハルトの体は盛大に床へと倒れ込んだ。 顔面から床に激突し、鈍い音が響く。
「……ほら見ろ。一歩も歩けやしない」
カルラは腕を組み、冷ややかに見下ろす。
「立ち上がりな。倒れるたびに重心のズレを計算し直しな。手助けは一切しないよ」
激痛が全身を走る。傷口がすれて、血が滲む感覚があった。 しかしレオンハルトの瞳から、光は消えなかった。 彼は左手一本で床を押し、荒い息を吐きながら、再び泥臭く立ち上がった。
一歩。また一歩。 倒れては起き上がり、倒れては起き上がる。 額から血と汗を流しながら、男はただひたすらに歩もうとする。
(……チッ、本当に可愛げのない男だね)
カルラは吐き気をもよおすほどの苛立ちと――それ以上の「何か」を胸の奥で感じていた。
どれほど突き放しても、どれほど酷な条件を出しても、この男は折れない。 自分の作った「道具」を、本気で自分の身の一部にしようと血を吐くような努力をしている。
カルラは無言で作業台に向かうと、真鍮のパーツをヤスリで削り始めた。 先ほどレオンハルトが倒れた角度、体重のかかり方、皮膚の擦れ具合。それらすべてを視界の端で観察し、仮義脚のジョイント部分の角度をコンマ数ミリ単位で微調整するためのパーツを作り始める。
「……おい、頑固中尉」
「……なんだ、カルラ殿」
三十回目の転倒から起き上がりながら、レオンハルトが掠れた声で答える。
「昼飯までに五周歩けなかったら、午後のバケツ運ぶ量を倍にするからね!」
「……望むところだ」
男の口元が、汗に塗れながらも、ほんの僅かに上がったのをカルラは見逃さなかった。
「……チッ、大嫌いなんだよ、そういう顔する奴は」
カルラは不機嫌そうに悪態をつきながら、ヤスリを動かす手をさらに早めた。 二人の最悪で過酷なリハビリ生活は、まだ始まったばかりだった。




