第八十四杯「もう一度最初からやり直して下さい」
9月に入ってもジリジリ熱い日と、蝉の鳴き声が聞こえてくる。
夏の延長戦が秋まで続き、このまま冬まで居座ってしまいそうだ。
ここ、茶道部の部室がある季日南高校の旧校舎は新校舎が影になっているから直射日光がない分涼しいけれど、晴れた日は蒸し暑い。
「あー、暑いー。暑いですー」
輝木さんがバッサバッサとスカートをはためかせてる音が背後から聞こえてくる。
「か、輝木さん! 下着が見えてしまっていますよ!」
「暑いんだから仕方ないじゃないですかー。それにどーせここには女子とヘタレしかいないから大丈夫ですよー」
……輝木さんの挑発を無視して、僕はお弁当を摘まむ。
期末試験が終わっても、昼休みに部室に集まりお弁当とお茶をする習慣が茶道部の部員達にはついていた。
「大鳥君、さっきの授業のここってどういう事なんでしょうか?」
「ああ、この問題はね……」
4時間目の数Ⅱの問題を板野さんに解説する。
瀬川さんと板野さんの勉強を見る事も続いている。
また中間試験もあるし、いい傾向だ。板野さんも瀬川さんも順調に力をつけている。
「それにしてもー、会長先輩はまた生徒会長選挙の準備ですかー? あの人、いつになったら引退するんですかー?」
「10月の文化祭が終わったら引退だそうですよ。それまでは生徒会長を続けるのが我が校の慣習だそうです」
ここ最近、選挙の準備で忙しい寧音姉に代わり瀬川さんに答える。
今週は月曜から金曜まで、寧音姉は昼休みも返上して自分の後継となる生徒会長選挙の準備をしていた。
生徒会長になったばかりの人間がいきなり文化祭を仕切るのは難しいから、3年生の生徒会長がそこまでやるのがウチの高校の慣例らしい。
「結衣菜はどーでもいいんですけどー、あの人受験大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。寧音姉は推薦だし、夏休み中も予備校や学校に通って面接の練習とかしてたみたいだし」
万が一推薦でダメだったとしても、一般入試で合格できるだろう。
綾瀬寧音という人間は、この学校よりもっとレベルの高い進学校に進んでいてもおかしくない人間なのだから。
「地元の大学の薬学部でしたっけ? ご両親のどちらかが薬剤師なんですか?」
「ああうん。両方とも薬剤師だよ。お父さんが市民病院の薬剤師、お母さんが大学病院の薬剤師だね」
「うわー、インテリ一家ー。なんなんですか、存在がイヤミなんですかあの人」
板野さんの問いかけに答えると、輝木さんがウンザリした表情でそう言う。
そんな輝木さんに瀬川さんがやんわりと諭した。
「輝木さん、そういう事を言ってはなりません。たくさんの人を救う薬剤師というお仕事を目指す綾瀬先輩の志は立派なものです。それを揶揄してはいけませんよ」
「はーい」
堅苦しい瀬川さんの説教を、輝木さんが面白くなさそうに受け流す。
少しは距離が縮まったかと思ったけど、寧音姉の事がまだ気に入らないようだ。
「それでは皆さん、自分で飲む分のお茶を点ててください」
しばらくして、食事を取り終えた僕達に瀬川さんがそう促す。
今までは瀬川さんが僕達の分のお茶を点ててくれていたけれど、上達のためにも自分でお茶を点てるというのが茶道部の決まりになった。
おかげで最近瀬川さんの点てたお茶を頂けてないのは寂しいが、まあ仕方ない。
輝木さんから風炉の前に座り、盆略点前をする。
輝木さんも僕も、作法については瀬川さんから何も言われなくなっていた。
けれども点てるお茶はまだまだだ。上手く泡立てる事ができず苦い味がする。
隣の輝木さんも、自分で点てたお茶を自服して苦い顔をしていた。
「次は板野さん、お願いします」
「はい」
経験者の板野さんがお茶を点て始める。
瀬川さんほどではないけれど、上手にお茶を点てられる彼女はこれまで一度も瀬川さんに指導された事がない。
今日も淡々と薄茶を点てている。
それは僕達の物とは違いキレイに泡立っていた。
やっぱり経験者は……
「板野さん」
「はい」
「最初からやり直して下さい」
「「えっ?」」
僕と輝木さんの驚きの声がシンクロする。
「……」
板野さんが、瀬川さんを見つめる。
瀬川さんはピシッと背筋を伸ばした姿でまっすぐ板野さんを見ていた。
「聞こえませんでしたか。もう一度最初からやり直して下さい」
「どうしてですか?」
板野さんの返事に、不穏な空気が流れる。
薄茶の匂いも、どこか苦い味がした。
そんな空気を無視して、瀬川さんが板野さんをまっすぐ見据えたまま口を開く。
「言われないと分かりませんか?」
