第八十九杯「お茶にしようよ」
瀬川さんが亭主を務める茶会の日程が決まった。
それから彼女は毎日お茶を点てる練習をしている。
「薄茶一服、お点てします」
僕の前で、瀬川さんがお茶を点て始める。
僕は可能な限り彼女の練習に付き合っていた。
「……」
瀬川さんが、真剣な表情でお茶を点てている。
――――――力が入りすぎている。
身体のあちこちにいらない力が入っていて、動きが硬い。
そうして点てられたお茶は、どんどん出来の悪い物になっていた。
「どうして……、どうしてですか……。これが最後の、おばあさまにお茶を点てられる機会なのに……」
納得のいかない出来のお茶を前に、瀬川さんが震える。
「瀬川さん、今日はこれで終わりにしよう」
「ですが……」
「まだ日にちはあるよ。焦らず行こう」
「……そう、ですね」
理解はしているけれど納得いかない様子で瀬川さんが頷く。
今は月曜日の昼休み。
彼女が亭主を務める茶会まで、あと6日に迫っていた。
………
……
…
タブレット端末にある単語を打ち込む。
中学時代によく調べていた言葉だ。
解決法を探して何度も何度も、もがいていた日々が頭に蘇る。
「あら? 何か調べてるの?」
ウチに来ていた寧音姉がコーヒー片手に横に座りタブレットを覗き込んでくる。
「いや、ちょっとね」
コーヒーの香りとシャンプーの香りがふわっと鼻腔をくすぐる。
前はいい匂いだと思っていた匂いも、今はそれほどでもないと感じてしまう。
タブレットを操作し、今まで見た事なかったページを調べる。
しかしそこには、3年前とあまり進歩ない情報しか載っていなかった。
「……数週間から数ヶ月間動作をやめるか、無心でできる事をするか」
お茶会は5日後。
数週間から数ヶ月お茶を点てるのをやめさせる余裕はない。
無心でできる事をすると言っても、茶道で無心でできる事なんてあるか分からない。
「何? 野球に復帰する気にでもなったの?」
「違うよ。瀬川さんの不調を解決するために調べてたんだ」
ブラウザを閉じ、タブレットの画面を真っ黒にする。
解決の糸口はつかめないままだった。
「瀬川さんの……、おばあさんを招いてのお茶会の事かしら」
板野さんと話をした後、瀬川さんは皆に自分の事情の話をした。
自分の家の事やおばあさんの話も、全部。
彼女の中で、話をする事の大切さに気づき変化が起きているのかもしれない。
「お茶を上手く点てられなくなったのは精神的な問題でしょうね。まあ無理もないのでしょうけど」
「そうなんだよね……。これが最後のおばあさんに点てられるお茶だなんて、力が入るに決まってるよ」
「まあ彼女が乗り越えるのを信じて待つしかないんじゃない?」
寧音姉の言う通り、彼女が乗り越えるのを信じて待つしかないのかもしれない。
でも……
「何かしてあげたいって感じね」
「……」
「でも自分の時に乗り越えられなかった事を、彼女に乗り越えさせるのは無理があるんじゃない?」
寧音姉の言う通り、中学時代の僕はアレを乗り越えられなかった。
けれども、それでも何とかしてあげたいと思ってしまうのだ。
それに……
「自分は無理だったけど、客観的に見れば解決の糸口が見つかるって事もあるかもしれないだろ」
板野さんの件でそうだったように、外から見ている人間の方が状況を客観的に見る事ができて解決できるって事もあるかもしれない。
「解決、ねえ……。随分彼女に入れ込んでいるのね」
寧音姉が不満げに脇腹を突っついてくる。
「彼女が、あの子と瓜二つだから?」
「違うよ」
寧音姉の手をやんわりと払い、はっきり言う。
今なら、はっきりと言える。
「瀬川さんが瀬川さんだから、力を貸してあげたいんだ」
「……」
寧音姉が、コーヒーを飲み干し立ち上がる。
「……ハア、傍から見ると分かりやすいのに本人達は気づいてない事ってあるのよね」
「? 何の話?」
