第七十九杯「彼女の頼み」
「大鳥君、何を読んでるんですか?」
「え? ……ああ、プロ野球選手が書いたピッチングの本だよ。変化球の投げ方を学ぼうと思ってね」
「変化球……。そういえば大鳥君、野球部のエースになったんですよね! おめでとうございます!」
「アハハ……、僕はピッチャーより内野でも守ってる方が気楽なんだけど」
「1年生なのにすごいです! 尊敬します!」
「いやあ……、2年生の先輩達を差し置いてマウンドに上がるのは気が引けるんだけど……」
「そんな弱気じゃダメですよ! マウンドに立ったら自分が主役だ!くらいの気持ちで行かないと!」
「椎名さん、野球好きなの?」
「はい! W○Cを観て好きになりました!」
「そうなんだ。椎名さん家、ネ○フリ契約してるんだね」
「お父さんが『どうしても観たい』ってお母さんに泣きついて、契約してました。最初は渋っていたお母さんも、今はドラマにハマってるんですけどね」
誰にでも気さくに話しかけてきて、誰とでも仲良くなれる女の子。
そんな彼女を好きな男子は数え切れないくらいいる。その1人が僕だ。
彼女に話しかけられるのをじっと待ち、話している間は天にも昇る気持ちになる。
けれども彼女にとって僕は、他の男子女子と同じクラスメートの1人。
そして残念ながら、それはこれからも変わらない。
「ネト○リのドラマかー。面白いっていうもんね」
「はい。前は『食事中にテレビを観ちゃいけません』って言ってたのに、今はお母さんが食事中もテレビに夢中です」
「アハハ、そうなんだ」
特に意味のない、他愛のない会話。
1回精々5分程度の立ち話。
そんな時間が何よりも待ち遠しい時間だなんて、何てささやかな幸せなんだろう。
「莉心ー、部活行くよー」
「あ、はーい! それでは大鳥君、また今度」
「うん、また」
「野球部の練習、頑張って下さいね! 応援してます!」
お世辞でもおべっかでもなく、本心でそう言ってくれる彼女。
でもその言葉は、他の皆にも言っている事だ。
誰に対しても公平で、誰に対しても平等。
その気持ちを独り占めしたいと考えるのは、傲慢だろうか。
………
……
…
「……大鳥君」
「んんっ……」
「……大鳥君、起きてください。大鳥君」
「んんっ……?」
何かが、
いや、誰かの手が僕の肩を揺さぶっている。
柔らかくて優しい手が、僕の肩を申し訳なさそうに揺さぶっている。
「……んんっ? ……椎名さん?」
重たいまぶたを開けると、薄暗い室内に先ほどまで夢で見ていた彼女の顔が目の前にあった。
「しいなさん?」
彼女の顔が、いや、彼女と瓜二つの顔が小首を傾げる。
「……瀬川さん?」
「はい。瀬川です」
「……おはよう」
「おはようございます」
眠い目をこすって身体を起こし、挨拶する。
いつものお団子頭じゃなく、髪を解いた瀬川さんがベッドの脇にいた。
時計を見ると、時刻はまだ朝の5時半だ。
朝5時半で寝坊って事はないだろうし、僕の朝食当番は昨日で終わっている。
「……どうしたの? 何かトラブルでもあった?」
何かあったのかと思い問いかけると、瀬川さんが首を横に振る。
「いえ、大鳥君とお話したい事がありまして……」
「話したい事?」
「ここで話すのはなんですし……少し、外を歩きませんか?」
………
……
…
夏の日差しが朝から降り注ぐ。
けれども涼しく感じる。内陸なら朝から30度を超えているだろうが、こちらは海が近いからか涼しい。
「風が気持ちいいね」
「はい、そうですね」
顔を洗って少し眠気の取れた顔に海風が心地よく流れる。
本当に気持ちのいい3日間だった。
茶道のお稽古の時間が減って、海で瀬川さんの水着姿を拝める時間が増えてたらもっとよかっただろうけど。
「大鳥君、この合宿はいかがでした?」
「楽しかったよ。ご飯はおいしかったし、海水浴も楽しめたし、盆略点前をマスターできたし……。ただしなくてもいい心霊体験もしちゃったけどね」
「アハハ……、本当に申し訳ございません……」
瀬川さんが苦笑いを浮かべながら頭のお団子を……お団子がない事に気づき頭をクシクシいじる。
本当に瓜二つだ。
髪を解いている姿はより椎名さんに似ている。
でもやっぱり瀬川さんにはあのお団子頭の方がよく似合ってると思った。
「瀬川さんって、いつからあのお団子頭にしてるの?」
「物心ついた時にはしていましたね。小さい頃の写真からお団子頭でした。おばあさまが、してくれてたんです」
「おばあさんが」
「はい。今は自分でできますけど、おばあさまがあの髪型にしてくれてたんです」
瀬川さんが、どこかいつもと違う笑顔を浮かべる。
何かをガマンしてる子供が、心配かけまいと作ってるような笑顔だ。
瀬川さんが、その笑顔のまま言葉を続ける。
「こちらに来るのは7年ぶりなんです。前は毎年のように家族で来ていましたから」
「そうなんだ」
「はい。私が10歳の時に一度茶道をやめるまでは毎年、来ていましたから」
「え?」
彼女の口から出てきた言葉に驚く。
10歳の時に一度茶道をやめた?