「……分かりません」
「では、もう一度最初からやり直して下さい」
「「「……」」」
流れる不穏な空気。
板野さんの作法には特に問題がなかったように思える。
なのにどうして瀬川さんは彼女にお茶を点て直すよう言うのか。
「……少し頭を冷やしてきます」
「分かりました。どうぞ」
その場を立った板野さんから目を離し、瀬川さんが自分で自分の分のお茶を点て始める。
「……」
輝木さんが、僕の脇腹を突っついてきて、板野さんが出て行った部室の扉を目で示す。
後を追え、という事らしい。
『僕が?』
『先輩がですー』
アイコンタクトで会話をし、仕方なしに立ち上がる。
「ちょ、ちょっとお手洗いに……」
畳の上を歩き、上履きを履いて茶道部の部室を出る。
瀬川さんは、何食わぬ顔で自分が点てたお茶を自服していた。
けれども今日も納得のいく出来じゃなかったのか、難しい横顔をしていた。
部室を出て外を見回す。
廊下の先には誰もいない。
空き教室の扉が開いている感じもない。
僕は階段を降りて2階を探す。
そして2階の中程、お手洗いの前の廊下で板野さんの姿を見つけた。
「板野さん」
「……大鳥君、どうかしましたか?」
「いや、あの……どうかしたって訳じゃないんだけど。どうしたんだろうと思って」
しどろもどろに言う僕に、板野さんがハアとため息を吐く。
「大鳥君って、他人に興味ないタイプですよね」
「……」
「クラスでも誰とも話しませんし、関わろうともしてませんし」
「……」
「まあそれは私も同じなんですが、大鳥君は瀬川さんの事になると人と関わろうとしますよね。自分から進んでっていう感じではないですが」
「……まあ、そうだね。今も輝木さんに押されて来たって感じだし」
「瀬川さんの事が、好きなんですか?」
「……」
直球の質問に、詰まる。
インコースに振り遅れた時のような痺れが全身を貫いた。
あまり僕に関心なさそうな板野さんに、こんな事聞かれるなんて思ってもみなかったから。
「……まあ私はどうでもいいのですが」
フウ、と息を吐いて板野さんが外を眺める。
その目尻が少し潤んでいる事に今更ながら気づき、僕は板野さんに倣って窓から空を眺めた。
夏の入道雲は姿を消し、秋のいわし雲が広がっている。
なのに夏の風物詩である蝉の声が聞こえてくる。世界が狂っているみたいだ。
「板野さん」
「何ですか」
「どうして瀬川さんは、板野さんにお茶を点て直すように言ったの?」
「……」
こちらの問いかけに、板野さんが押し黙る。
あまり感情を表にする事がない彼女は、読めない相手だ。
「板野さんの作法は、問題ないように見えたけど、どうして」
「そういう問題じゃないからですよ」
「え?」
「それ以前の問題なんです」
「???」
禅問答のような答えに、頭にハテナが浮かぶ。
作法の問題じゃなくて、それ以前の問題? 一体どういう事だ?
というか、板野さんの口ぶりからして……
「板野さん、瀬川さんがお茶を点て直すよう言った理由が分かってるの?」
「はい」
「じゃあどうして『分からない』って言ったの?」
「……認めたくないから、ですかね」
認めたくない? 一体何を?
疑問を抱く僕の横で、板野さんが横顔に苦い表情を浮かべる。
「気づいてますか?」
「? 何に?」
「瀬川さんが、これまで一度も私達の点てたお茶を飲んでいない事に」
「………………あっ」
板野さんに言われハッとする。
言われてみればそうだ。
彼女は一度も僕達が点てたお茶を飲んだ事がない。
できばえを確認するための味見ですら、した事がない。
いつも自分で、自分が飲むお茶を点てて飲んでいる。
そしてそれは……
「瀬川さんは、私達の事を認めていないんでしょうね」
「……」
「多分無意識で悪気はないんでしょうが……、あまり気分のいいものではないですよね」
「……」
瀬川莉子という人間は、自分に厳しい人間だ。
そしてそれは他人に対しても同じ事が言える。
彼女の中では、僕達のお茶は飲むに値しないという事なのだろうか。
指先から身体を、冷え冷えとしたものが覆い始める。
「そろそろ戻りましょうか。お昼休みも終わってしまいますし」
「ああ、うん……」
気持ちを切り替えた様子で、板野さんが廊下を歩き始める。
けれども僕は、手足を上手く動かす事ができない。
もし彼女が、僕の事を認めてくれていないのだとしたら。
――――――あの日僕の願った事は、ただの夢見事でしかないんだろうか。
明日は土曜日。
瀬川さんと約束し誰かに会いに行く日。
僕は、冷たい身体を引きずって3階の茶道部の部室へ戻っていった。