「何でもないわ、もう……」
フウと色っぽいため息を吐き、寧音姉が僕から離れる。
しかしその足が止まりこちらを振り返った。
「ねえ、瀬川さんのおばあさんってどんな人だった?」
「どんな人って……厳しそうな人だったけど」
「それって瀬川さんから聞いた話が影響して、そう思ってしまってるんじゃないかしら?」
「どういう意味?」
「自分で考えなさい。じゃあね」
それだけ言って、寧音姉が去って行く。
コーヒーの残り香は、部屋の中に苦く漂っていた。
****************************
「薄茶一服、お点てします」
瀬川さんがお茶を点て始める。
火曜日の放課後、茶道部の部室は僕と彼女しかいない。
畳の上に、空気に、緊張感が漂っている。
そして――――――
「あっ」
瀬川さんがお茶を点てていた茶碗から、お茶がこぼれる。
こんな事、初めてだ。
「大丈夫瀬川さん? 火傷してない?」
「……大丈夫です。それより、早く拭かないと」
畳の上にこぼれたお茶を、濡らした雑巾で拭き取る。
拭いた部分の畳の、色が変わる。
彼女の心に染みついた焦りを、表すように。
「フウ、拭き終わったよ」
「ありがとうございます。染みにならないとよいのですが……」
「まあ、古い畳だから大丈夫だよ」
変色し表面も毛羽立っている畳はかなりの年季物だ。
い草の香りもしないし、ボロボロだから染みになっても大して変わらないだろう。
「……休憩にしましょうか」
かれこれ1時間近く薄茶点前の稽古をした瀬川さんが、せんべいを取り出しながらそう言う。
学校に備蓄されている非常食の、賞味期限が近い物だ。
僕らはそれをお茶請けにして、休憩し始めた。
固いせんべいをボリボリ囓る音が室内に響く。
瀬川さんはうつむいたまま、畳を見つめていた。
「瀬川さん、『こ○すば』は読んだ?」
「え? ああ、はい……。少し分からない所もあるけど、楽しんでいます」
「……」
「……」
会話終了。
わずか1ターンで終わってしまう辺りに僕と彼女のぼっち度が現れている。情けない。
こういう時に、気の利いた会話でもできればいんだけど……
「……今日は、もうおしまいにしましょうか」
「うん……」
そして今日も、現状を打開できないまま部活終了した。
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「ゴメン、待ったー?」
「いえー、今来た所ですー」
まるでデートの待ち合わせのようなやり取りだが、その場所は学校の図書室の前だ。
金髪ショートボブの輝木さんと、数名の生徒達が本を持って待っている。
鍵を開けて、カウンターに座り輝木さんと2人で本の返却を受け付ける。
すぐに仕事がなくなった。
「ヒマですねー」
「ヒマだね」
木曜日の放課後、図書室は一番利用者が少ない。
まばらにしかいない室内を見回し、輝木さんはタブレットで原稿を書き始め、僕は茶道の本を読んでいた。
「莉子先輩、今頃1人でお稽古してるんでしょうねー」
「……だろうね」
昨日の放課後も、今日のお昼休みも上手くお茶を点てられなかった彼女の姿を思い出す。
根を詰めすぎてないといいけど……
「先輩、ちょーっとだけいいですか?」
「何?」
「莉子先輩は、どうして先輩をお茶会に同席させるんだと思います?」
「え? それは……、それは……、何でだろう???」
言われて考えてみるも、サッパリ分からない。
僕は茶道を初めて半年にもならない初心者だし、何で同席させるのかまったく分からない。
『私を助けて下さい』って言われたけど、作法の指導もできないし、お茶会中に何かできるって訳でもないし……
「ハア~っ……これだから鈍感ラノベ主人公系男子は」
「? 何か言った?」
「何でもないですー」
何やら不機嫌な様子で、輝木さんがタブレットをカツカツしだす。どうしたんだ?
