第九十二杯「卵焼きの角に頭をぶつけて人生をやり直せばいいのに」
「お疲れ様でーす! あれあれあれれ? 莉子先輩、今日もお休みですか?」
「今日までお休みだよ。明日から学校に来るってさ」
10月に入って、ようやく夏が終わった。
急に寒くなってもう冬が近づいてきている。
変わりゆく季節の早さに心が置き去りにされてしまいそうだ。
月曜の昼休み、茶道部の部室は風炉のやかんが立てるお湯が空気を温めていた。
「しょーがないですねー。先輩の粗茶でガマンしましょう。先輩、粗茶」
「輝木さん、『粗茶』は自分からへりくだって使う表現だからね? その使い方失礼だから」
輝木さんに向けて薄茶を点てる。
瀬川さんに味見をしてもらえるようになって、少しだけコツがつかめてきた。
茶筅の動かし方を変える事で、泡が上手く立つようになる。まだまだ瀬川さんには及ばないけれど。
「どうぞ」
「ちょーだいいたします」
輝木さんがお茶菓子代わりのカ○リーメイトチョコ味(学校の備蓄品)を囓った後、僕が点てた薄茶を飲む。
それから、しんみりとした様子で茶碗を見ながらつぶやいた。
「急に、だったんですよね。莉子先輩のおばあさん」
「うん……」
あの茶会の翌朝。
突然入ってきた連絡に驚かされる事になった。
病院に戻るために起こしに行った所、布団の上で安らかに旅立っていたおばあさんを見つけたらしい。
「莉子先輩、だいじょーぶなんですかねー?」
「大丈夫だよ、きっと」
あの日亭主として茶会をやり遂げた瀬川さんを思い出す。
スランプを乗り越え、過去を乗り越えた彼女なら、きっと大丈夫だろう。
しかし輝木さんは、僕にやれやれという目を向けた後隣に話しかけた。
「板野先ぱーい、どう思います? この男」
「卵焼きの角に頭ぶつけて人生やり直したらいいと思う」
輝木さんの問いかけに、いつの間にか来ていた板野さんが答える。いたのかよ。
その板野さんが部室の中を見回す。
「綾瀬先輩は? 生徒会長の引き継ぎですか?」
「うん。今月の文化祭までが任期っていうか仕事だから」
生徒会長選挙が終わり次の生徒会長が決まったものの、いきなり文化祭を任せるのは無理があるためそれが終わるまでが我が校の生徒会長の仕事だ。
それが終われば晴れてお役御免となる。
「かいちょー先輩の事なんてどーでもいいですよー。今は莉子先輩の事ですー!」
輝木さんが不機嫌な顔で畳をバンバン叩く。
そして僕に、何かの紙を押しつけてくる。
「ナニコレ?」
「結衣菜のパパがもらった映画のペアチケットですー」
紙を見ると、ちょっと前に公開されていた海外の映画のペアチケットだった。
「取引先の人にもらったそうですー。結衣菜に『お友達と見てきなさい』って言われたんですけどー。結衣菜友達多いですしー。ぶっちゃけ洋画はあんまり興味ないしで持て余してたんですー。だから先輩にあげるんで莉子先輩と行ってきてくださーい」
「え? 僕と瀬川さんで?」
「はい。莉子先輩を誘って、観に行ってください」
「……」
瀬川さんを、映画に、誘う……?
「いや、それはちょっと……、無理というか……。瀬川さんに迷惑なんじゃないかというか……。か、輝木さんが瀬川さんを誘って映画観に行ってきなよ」
輝木さんにチケットを返そうとする。
しかし受け取ってもらえない。
輝木さんはハアとため息を吐いて板野さんに問いかけた。
「板野先輩、どう思います? このヘタレ」
「タンスに小指をぶつけて悶え苦しめばいいのにと思う」
お弁当を食べていた板野さんが、お箸を置いてつかつか歩み寄ってくる。
そして僕に向けてこう言った。
「誘いなさい」
「はい」
珍しく強気な板野さんに頷くしかない。
かくして僕は、瀬川さんを映画に誘う事になった。
****************************
「映画、ですか?」
「うん。どうかな?」
火曜日の放課後。
板野さんは帰り、輝木さんは文芸部に顔を出し、寧音姉は生徒会長の仕事の引き継ぎをしている。
だから部室には僕と彼女の二人きり。
今更ながらに緊張してくる。
考えてみれば、あのキスから彼女とこうして顔を向かい合わせるのも久しぶりだ。
でもあの時どういうつもりでキスしたのかなんて聞けないし……
「いいですね! この映画気になっていたんです! 是非一緒に観に行きましょう!」
そんな事を考えていたら、瀬川さんがニコッと笑う。
子供の頃から海外の映画が好きと言っていたし、興味のある映画だったのだろう。ホッと胸をなで下ろす。
「じゃあ土曜か日曜に一緒に観に行こうよ。待ち合わせはショッピングモールで……」
「それなんですが、明日はいかがでしょうか?」
「明日?」
「はい。明日の部活はお休みにして、ええと……3時半の上映回に行くのはいかがでしょうか? 大鳥君さえ、よろしければなのですが」
「僕はいいけど……」
ショッピングモールまでは自転車で20分、バスでも30分以内に着くだろう。
3時半の上映回には余裕を持って間に合うはずだ。
それにしても明日部活を休みにしてまで観に行きたいなんて、よっぽど観たい映画だったのだろうか?
「では待ち合わせはショッピングモール前にして、明日は映画を観に行きましょう」
「うん、そうだね」
その後お茶を点て、お茶菓子を頂き部活は終了になった。
茶道具を片付け、茶碗を洗い、2人で部室を出る。
グラウンドからは新チームになった運動部の活気のある声が聞こえてくる。
旧校舎の廊下に、瀬川さんが部室に鍵をかける音が響く。
まだ明るい日差しが、窓から見える空を明るく照らしていた。




