第八十五杯「彼女が転校した理由」
「大鳥くーん、お待たせしましたー」
夏服のセーラー服の裾を翻し、日傘を差した瀬川さんがこちらに駆けてくる。
スタイルがいい彼女が着ていると、どこにでもありそうなウチの高校の制服もアイドルの衣装かのように見える。紺色の長いスカートから、キレイな膝小僧と太ももが覗き心臓が跳ねる。
「瀬川さん、おはよう。今日も暑いね」
「はい、おはようございます。確かに暑いですね……」
フウと息を吐いた後、瀬川さんがいつものニコッとした笑みを浮かべる。
それから頭のお団子をクシクシいじる。
「今日は突然お呼び立てしてしまい申し訳ございません。今から昼前までお付き合い願いたいのですが、よろしいでしょうか?」
「うん。問題ないけど……一体どこに行くの?」
「それは……、私についてきて下さい」
先を歩く瀬川さんの後を、自転車を押して着いていく。
心なしか、その後ろ姿が緊張しているように見える。
商店街を出て、広い通りを進む。
いつもの通学路から1本右に曲がった通りだ。その先にあるのは……
「……病院?」
「はい。本日はこちらにお邪魔いたします」
自転車を自転車置き場に止めて来ると、日傘を畳んだ瀬川さんが僕に向き直る。
「大鳥君」
「は、はい」
「今からある人に面会に行きます。私が話をしますから、大鳥君はこちらでメモを取るフリをしていて下さい」
「フリ?」
「はい。こちらで録音していますので」
瀬川さんが僕にノートとペンを手渡し、カバンからレコーダーのような物を出して見せる。
その表情には緊張感が滲んでいる。
いつも堂々としている彼女がこれほど緊張する相手。
一体どんな人に面会に行くんだろう。
病院の入り口を通り、受付で瀬川さんが面会の手続きをする。
パスのような物を渡され、首にかけた後入院病棟へと進む。
2階の渡り廊下を渡って、階段を上り3階へ。
瀬川さんの足取りは迷いがない。何度もここに来ているようだった。
その足が、ある病室の前で止まる。
「失礼します」
開けっぱなしの扉の前で立ったまま真の礼をし、瀬川さんが個室に入る。
「どちら様ですか?」
そのベッドの上で、1人のおばあさんが身体を起こして文庫本を読んでいた。
凜とした面持ち、
ピンと伸びた背筋。
何かの病気で入院しているとは思えないほど芯の通った姿は、1本の刀を思わせた。
瀬川さんが、おばあさんに向けて丁寧に頭を下げる。
「はじめまして。私達は季日南高校茶道部の者です。茶道のお話をお伺いしたくて参りました」
「あらっ、茶道をされているんですか? お若いのに感心ですね」
おばあさんが厳しい表情から一変して、やさしい笑顔になる。
そして実に楽しそうに瀬川さんに向けて、いや、季日南高校の茶道部部長に向けて話し続ける。
その目は瀬川さんを見ているようで、瀬川さんを見ていない。
まるで幻か何かを見つめているようだった。
「季日南高校は私の母校なんですよ。茶道部も私が1年生の時に立ち上げた部活で、今もまだ続いてるなんて嬉しいわ」
「はい。私が部長として大切に受け継いでいます」
「まあまあ、ありがたい話ね。私に茶道の話を聞きたいんですって? 何でも聞いて下さいな」
「はい、ではまず茶道の心得について……」
僕は瀬川さんに言われた事を思いだし、慌ててメモを取るフリを始める。
瀬川さんは緊張気味に、おばあさんは楽しそうに話をする。
その構図は、横から見ていて歪に見えた。
おばあさんは瀬川さんに聞かれた事に答えているようで答えていない。
けれども瀬川さんはそんなおばあさんを真剣な表情で見ている。
おばあさんの話は長々と脱線し、時系列が入れ違い、でも真剣に茶道の話をしている。
間違いなく、茶道に関係がある人だ。
というか、きっと……
瀬川さんが、おばあさんに向けて深々と礼をする。
「……本日は貴重なお話をお聞かせ頂きありがとうございました。こちら、『たちばな』のおはぎです。もしよろしければお召し上がり下さい」
「あら、『たちばな』の? ありがとう。ウチの茶道教室で使っているお店なのよ。ここのおはぎ、私も娘も大好物なの」
「……そうなんですね」
「金太さんの息子さんはお元気かしら? 最近生まれたばかりで、抱っこさせてもらったんだけど」
「……はい。元気です」
金太さんの息子、つまり三太さんの事だ。
三太さんが最近生まれたばかり? もう20歳になっているのに?