僕は空気を変えるために、話題を変える事にした。
「輝木さんは、小学生の頃って何か習い事してた?」
「結衣菜ですか? 少年団のサッカークラブに入ってましたー。先輩は?」
「僕も野球クラブに入ってたよ。後は寧音姉が通ってたスイミングクラブにもちょっとだけ通ってたかな」
あまり泳ぐのが得意じゃなかった事もあり、寧音姉に手取り足取り教えてもらったっけ。
それをからかわれて恥ずかしくなっちゃって、『もう行かない』って言っちゃったんだよな……
「習い事ってさ、自分がやりたい事より、親とかがやらせたい事をやらされる子が多かったって思うんだけど、輝木さんはどうだった?」
「結衣菜は弟がサッカーしたいって言い出したからそれに付き合って入りましたー。まあ実際やったら楽しくて続ける事にしたんですが。莉子先輩は、どうだったんですかねー?」
「1歳から始めてたって言ってたから、自分の意思はなかっただろうね……」
1歳の時の事なんて覚えてないし、自分の意思で始めたんじゃないだろう。
「うーん……、それはどうですかねー?」
しかし輝木さんが、疑問を呈してきた。
「どういう意味?」
「結衣菜の従姉に1歳の子がいるんですが、1歳でも結構やりたい事はやりたいって主張しますし、イヤな事はイヤって言いますよ?」
「そうなんだ?」
「はい。結衣菜と結衣菜の弟がこの前遊びに行った時、おもちゃのボールでサッカーしようって誘われましたー」
「そうなんだ……」
どうやらまた思い込みに囚われていたらしい。
1歳の頃の瀬川さんも、自分から茶道を始めたいと始めた可能性がある。
そうなると……
「ねえ輝木さん」
「何ですか?」
「輝木さんが小学校の頃通ってたサッカーのコーチって、厳しかった?」
「うーん、厳しいって言う子もいましたし、やさしいって言う子もいましたよ。結衣菜的にはどこもこんなもんだろ位に思ってましたー」
小学生にしては達観した意見だけど、頷ける話だ。
僕が所属していた野球クラブのコーチも、消極的な失敗には厳しかったけど、積極的な失敗は褒めてくれた。
結局厳しいか厳しくないかって、人の受け取り方次第みたいな所があるのだろう。
寧音姉の言葉を思い出す。
彼女の話では厳しい鬼ババアくらいにしか映っていなかった瀬川さんのおばあさんも……
「ゴメン輝木さん、後を任せてもいいかな?」
「え?」
「今から茶道部の部室に行きたいんだ。図書委員の仕事、任せてもいいかな?」
「……」
輝木さんが、まん丸な目で僕を見つめてくる。
それからハアっと息を吐いてこう言った。
「別にヒマですからいいですよー。さっさと行ってきてくださーい」
「ゴメン、あとよろしく!」
「今度なんか奢ってくださいねー」
輝木さんに礼を言い、荷物を手に図書室を飛び出す。
下校時刻まで後30分。
渡り廊下を渡り、旧校舎に入り階段を駆け上がる。
その先に、彼女がいる事を信じて。
「ハアっ、ハアっ……」
息を切らしながら3階の階段隅へとたどり着く。
部室の中は明るく、電気がついていた。
「失礼します」
「え? 大鳥君?」
深呼吸で息を軽く整えてから、扉を開けると前屈みになってお茶を点てていた瀬川さんと目が合った。
そのお茶の出来がどうなのかは見えないけど、彼女の目はうるんでいた。
「ど、どうかされたんですか? 部室にお忘れ物でも……」
「……瀬川さん」
上履きを脱いで、揃えて置いて畳に上がり、奥から茶碗と、盆略点前の道具を取ってくる。
そして、風炉の前に正座した。
「大鳥君? 何を……」
「薄茶一服、お点てします」
瀬川さんに向けて真の礼をしてから、盆略点前を始める。
突然お茶を点て始めた僕を、彼女は驚いているというか戸惑っている様子で見ているのを感じる。
僕はそんな彼女に向けて、お茶を点て続けた。
夏休みの、あの別荘の茶室で。
『誰かに向けてお茶を点てているつもりで盆略点前を行って下さい』とおばあさんに言われた時、僕の思い浮かべた相手は瀬川さんだった。
瀬川さんに、お茶を点ててあげたい。そう自然に思った。
きっと茶道が始まったのは、
茶道を始めた人は、誰かのためにおいしいお茶でおもてなししてあげたくて始めたんだと思う。
