第八十杯「瀬川莉子の回想」
「綾瀬せんぱーい、お待たせしましたー」
「瀬川さん、遅かったわね? もうソフトボールの試合、終盤に入っちゃってるわよ」
「思いもよらず勝ち進んでしまいまして……」
4月の後半。
この学校に転校して1ヶ月が経とうとしている中でのクラスマッチ。
クラスで浮いている私は卓球に回されて、なぜだか男子の観客が多い中、準々決勝で3年生の先輩に負けるまで勝ち進んでしまいました。
そんなに運動神経がいいという訳でもないのですが……
綾瀬先輩と待ち合わせをしていた、ソフトボールの試合が行われているグラウンド。
その1塁側に立てられたテントに入ります。
選手も観客も熱中症にならないようにと配慮されているようです。
「今日は日差しが強いわ。これを被って」
「? あ、ありがとうございます」
綾瀬先輩に帽子を手渡され、頭に被ります。
確かに日差しはありますが、それほど強い訳ではないですし、ここはテントの下なのですが……
しかも少し大きいです。目深に被ってしまった帽子の位置を直して視界を確保します。
「これもつけて。感染症流行ってるから」
「え? あ、ありがとうございます……」
その上新品の白いマスクを手渡されました。
感染症なんて、最近流行ってないんですが。
テントの下にいる人も、誰も着けてないですし……
しかし断って心証を悪くするのもなんですし、カバーを破ってマスクを着けます。
「綾瀬先輩、今度茶道部に体験入部に来られる方というのはどなたですか?」
「今ショートを守っている男の子よ。瀬川さん、ショートって分かる?」
「あ、はい。分かります」
三塁と二塁の間を守るポジション、ショートの位置に半袖シャツ、長ズボンの男子がやる気なさそうにグラブを構えています。
な、なんでしょうあのやる気のなさは。
ショートはよく打球が飛んでくるポジションなのに、なんであんな人を守らせてるのでしょう。
と、思っていたらバッターが二遊間へ鋭い打球を放ちます。
やる気なさそうに構えていたショートの男子が、ピッチャー横を抜けた打球に追いつき素早くファーストへ送球しました。
「アウト!」
歓声と嘆きの声がグラウンドに交差します。
しかしそんな中でも彼は、1人だけダルそうにこちらと反対側のテント、3塁側のテントへ引っ込んで行きます。
「綾瀬先輩、彼が……?」
「2年1組の大鳥君よ。今度茶道部に体験入部に行かせる子」
「もしかして、野球経験者ですか?」
「あら? 分かるの?」
「はい。父が野球好きで、よくプロ野球や甲子園の試合を見ていましたから」
構え方はやる気なかったですが、打球が飛んできてからの素早い処理の動きは明らかに野球経験者の動きでした。
「まあ本職はショートじゃなくて、ピッチャーだったんだけどね……」
「え?」
「何でもないわ。それより、彼がバッターボックスに入るわよ」
バッター3ばーん、と相手チームが声をかける中、さきほどショートを守っていた彼が気怠そうに歩いて右バッターボックスに入ります。
ほぼ棒立ちのような構えで、バットを肩に担いでボールを待っています。
自然体と言えなくもないかもしれませんが、傍目にはやる気がないようにしか見えません。
なんでこの人が3番バッターなのでしょうか。
と思っていたら彼がバットを振り抜き、鋭い当たりがセカンドの頭上を越えて右中間を転がります。
彼は悠々、2塁まで達しました。
「綾瀬先輩! ツーベースですよツーベース!」
「まあ、野球をやってたんだしあれくらいはね」
興奮する私と対照的に、冷静ながらもどこか自慢気に綾瀬先輩が言います。
流し打ちであれだけのバッティングができるのなら、相当いいバッターだったんじゃないでしょうか。
2塁上に立っている彼を見ます。
キリリとした眉に、鋭い目元。
今時の中性的なイケメンではなく、昭和の男前という感じです。
和服を着せれば似合いそうな気がします。着せてみたいです。
次のバッターのレフト前ヒットで、彼がホームに帰ってきます。
チームメイトが彼にハイタッチを求めますが、彼は片手で渋々と言った感じでハイタッチしています。温度差がすごいです。
試合は6回の裏、2対1で彼のチームがリードしているようです。
それにしても何なのでしょうか、あのやる気のなさは。
「綾瀬先輩、彼は野球が嫌いなのですか?」
「……嫌いではないのでしょうけど、元々あまりやる気がなかったのよ。お父さんに言われたから始めたってだけだったし。……あの事があって、すっかり情熱も冷めてしまったようだし」
「え?」
「何でもないわ」
綾瀬先輩が前を、いえ彼をジッと見つめ始めます。
何があったか聞いても答えてくれなさそうです。
そして試合は最終回の表、1点差を追って3年生のチームが円陣を組みやる気満々で声を上げます。
そのおかげでしょうか、先頭打者からヒット、フォアボール、ヒットと続きノーアウト満塁のチャンスを作ります。
たまらず守備についている2年1組の内野陣がタイムをかけてマウンドに集まります。