疑問に思う僕に向けて、瀬川さんが振り返り人差し指を立てて口に当てる。可愛い。
僕は口をつぐんで黙ることにした。
「改めまして、本日はありがとうございました」
「はい。こちらこそ楽しい時間だったわ。是非またいらして下さいね」
「……はい」
瀬川さんが頭を下げて病室を出る。
僕も慌ててその後を追った。
病室の前の名前を確認する。そこにあった名前は……『瀬川月代』。
「……大鳥君、お話は向こうの棟で致します」
「う、うん」
行きと同じように、迷いのない足取りで瀬川さんが入り組んでいる病院の中を進む。
それは彼女が何度もここを訪れている。いや、あのおばあさんをお見舞いに来ている事の証左だ。
なのに瀬川さんの事を、まるで初対面のように接していた事。
三太さんの事を生まれたばかりのように話していたのは……
「……こちらでよいでしょう。大鳥君、飲み物はお茶でよろしいですか?」
「あ、うん。自分で取ってくるよ」
「いえ、私が注いできます。……私に、少し時間を下さい」
人がまばらなロビーの席に荷物を置き、瀬川さんが紙コップにお茶を2つ注ぎ出す。
その背中は、あの夏合宿の時に見た泣き出しそうな子供のようなものだった。
「……お待たせしました」
たっぷり時間を使い、紙コップを2つ持って瀬川さんがこちらに来る。
瀬川さんに礼を言ってからお茶を受け取る。
小さな紙コップは熱すぎるほどのお茶で温まっており、手に持つのも一苦労だ。
テーブルに置いてしばらく冷ましてから一口飲む。
僕の向かいでは、瀬川さんが紙コップを両手で持ち、ジッとその水面を見ていた。
そして一口も飲まないまま机に置き、頭のお団子をクシクシいじり出した。
「……瀬川さん、あのおばあさんは一体誰なの?」
頃合いを見計らい、瀬川さんに問いかける。
瀬川さんは、紙コップのお茶を一口だけ飲みうつむいたまま僕の問いに答えた。
「瀬川月代。私のおばあさまです」
「……」
瀬川さんの答えに言葉を失う。
そんな僕を見ずに、瀬川さんがまるで独り言のように話し始める。
「私は1歳の頃からおばあさまに、茶道を教わり始めました」
「……」
「おばあさまはウチの茶道教室を切り盛りしていた方で……、それはそれは厳しいお稽古で有名で、子供が泣いて裸足で逃げ出すほど厳しい方でした。ですが親御さんからは評判がよく、『ウチの子も見て欲しい』『ウチの子も厳しく躾けて欲しい』と人気がありました。……今の世の中だったらどうか分かりませんが。当時は問題のある子でもしっかりした子になると評判でした」
「……」
「私も厳しくお稽古されました。正直イヤだなと思う時もありましたが、泣いても許してもらえませんし、甘くしてももらえません。作法を身につけるしかなかったんです」
「……」
「ですがそんな私とおばあさまの間に、亀裂が入る出来事がありました」
瀬川さんが、深いため息を吐いて紙コップのお茶を飲む。
彼女が置いた紙コップの底には、緑色のざらざらとした粉が残っていた。
「私が小学4年生の頃、家がお茶の教室である事をクラスの男の子達にからかわれまして……」
よくある話といえばよくある話なのかもしれない。
僕も小学生の頃教室でよく見た光景だ。
「ウチの茶道教室に見学に行くという授業があったのですが、その日以来給食の時間に牛乳やお味噌汁の茶碗で『おてまえちょうだいいたします!』や『けっこうなおてまえでした!』とイジワルをされまして……。先生や仲の良い子達が注意してくれたのですが、やめてもらえませんでした」
よくある話だ。その男の子達は瀬川さんの事が好きだったのかもしれない。
けれども瀬川さんには、それが耐えられなかった。
「私はおばあさまにこう言ってしまったのです。『もう茶道なんてしたくない。家が茶道教室じゃなきゃよかった』と」
「……」
「おばあさまはおっしゃいました。『では茶道をやめられて結構です。この家からも出て行きなさい』と」
「……」
「私は父方の祖父母の家に身を寄せて京都に移りました。仲の良かった子達と離れるのは寂しかったですが、あれ以上祖母と顔を合わせるのが苦しかったので」