そのために作法が生まれ、茶道具が生まれ、今日まで受け継がれてきたのだろう。
流派や作法が違っても、根っこにある部分は同じなんだと思う。
大切な誰かをもてなしたい。
おいしいお茶を飲ませてあげたい。
そういう気持ちが、茶道という文化にあるんだろうと思う。
いつも茶道に真剣で、
美しくて可愛くて、ちょっとだけ抜けている所があって。
頑張り屋さんで、自分1人で背負い込んで無理しちゃう所があって。
見ていて応援したくなる女の子。
そんな彼女に、お茶を点ててあげたい。
あの夏合宿の茶室で、僕はそう思った。
――――――思えばあの時に、瀬川さんの事を好きだと自覚したのかもしれない。
最初は彼女と瓜二つだったから意識していた。
でも段々それが違う物になっていた。
僕は瀬川さんの事を、椎名さんと関係なく好きになっていたんだ。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
「……」
瀬川さんが、僕が点てた薄茶を見つめる。
今まで彼女が、茶道部の部員の点てたお茶を飲んだ事はない。
いつも自分で自分の飲むお茶を点てている。
これは賭けだ。
もし彼女が僕のお茶を飲まなかったら、その時は――――――
そんな事を考える僕の前で。
瀬川さんが、薄茶の茶碗を手に取った。
正面を避けるために回し、1口、2口、3口と半口で最後は音を立てて啜る。
その姿は、とても美しかった。
瀬川さんが、茶碗を畳の上に置く。
そして、絞り出すように口を開いた。
「…………苦いです」
「……」
「……泡の立て方が全然ダメです。もっと細かい泡を立てて、口当たりのよいものにしないと」
「……ゴメン」
「……でも、とても……、とてもおいしいです」
畳の上を、ポタ、ポタッと雫が垂れる音がする。
うつむいているお団子頭が、小さく揺れている。
スカートのポケットからハンカチを取り出し、彼女が目元を拭う。
それから顔を上げ、泣き笑いの笑みを作った。
「……私の事を思って点ててくれたのが、伝わってきました。大鳥君、ありがとうございます」
「こっちこそ、ありがとう」
「? ええと……どういう意味ですか?」
「それは……ナイショにさせてよ」
瀬川さんに向けて苦笑いを浮かべる。
言える訳がない。
僕と出会ってくれてありがとうなんて。
二度目の恋を、させてくれてありがとうなんて。
いつか時が来たら伝えるかもしれないけれど、それを言うのは今じゃない。
「むう。大鳥君、ケチですね」
「そうだね。僕はケチなんだよ」
「そんな事言われたら、答えて下さるまで聞きたくなってしまいます」
「そうだね。でも今はまだ答えられないよ」
「いつか……その意味を教えて下さいますか?」
「さあ、どうだろうね? 教えるかも知れないし、教えないかも」
「もう! そんな事言われたら余計に気になってしまうではないですか!」
瀬川さんが怒った様子でプクっと頬を膨らませる。
そのままじっと見つめ合う。にらめっこみたいだ。
僕は瀬川さんに向けて、とっておきの変顔をした。
瀬川さんが、頬を膨らませたままプルプル震え出す。
「……プっ! アハハハハハっ!!?」
そして、盛大に吹き出した後お腹を抱えて笑い出した。
僕も彼女に釣られて、大笑いした。
「アハ、アハハハハハ……っ! ……も、もう! 大鳥君!!!」
「ゴメンゴメン。なんかつい……」
「なんかついではありませんっ! フウーっ! …………でも、おかげですっきりしました」
瀬川さんが、苦しそうに息を整えた後、目尻に浮かんだ涙を手で拭った。
「ねえ、瀬川さん」
僕は彼女の目をまっすぐ見つめたまま、彼女に問いかける。
「おばあさんとの思い出は、イヤな思い出だけだった?」
「……」
「楽しい思い出や、うれしい思い出はなかったのかな。こんな風に、おばあさんに喜んでもらいたくてお茶を点ててあげた事もあったんじゃないかな?」
「……」
「辛い思い出や、厳しいお稽古もあっただろうけど、きっとそういう思い出があったから瀬川さんは茶道を頑張ってこれたんじゃないかな」
「……」
物事には必ず、原点がある。
親に言われて渋々始めた野球だったけど、初めて褒められた楽しさや、バットにボールが当たった楽しさ、仲間と一丸となって勝てた試合など楽しい思い出があった。