あんなに茶道に真剣で、おそらく茶道の事を愛している彼女が?
瀬川さんが、いつもはお団子がある位置の髪をクシクシいじる。
「私、一度茶道をやめてしまった事があるんです。もう一度始めたのは、この春からなんです」
「そうなんだ……、てっきりずっと続けてたものだと思ってたよ」
「いいえ、ずっと離れていたんです。茶道から、…………から、ずっと」
後半よく聞き取れなかったけど、聞き直す気になれない。
瀬川さんの顔が、あまりにも辛そうで苦しそうだったから。
おそらくこれは、彼女にとって踏み込まれたくない何か。
そう察して押し黙る。
瀬川さんが足を止めて海を見つめる。
その視線は水平線に浮かぶ朝焼けを、いや、更に遠くの届かない何かを見つめていた。
――――――キレイだ。
そんな陳腐な言葉しか出てこない。
美しい横顔に、それ以上の言葉はもう蛇足としか思えなかった。
潮騒と心臓が高鳴る音が重なる。
彼女はどうして僕をここに連れ出したんだろう。
まさか、
まさかまさかまさか。
『私が大鳥君の事が好きだからです』
前に聞いた言葉が頭の中でリフレインする。
ドクドクと手足の先から耳の先まで血液が沸騰したやかんのように沸き立っていく。
「大鳥君」
瀬川さんが、意を決したようにこちらを向いた。
その顔は、とても真摯で、切実で、真剣なものだった。
緊張が、張り詰めた弓の弦のように高鳴る。
「う、うん」
「大鳥君に、お願いしたい事があるんです」
「な、何?」
「9月に……いつになるかはまだ分からないのですが、ウチで私が亭主を務める茶会があるんです」
「茶会?」
瀬川さんの言葉を、頭の中で咀嚼する。
亭主とは、茶会を取り仕切る役割の事だ。
またお母さんから課された何かの試験だろうか……?
「その茶会に、参加して頂けますか?」
「茶会に参加って……、瀬川さんを補佐する半東とかで?」
「いえ、末客というか見届け役というか……とにかく、見届けて頂きたいのです」
「……」
瀬川さんが、立ったまま『真の礼』をした後こちらをジッと見つめてくる。
痛くて苦しくて、まっすぐな瞳。
断るという選択肢は、浮かべる事すら許されなかった。
「……分かったよ。瀬川さんが亭主を務める茶会、参加するよ」
「ありがとうございます。詳しい事は、また今度ご連絡しますね」
いつもと違うニコッとした笑みを浮かべて、瀬川さんが踵を返す。
僕を追い越して、来た道を戻り始める。
砂浜を歩く足取りは、心なしか重たかった。
「………」
その後ろ姿は、いつものように背筋が伸びて凜としている彼女のものだ。
1本筋が通っていて、力強く、美しい。
けれどもどこか、
転んでしまって泣くのをガマンしている子供のように、心細いものに見えた。