「……あれ? 何やら揉めていますね?」
何やら紛糾し始めています。
彼が「話が違う」と声を上げています。一体どうしたというのでしょうか。
「……まあ、想像はつくけどね」
ため息を吐く綾瀬先輩。
その視線が痛ましく、けれども何かを期待する目で彼を見つめています。
やがて審判に促され、マウンドの輪が解けます。
そのマウンドにいたのは……彼でした。
「えっ? 彼がピッチャーするんですか?」
「そのようね。大方『ショートを守ってくれるだけでいい』って誘われてたんでしょうけど」
渋々と言った感じで、彼がマウンドから投球練習を始めます。
左足を引いて、グラブとボールを持った手を下に下げ、ウインドミルの豪快なフォームから……快速球を投げ込んできました。
「「「「速っ!!?」」」」
グラウンドが驚きの声に包まれます。
「何でもっと早く出てこなかったんだ」「あんなの反則だろ」「あれ西中の大島じゃね?」という声があちこちでします。
そんな声など気にしない様子で、彼が3球の投球練習を淡々と投げ終えます。
3年生の男子が、緊張の面持ちでバッターボックスに入ります。
運動部らしい大柄な男子ですが、雰囲気に呑まれているようです。
そう、彼には雰囲気があります。
まるで大○翔平や○ルビッシュ有投手のような、マウンドに立ってるだけでバッターを圧倒するエースの雰囲気が……
1球目の速球が、キャッチャーのグラブに吸い込まれます。
バッターは初球からスイングをかけましたが、かなり振り遅れています。
2球目の速球も、キャッチャーのグラブに吸い込まれます。
これまた振り遅れたバッターが、汗を拭いバットを短めに握り直します。速球に対応するためでしょうか。
3球目。
ウインドミルのモーションに入った彼がボールを投げます。
そのボールをスイングしたバッターが腰砕けに崩れます。
「チェ、チェンジアップ……!」
速いボールと思わせて、少しスピードを抜いたボールのチェンジアップでバッターを三振に取った彼が涼しい顔でキャッチャーからのボールを受け取ります。
「中学時代もよく使ってたわ。彼、変化球が得意なのよ」
「綾瀬先輩、彼は一体……?」
「中学時代に2年生エースとして弱小だった野球部を県大会に導いた、その界隈では有名だったピッチャーよ。3年になってからは、ほとんどマウンドに立てなかったけど」
あっという間に次のバッターも三振に取った彼が、面倒そうな表情でボールを受け取ります。
マウンドに立てなかったという事は、どこか故障でもしてたのでしょうか?
今投げている姿は、どこも異常ないように見えるのですが……
3年生チームの、野球部らしい坊主頭の先輩が左バッターボックスに入ります。
期待されている先輩のようです。
こちら側のテントから大きな声援が飛びます。
しかし彼はそんなのお構いなしと言った感じで、マウンドに立っています。
まるで戦国武将を相手にも、一歩も引かない茶人のような佇まい。
そこから左足を引いて、両手を下げてウインドミルのモーションに入ります。
ガッシャン!
真後ろに飛んだファールボールがネットを揺らします。
初めて彼のボールがバットに当てられました。
ボールが後ろに飛ぶのはタイミングが合っている証拠です。
3年生達が「いける!打てるぞー!」と声を上げます。
しかしマウンドに立つ彼はどこ吹く風。涼しい顔で新しいボールを受け取ります。
2球目。
振り遅れ気味のファールが3塁側に飛びます。
バットに当てられたというのに速球を続ける大胆さ。
相手が3年生の野球部、しかも左打者でも関係なしと言った感じです。
「……ちょっとだけ、燃えてきたようね」
隣で綾瀬先輩が独りごちます。
そう、彼も少しだけ燃えてきたようです。
タイムを取って足元を均し、シャツの袖で手を拭います。
緊張感と歓声と、滾るような熱気がグラウンドを交差します。
そして彼が、ウインドミルのモーションに入ります。
「ストライク! バッターアウト!!! ゲームセット!!!」
ワアアアっという歓声がグラウンドをこだまします。
高めのボール球の快速球。
チェンジアップが頭にあったのか、空振りしてしまった坊主頭の先輩が悔しそうに左手で太ももを叩きます。
けれども彼は、やっと終わったかという顔でマウンドを降りて整列に向かい始めました。
はしゃいでいるチームメイトたちとは、対照的です。
その姿から、目が離せません。
胸がドキドキと高鳴り、頬が熱くなってきます。
綾瀬先輩が何か話しかけていますが、耳に入りません。
すべての感覚が、彼だけを追いかけてしまいます。
大島君? でしょうか。彼の事だけしか考えられなくなってしまいます。
そんな私の事など目もくれず、彼がグラウンドを引き上げていきます。
彼に、お茶を点てたい。
後ろ姿を見ながら私はそう思いました。
こんな気持ちになったのは生まれて初めてです。
この気持ちに名前を付けるなら……恋でしょうか。
その日、私は。
瀬川莉子は、彼に心奪われ恋をしたのでした。
これで第3章は完結です。