「……」
「それから……ずっとおばあさまとは顔を合わせませんでした。お盆もお正月もこちらに帰らず、父方の京都の家で過ごしていました。そんな私に、天罰が下ったのでしょうね」
瀬川さんが、うつむいたまま悲しい笑みを浮かべる。
「おばあさまが、大病を患われて倒れられたのです」
「……」
「報せを受けてこちらに来れたのは、手術が終わった後でした。おばあさまは数日ほど意識を失っていたのですが、無事に目を覚まされました。そして面会に来た私に向けてこうおっしゃったのです」
「……」
「『どちら様ですか』と」
「……っ!」
先ほど会った時の会話で大体想像はついていた。
孫娘である瀬川さんを見ても、まるで初対面の人間かのように相手をしていたおばあさん。
あれは、瀬川さんの事を忘れているからなんだ。
「おばあさまは、認知症を患われてしまったのです」
瀬川さんが、頭のお団子をクシクシいじる。
気持ちを落ち着かせたい時の彼女の癖。
子供の頃におばあさんにしてもらって気に入っているという髪型。
もしかしたら彼女は、おばあさんに自分の事を思いだしてもらいたくてこの髪型にしているのかもしれない。
しかし現実は、残酷だ。
「私は京都の学校からこちらの学校に転校しました。おばあさまにいつでも会えるように。何度も会っていれば、私の事を思い出して下さるのではないかと思って。ですがおばあさまは、一向に私の事を思い出して下さる様子がありません。だから茶道をもう一度始めたのです。私とおばあさまを繋ぐ唯一のものである、茶道を」
絡まっていた毛糸が解けて1本の線になるように、これまで疑問に思っていた事が繋がっていく。
何故彼女が京都の学校にいたのか。
何故彼女がこっちに転校してきたのか。
何故、ウチの高校に茶道部を立ち上げたのか。
何故、季日南祭の前の打ち合わせで寧音姉の言葉に激高したのか。
そして何故、最近お茶を上手く点てられなくなっているのか。
瀬川さんが、空になった紙コップを見つめる。
そこにはもう、緑色の粉がへばりついているだけだった。
「お医者様のお話では、おばあさまはもってあとひと月ほどの命だそうです」
「……」
「一度家に帰る事はできるそうですが……それが最後の、家で過ごす時間になるだろうと言われました」
「……」
「お母様は私に言いました。『亭主として茶会を開きなさい。それがあなたがおばあさまにできる最後の孝行です』と」
「……っ」
あのお母さんらしいといえばお母さんらしいけど、残酷な話だ。
でもあのお母さんだって、もしかしたら辛いのかもしれない。
何せ自分の母親を、亡くす事になるのだから。
「大鳥君は、ご家族の誰かを亡くされた事がおありですか?」
「……父方の、おじいちゃんを小学校1年生の時に」
「……そうですか。私も母方の祖父をそのくらいで亡くしています」
瀬川さんが、空になった紙コップを手持ち無沙汰な様子でいじる。
弄ばれる紙コップは、まるで今の彼女の心の内のようだった。
「ですが今はその時とは違います。あの時は人が死ぬ事とか、悲しいとかもよく分からない内だったのですが……今は、おばあさまは、違うんです」
「……」
「私は……、おばあさまに認めてもらいたいのです」
「……」
頭のお団子に手を伸ばしかけて、やめた瀬川さんがうつむいたまま空の紙コップを両手で握る。
まるでぬくもりを、助けを求めるように。紙コップを両手で縋り付くように。
「大鳥君」
「な、何?」
「前にも話しましたが、そのお茶会に、出席して下さい」
「……」
「私を……、助けて下さい」
顔が上がり、瀬川さんの目が、まっすぐ僕を見る。
彼女と瓜二つの彼女の顔。
その表情は、何かに縋り付いていないと崩れ落ちそうなほど心細そうだった。
「分かったよ」
「……」
「瀬川さんが亭主を務めるお茶会、出席するよ」
「……ありがとう、ございます」
瀬川さんが、すっと手を差し出してくる。
僕はその手を、少し緊張しながら握った。
彼女の美しい手が、体温が、僕の手を握り返してくる。
言葉は、何もいらなかった。