だからあんな事になってからも、中学最後まで続けられたんだと思う。
「きっと瀬川さんのスランプってさ、『ちゃんと作法通りしなきゃいけない』『上手にお茶を点てないといけない』っていう力みが原因なんだと思う。だから一旦それを忘れてさ。純粋な気持ちでお茶を点ててみたらどうかな?」
「……」
「僕を子供の頃のおばあさんだと思って、お茶を点ててみてよ。上手に点てようなんて考えずに、おばあさんを喜ばせるためにお茶を点ててみて……」
「……いえ」
僕の言葉を遮り、瀬川さんが真の礼をする。
その礼は、彼女ならではの美しい仕草だった。
「今は、大鳥君のためにお茶をお点てします。私に大切な事を思い出させてくれた……あなたのために」
瀬川さんがお茶を点て始める。
ごく自然に、力みのない動作で。
身体に染みついている、美しい作法で。
そうして点てられた薄茶は、今まで見た中で一番美しい薄茶だった。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
「……頂きます」
茶碗を回し、正面を避けて一口目を頂く。
一口目から違いが分かる。
細やかな泡の口当たり。
ふわっと来る抹茶の香りと甘味。
温度もちょうどよくスッと喉を通っていった。
「……おいしいよ。瀬川さん。今まで飲んだ薄茶の中で、一番」
「ありがとう、ございます……」
真の礼を交わし合い、僕らの目と目が合う。
「……」
「……」
言葉はいらない。
そう思えた。
彼女は僕の思いを理解してくれたし、
僕も彼女が僕の思いを理解してれた事が分かった。
頂いたお茶が、それを証明してくれていた。
瀬川さんが、改めてという感じで真の礼をする。
「大鳥君、ありがとうございました。私に、忘れていた大切な事を気づかせてくれて」
「……これで大丈夫、そうかな?」
「はい。大丈夫です」
いつものニコッとした笑みを浮かべて、彼女が答える。
空元気でも強がりでもなく、何かを乗り越えた人の明るい笑顔だ。
これでもう彼女は、大丈夫だろう。
フウ、っとひとつ息を吐く。
初恋が終わり、二度目の恋が始まった。
その相手は、初恋の女の子に瓜二つな女の子。
正直言って釣り合っていない相手だ。
瀬川さんは魅力的な相手だけど、僕に魅力なんてひとつも無い。
茶道の事だって彼女とじゃ天と地、月とすっぽんくらい差がある。
でもそれでも好きになってしまうのだから仕方ない。
瀬川莉子という女の子を、僕は好きになったのだから。
この恋は、きっと叶わないのだろう。
けどまあ、こうして一緒に部活ができるだけで十分……
「……」
そんな事を考える僕の前に、瀬川さんが正座したまま両拳を畳につきながらにじり寄ってきた。
その距離はもう30cmもない。まさに目と鼻の先だ。
彼女の整った顔立ちが前に来て、心臓が跳ねる。
「せ、瀬川さん? な、何かな?」
「……」
僕の問いかけに答えず、瀬川さんの両手が僕の両頬を包む。
そして――――――
「えっ……?」
僕の顔を手で包み込んだまま、瀬川さんの顔がゆっくり近づいてくる。
整った眉、
とじられた瞳、
赤く染まった頬、
鼻腔をくすぐる抹茶の匂い。
そして、薄桃色の唇が僕の唇と重なった。
――――――熱い。
彼女の体温が、唇を通して伝わってくる。
時間にしたら数秒、でもきっと永遠にも思える瞬間が終わり彼女の顔が離れる。
「大鳥君、私頑張ります」
「う、うん……」
「ですので日曜日は、見守っていてください」
「う、うん……」
「……では、日曜日に私の家で」
瀬川さんが荷物を手に取り、少し急ぎ足で部室を去って行く。
僕はそれを呆然と、見送る事しかできなかった。
「……今のって、キス、だよな?」
自分の身に起こった事が信じられなくて、唇に触れる。
まだ彼女のぬくもりが残ってるみたいだ。
一体なんだったのだろうか。
夢かうつつか分からない。
お茶を上手く点てられたお礼? でもただのお礼でキスなんてするか?
頭の中は混乱し、グルグルグルグル答えの出ない考えが渦巻く。
僕は――――――部室に残った茶碗と茶道具を片付け始めた。
次話の更新は、日曜日です。




